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明日の叙景と凛として時雨 —戦略としての「J」を巡って—

1 明日の叙景と凛として時雨

Future 25。先日25日に発売されたばかりのローリングストーン日本版に掲載され、他地域と連動して「音楽の未来を担う25組」の国内アーティストを選出するこの企画の中でも一際異彩を放っていたのがブラックメタルバンドとして知られる明日の叙景だ。特集記事内でのインタビューはオールジャンルのリストに彼らのようなエクストリームな作風のバンドが選出される異例性も相まって話題を呼んだ。
メンバーから様々なトピックが語られるなかでとりわけ印象的だったのがポルノグラフィティからの影響を巡る一節だ。J-POPのローカリティまでも表現の契機として貪欲に消化しようとするバンドのハングリー精神を物語る内容だが、これを単なる悪食の類と捉えるのは些か早計であるように思える。

ここで取り上げたいもう一つのバンドがいる。凛として時雨だ。
ポストハードコアやエモロックを独特の退廃性でもって消化した音楽性で台頭し、テン年代にはアニメタイアップも相まって揺るぎないポピュラリティを獲得するに至った彼らだが、明日の叙景との共通点は意外にも少なくない。日本語のバンド名に「和」のテイストを強調するロゴの書体表現から海外からの熱視線に至るまで。しかしとりわけ際立っているのは「J」的なるものへの態度、現代日本の音楽文化のローカリティを差異化の手段として積極的に取り入れようとするスタンスだろう。

2 「J」と国内音楽

そもそも国内音楽において「J」なる記号はどのように位置づけられてきたのか。
その一つの例として捉えられるのが、FMラジオ局のJ-WAVEが英米の音楽と肩を並べるに足る一部の国内ポップスを指して「J-POP」として売り出し始め、それが転じて90年代以降の日本のポップス全般を意味するようになったという人口に膾炙したエピソードだ。
J-POPの歴史にここで深く踏み込むことはしないが、重要なのは当初は英米と肩を並べる並列性、同質性こそが強調されていたはずの「J」がやがて日本の(しばしば後進的な悪しき因習として批判の対象になる)ローカリティの象徴へと頽落していった事実だ。評論家の浅田彰はポピュラー文化から批評言説に至るまで90年代以降顕著になった日本回帰の傾向を「J回帰」として批判的に言及したが、そこで強調されていたのも伝統との連続性の欠如だった。ここで言うところの「J」とはつまるところ脱日本の運動に逃れがたく含まれる日本性とも言うべき、一種の呪いじみたローカリティの磁場に他ならない。

3 より深く「J」を抱き締めて

明日の叙景と凛として時雨の話題に戻ろう。
先述の通り両者が「J」的なるものを表現の契機として積極的に捉える点において共通項を見出せるとして、それは具体的にどのようなものだったのだろうか。

後者においてしばしば語られることとして、V系ロックとりわけLUNA SEAからの強い影響がある。同バンドはJ-POP以降の音楽シーンを語る上で欠かせない存在だが、他方そうであるが故に批評的な面でシリアスに捉えられてこなかったバンドでもある。化粧を施した男達が耽美的かつ退廃的な世界観を歌う様はローカルなキワモノとして長らく嘲笑の対象にさえなってきた。V系全般に対する先入観が未だ強かったゼロ年代にその影響を公言する凛として時雨の存在は衝撃的だったと言っていい。単にローカリティに埋没するでもない、表現の差異化の契機としての可能性をそこに見出す眼差し。

このようなスタンスは明日の叙景にも共通するものだが、同バンドに関してはよりその傾向が深化しているとも言える。
その一例が作品のインスピレーション元を列挙した彼らのプレイリストだ。目下最新作の『アイランド』のプレイリストにはLiturgyやDeafheavenといった現代ブラックメタルを代表する越境的アクトに加えまさにLUNA SEAやポルノグラフィティといった国内ポップシーンで活躍するバンドの楽曲群が(凛として時雨と合わせて!)収められている。ここで重要なのが単に影響を受けたという次元を超えて、ある種の目利き的なブランディング、バンドの独自性を示す根拠としてこれらの楽曲が戦略的に扱われているという点だ。ここには「J」的なるものを積極的に吸収するのみならず、対外的な差異化の手段として意識的に活用しようとする態度が垣間見える。

これら2者の相違には現代日本の音楽文化における「J」的なるものを積極的に評価の対象にしようとする機運が近年高まってきたことが大きく作用していると言えよう。(まさしく凛として時雨をはじめとして)90年代以降のJ-POP的環境のもとで育ったアーティストが影響力を獲得し、「J」的なるものの再検討を後押ししてきた流れがある。明日の叙景のような「J」的な諸要素を戦略的に活用するバンドの台頭はまさしくそのような潮流の必然的帰結とすら言えるだろう。

この意味において明日の叙景が「音楽の未来を担う」アーティストの筆頭として挙げられたことは非常に興味深い。現代日本の音楽文化におけるローカリティの再検討が新たな突破口となり得るのか、それとも別の袋小路に過ぎないのか、現時点においてはわからない。だが彼らの現在進行形のトライアルから目を離せないということだけは確かだ。

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