日本国紀研究 その5

「文永の役・弘安の役」の記述内容について

 さて、日本国紀を研究していると、「これ、wikipediaの要約っぽいなー」と感じることがしばしばあります。今回は、その中でも特に大規模に要約、引用がなされた可能性を感じる箇所を報告いたします。その箇所とは、日本国紀P97からP104に渡って書かれた「文永の役」「弘安の役」の章、つまり「元寇」の部分なのですが、これがwikipedia「元寇」の要約、引用なのではないかという疑いがあります。かなり長文になりますので、ご了承ください。

①日本国紀P98
 執権だった北条政村は、この国難に際し、鎌倉武士団の団結を高めるため、62歳である自身は引退し、北条得宗家(本家嫡流)の時宗に執権の座を譲った。驚くべきことに、この時、時宗は満16歳であった。

wikipedia「北条政村」
 文永5年(1268年)1月に蒙古国書が到来すると、元寇という難局を前に権力の一元化を図るため、同年3月に執権職を18歳の時宗に譲り、64歳の政村は再び連署として補佐、侍所別当も務める。

コメント:年齢の計算の仕方の違いでwikiと日本国紀に違いはありますが、難局に際して北条政村が時宗に執権の座を譲った事が書かれています。

②日本国紀P98
 当時、外交の権限を持っていた朝廷は、蒙古からの国書にどう対応していいかわからず、おろおろするばかりだったが、北条時宗は、蒙古とは交渉しないという断固たる決定を下した。蒙古はその後、何度も使節を寄越したが、時宗は返書を出そうとする朝廷を抑えて、黙殺する態度を貫いた。

wikipedia「元寇」の”第二回使節”
 当時の国政は、外交は朝廷の担当であったため、幕府は朝廷に国書を回送した。朝廷と幕府の仲介職である関東申次の西園寺実氏は幕府から国書を受け取ると、院政を布く後嵯峨上皇に「異国のこと」として提出した。蒙古国書への対応を巡る朝廷の評定(ひょうじょう)は連日続けられた。

wikipeida「元寇」の”第四回使節”
しかし、幕府は評定により「返牒遣わさるべからずの旨」を決し、朝廷に返書しないことを上奏した。朝廷が幕府の提案を受け入れたため、モンゴル帝国からの使節は返書を得ることに失敗し帰還した。

③日本国紀P99
 最初の国書が送られてきてから6年後の文永11年(1274)10月5日(新暦では11月11日)、フビライはついに日本に軍隊を送り込んできた。(一行略)蒙古軍は700~900艘の軍船に、水夫を含む4万人の兵士を載せて襲ってきた。内訳は蒙古人2万人と、蒙古に征服されていた高麗人1万人だった。(他に1万人の水夫がいた。)

wikipedia「元寇」”元・高麗連合軍の出航”
1274年(文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した。

コメント:次の項目でもわかりますが、対馬上陸が10月5日なので、日本国紀では日本に軍隊を送り込んできた日を10月5日としているようです。軍船の数、兵士の数の表記はほぼ同じです。

④日本国紀P99
蒙古・高麗軍はまず対馬を襲い、多くの島民を虐殺した。次に壱岐を襲い、同じく多くの島民を虐殺した。この時、蒙古軍は捕虜とした島の女性たちの掌に穴を空け、そこに縄を通して船べりに吊り下げた。おそらく迎撃する日本の兵を恐れさせるためであったと考えられる。

wikipedia「元寇」”対馬の惨状”
『高麗史』金方慶伝によると、元軍は対馬に入ると島人を多く殺害し(以下略)

この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。(中略)この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。

