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ユーリー・ノルシュテイン監督「話の話」

🖋PDF版もございます。

 ユーリー・ノルシュテイン監督「話の話」は、ユーリー・ノルシュテイン監督の最も優れた映画作品です(ユーリー・ノルシュテイン監督は今もご存命で、「外套」を作られていますが、未だ公開されていません)。
 ソ連を生きていない人には、あるいはロシアを知らない人には、なにが何だか分からないまま物語が進んで終わります。
 かくいう私も、なにが何だか分からないまま映画館で見終えてしまい、一体あれは何だったのか。意味が分からないままでは傑作映画に悪いと思って色々と調べましたが、それから今まで理解は深まらないままです。
 それよりも、観れば観る程に発見がある映像の細部に感動してしまい、観て感動、見て感動、また観て感動、としているうちに、もはや「話の話」がなんの話なのか考えなくなっていました。

林檎を伝い落ちる雨の滴 狼の瞳の光彩部分の陰影
また青い林檎の苦そうな皮の部分
地中に帰る葉のテンポ 太陽光に反射する洗濯桶の塗装とシャツ
魚釣りから戻った男の表情 列車風に吹かれた一葉 雪の重みで撓った木
樽に入ったじゃがいもの造形美 鴉を避ける雪のミステリー
葉を伝い落ちる水滴 火傷に慌てる狼の表情
我武者羅な逃走を追う数十秒のドキュメンタリー映像
冬の落葉樹を伝う滴と、濡れっぱなしの枯葉

 白雪姫を初めて映画館で見た観客は、現実に忠実な画力のリアリティに感動してしまったそうですが、「話の話」も、映像の画力と現実が結びついている、見た人全員が心の奥底を動かされる映画です。

あれはそうじゃないか これはあれじゃないか このシーンはあれを表しているんじゃないか
ああじゃないか こうじゃないか ああでも関係ないか
これはこうかもしれない こうかもしれない こうかもしれない でも違うかもしれない。

 映像に間違いを正されなくても、自分でそうじゃないと思えて心地良くなれるのは、「話の話」の優しさが気安いからではないでしょうか。
 誰に言われたからでもなく、自分は間違っている。そう自分で思うと心が癒されるのは、自分で自分を正せると、何かを取り戻して、若返った気持ちになるからではないでしょうか。
 人生は生きていると進む一方で、いついつどこどこに立ち返ることはできません。縮むだけの人生を、途中で止めることはできないのに、失われた時間を取り戻そうとするのは、夢のまた夢の話しです。
しかし、一度解きかけた問題を最初からやり直せるとなると、それは人生で時間をやり直していることにならないでしょうか。
 人生を巻き戻して、失われていく時間を取り戻せば、無くしたものを取り戻せる自分への充足感と、人生を巻き戻せる自分の力に満足して、手放しに褒められる自分に安心して、幸福になのではないでしょうか。
 それらが一色多に纏まって、心の平和は生まれるのだと思います。

「ユーリー・ノルシュテイン監督「話の話」」完

©2023陣野薫

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