⑤日本国紀P100
 10月20日(新暦11月26日)の夜、蒙古・高麗軍の軍船は一斉に引き上げた。

wikipedia「元寇」"元・高麗連合軍撤退”
『金剛集』によると、10月21日の午前6時頃に元軍は悉く博多湾から撤退した。

⑥日本国紀P100
蒙古軍の船は高麗に戻る途中、多くが沈み、無事に帰国できたのはわずか1万7千人ほどだったと伝えられる。難破した蒙古・高麗軍の船百艘ほどが九州に漂着したという記録もある。

wikipedia「元寇」"元・高麗連合軍撤退後の状況"
また、『金剛集』によると、元軍船100艘余りが至るところに打ち寄せられており、元軍の杜肺子・白徳義・羡六郎・劉保兒の4名が捕虜となったという。

wikipedia「元寇」”元・高麗の損害・状況”
文永の役で元軍が被った人的損害は13,500余人にも上った。

コメント:wikipediaには被害状況が記載されていますが、無事に帰国した人数1万7千人というのは記述がありません。おそらく、「軍の還らざる者は一萬三千五百餘人」というwikipedia「元寇」の中の別の記載を見て、文永の役に参加した兵士3万人引く1万3千人で1万7千人としたのかと思われます。

⑦日本国紀P100
かつては蒙古軍に大きな被害を与えたのは台風とされてきたが、新暦の11月の終わりは大型台風が来る季節ではなく、またその記録もなく、現代では「台風説」は否定されている。

wikipedia「元寇」"神風と元軍撤退理由"
ただ、この撤退途上に元軍が遭遇した暴風雨については、気象学的には11月下旬には台風の渡来はなく、あったとしても単なる強風であったろう。

⑧日本国紀P101
「文永の役」があった翌建治元年(1275)、フビライは日本を服属させるために再び使節団を送ってきたが、時宗はその使者を斬首に処した。(中略)この使者たちは日本の地理や国情を調べる偵察員でもあった。

wikipedia「元寇」”第七回使節”
1275年(建治元年・至元12年)2月、クビライは日本再侵攻の準備を進めるとともに日本を服属させるため、モンゴル人の礼部侍郎・杜世忠を正使、唐人の兵部侍郎・何文著を副使とする使節団を派遣した。

使節団は長門国室津に来着するが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に連行すると、龍ノ口刑場(江ノ島付近)において、杜世忠以下5名を斬首に処した。これは使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる。

⑨日本国紀P101
弘安4年(1281)、蒙古は再度、日本侵攻のための軍隊を送り込んだ。今度は前回の威力偵察のようなものではなく、一気に日本全土の制圧を狙った大軍勢だった。
 5月、蒙古軍と高麗軍の兵士約4万人を乗せた900艘の軍勢が高麗を出港した(東路軍)。
 江南からは約10万人の旧南宋軍の兵士や水夫を乗せた軍船3500艘が出港した。(江南軍)合わせて約4400艘という艦隊はそれまでの世界史上最大の規模であった。

wikipedia「元寇」”弘安の役”
1281年(弘安4年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000~156,989人および江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった。

⑩日本国紀P102
5月21日(新暦6月16日)、江南軍よりも先に到着した東路軍は対馬を襲った後、博多湾上陸を試みたが、20キロにわたる石塁(高いところでは3メートルにも及ぶ)と、鎌倉武士団の激しい抵抗にあい、上陸を断念する。

wikipedia「元寇」”博多湾侵入”
対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし日本側はすでに防衛体制を整えて博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いており、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。日本軍の中には伊予の御家人・河野通有など、武勇を示すために石築地を背に陣を張って東路軍を迎え撃った者さえもいた。後に河野通有は「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ称賛された。この石築地は、最も頑強な部分で高さ3m、幅2m以上ともされており、(以下略)

⑪日本国紀P102
6月6日、東路軍は志賀島(現在の福岡県)を占拠して、ここを軍船の停泊地とする。その夜、日本軍は夜襲をかけて元軍を脅かす。さらに8日と9日、日本軍は志賀島に総攻撃を開始し、蒙古軍を打ち破った。東路軍は志賀島を捨てて、壱岐に退却し、後から来る江南軍を待つことにした。ところが合流期日である15日になっても江南軍は到着しなかった。東路軍は連日の敗戦で疲弊し、疫病も蔓延し、三千人もの死者が出た。

wikipedia「元寇」〝志賀島の戦い”
6月6日、博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした。東路軍の管軍上百戸・張成の墓碑によると、この日の夜半、日本軍の一部の武士たちが東路軍の軍船に夜襲を行い、張成らは軍船から応戦した。やがて夜が明けると日本軍は引き揚げていった。6月8日午前10時頃、日本軍は軍勢を二手に分け、海路と海の中道伝いの陸路の両面から志賀島の東路軍に対して総攻撃を敢行した。

 6月9日、東路軍の張成らは防御に徹して陣を固め、攻め寄せる日本軍に対抗するなどして奮戦した。しかし、この日の戦闘も日本軍が勝利し、東路軍は敗戦を重ねた。
この志賀島の戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにした。

コメント:日本国紀では国号を元と改めた後も「蒙古軍」と呼称する、と筆者が注記をしているにも関わらず「元軍」という表現が登場する箇所である。筆者や編集者、校閲者のチェックが甘いことがうかがえる。

wikipedia「元寇」”東路軍軍議”
ところが壱岐島の東路軍は連戦の戦況不利に加えて、江南軍が壱岐島で合流する期限である6月15日を過ぎても現れず[265]、さらに東路軍内で疫病が蔓延して3,000余人もの死者を出すなどして進退極まった。


⑫日本国紀P102
6月下旬、江南軍の一部が壱岐に到着して東路軍と合流した。遅れて本隊が平戸島に到着した。ついに四千艘を超えるとてつもない船団が壱岐から平戸島一帯を覆った。

wikipedia「元寇」"江南軍の先遣部隊”
先立って江南軍は、東路軍に向けて平戸島沖での合流を促す先遣隊を派遣し、壱岐島で先遣隊が東路軍と合流した。

wikipedia「元寇」"江南軍の平戸島・鷹島到着”
6月下旬、慶元(寧波)・定海等から出航した江南軍主力は7昼夜かけて平戸島と鷹島に到着した

⑬日本国紀P102
しかし勇敢な日本軍は6月29日、壱岐の東路軍に総攻撃をかけた。激戦が数日続き、大きな損害を出した東路軍は平戸島の江南軍と合流するため壱岐から撤退した。

wikipedia「元寇」"壱岐島の戦い"
6月29日、一方、日本軍は壱岐島の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始した。

壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した報せに接したことにより壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。

⑭日本国紀P103
江南軍と合流した東路軍は大宰府攻撃に備えて鷹島沖(現在の長崎県)で停泊するが7月27日の夜、日本軍の群生が戦いを仕掛けた。(一行略)戦いは夜を徹して行われ、日本軍は夜明けに引き上げた。蒙古軍は日本軍の再度の来襲に怯え、28日から29日にかけて海岸に土塁を築き、軍船同士を鎖で縛って砦のようにした。

wikipedia「元寇」”鷹島沖海戦”
7月27日、鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げていった。

鷹島に留まった元軍は、鷹島に駐兵して土城を築くなどして塁を築いて日本軍の鷹島上陸に備えた[307]。また、元軍艦船隊は船を縛って砦と成し、これを池州総把・マハマド(馬馬)に守備させた。

⑮日本国紀P103
翌7月30日(新暦8月22日)の夜半、九州北部を台風が襲った。このため蒙古軍の軍船の多くが沈没あるいは損壊した。「張氏墓碑銘」には、この時の台風によって荒れた波の高さは「山の如し」とあるから、超大型台風であったと考えられる。今の鷹島沖の海底からは当時の蒙古・高麗軍の武具が大量に見つかる。

wikipedia「元寇」”台風”
7月30日夜半、台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。

wikipedia「元寇」”元軍の損害状況”
『張氏墓誌銘』によれば、台風により荒れた波の様子は「山の如し」であったといい、軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという。

wikipedia「元寇」”東路軍の損害状況“”
なお、考古学においても、多くの元軍船が沈んだ鷹島沖海底で見つかっている陶磁器などの元軍の遺物は、ほとんどが江南地方で作られていたことが判明しており、高麗産の遺物は発見されておらず、高麗船が頑丈だったとする諸史料を裏付けている

⑯日本国紀P103
軍船の大半を失った蒙古軍の将軍たちは、鷹島に約10万人の兵卒を置き去りにして撤退した。残された蒙古軍の兵は島の木を伐り、船を作って逃げようとしたが、日本軍の掃討戦に遭って、蒙古人と高麗人は皆殺し、南宋人は捕虜にされた。一説には鷹島から本国に逃げ帰ることができた元軍兵士はわずかに3人だという。鷹島にはこの時の掃討戦の激しさを物語るような地名が多数残っている。(首除、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原など。)

wikipedia「元寇」”元軍軍議と撤退”
張禧は軍船を失っていた范文虎に頑丈な船を与えて撤退させることにした。その他の諸将も頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒10余万を見捨てて逃亡した

wikipedia「元寇」”鷹島掃蕩戦"
御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍10余万と鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した。一方、台風の後、鷹島には元軍の兵士10余万が籠っていたが、諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退することにした

これら福田兼重・都甲惟親父子ら日本軍による鷹島総攻撃により10余万の元軍は壊滅し、日本軍は20,000〜30,000人の元の兵士を捕虜とした。現在においても鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっている

『元史』によると、「10万の衆(鷹島に置き去りにされた兵士)、還ることの得る者、三人のみ」とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の3人のみであったという

wikipedia「元寇」”元・高麗連合軍の損害”
『元史』によると、日本軍はモンゴル人と高麗人、および漢人の捕虜は殺害したが、交流のあった旧南宋人の捕虜は命を助け、奴隷としたという

⑰日本国紀P103
「文永の役」と「弘安の役」は現代では「元寇」と呼ばれているが、鎌倉時代には「蒙古襲来」あるいは「異国合戦」などと言われていた。「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀が編纂した「大日本史」で最初に使われたものである。

wikipedia「元寇」”日本側の呼称”
モンゴル帝国(大元ウルス)・高麗連合軍による2度の日本侵攻について、鎌倉・室町時代の日本の文献中では、蒙古襲来、異賊襲来、蒙古合戦、異国合戦などと表記していた。「異賊」という呼称は日本以外の外来から侵入して来る勢力を指すのに使われていたもので、『八幡愚童訓』等鎌倉時代前後の文献では、刀伊の入寇や神功皇后による三韓征伐についても用いられている。その他、「凶徒」という呼称も用いられた。また、1274年の第一次侵攻は文永合戦、1281年の第二次侵攻は弘安合戦などと表記されていた。
「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』が最初の用例である。

さて、以上のように17箇所に渡って、日本国紀とwikipediaの内容に重複する箇所がみられる。これは日本国紀のP98からP103の6ページの殆どを占めている。
 ある方は「歴史的事実なのだから、記述していけば内容は重複する」と仰るかもしれない。確かにwikipedia「元寇」は数あるwikipediaの記事の中でもかなり詳細に戦いの記述を行っており、どのように記述してもwikipediaと内容が重複するのかもしれない。しかし、元寇に関する戦いの時系列、「何月何日にどこで戦いが起こりどんな結果となった」というのは一般的な知識ではない。引用文中にもあるように、これは日本側の記録だけではなく、元や高麗の側の記録も歴史学者が研究した結果、分かっている情報である。これを百田先生が日本国紀で記述する際、必ずwikipediaか、それ以外の元寇に関する詳細を記述した本を読んでいなければ書けない代物である。よって、参考文献としてしっかりと明記する必要があると思われる。それを行っていない以上、日本国紀P98~103の約6ページは盗用の可能性があると思われても仕方がないだろう。

以上

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