無駄になる記憶、無駄ではない時間(小説・過去作)

どこまでも続く日々にも必ず終わりがあると悟ったのは、子どものころに飼っていたハムスターが死んだときだった。
ずっと世話をしていたのに死んだ次の日からは、一つの習慣がなくなった。冷たい身体を触ったときや、墓を作ったときより、餌を与えなくていいんだって気づいたことで、初めて涙がこぼれた。
もういないんだ、ってことに実感が押し寄せてきて、感情も悲しみだけじゃなくて、いろんなものが混じり合って涙となって出てきた。分かってしまったのだ、終わりというものが。


白い部屋のなかにいる。窓はある、出口もだ。
鍵はかかっていないので外に出られる。それでも僕は閉じこめられている。人は僕のほかにいない。監視されているわけでもない。ただ椅子に座り机の前に向かっている。なにをするでもなくただ壁にかけられた時計の秒針が時を刻む音だけを聞いている。
そういえば、なぜここにいるのだろう。いつからいるのだろうか。もしかして自分は死んでしまったんじゃないだろうか。そう考えた途端怖くなってしまった。
記憶はどこで途切れているのか、コッコッと耳の奥に響いていた音が消えるほど集中して思い出そうとしたが、駄目だった。
正確な日付は覚えている、今日は十一月二日、のはず。正確といっているくせに『はず』とつけるのは、十一月一日に眠りについたとこまでは記憶に残っているからだ。
目が覚めれば自宅にいるはずなのだ。するとここは夢のなかだろう。そうとしか考えられない、今この空間は現実ではない。
背後から扉が開く音がした。ゆっくりと金属が軋む。怖い。たとえ夢だとしても、いや、夢だからこそ恐ろしいことが起きるのだ。逃げ場は扉か窓のみ。窓は扉とは逆側、正面にある。どうする、飛び降りるか?
迷っているうちに肩を叩かれた。思わず振り返ると、そこには友人の内村が立っていた。
「なんだ、お前か」
安堵のため息をついた。知らない場所で知っている顔を見ると安心できる。
「なんだはないだろう。せっかく会いにきたのに」
「お前で良かったってことだよ」
言葉のとおり彼で良かった。
知り合いとはいえ気まずい関係の人もいる、こいつとはいつ何時でもそんなことにはならないと確信している仲だ。
「待たせたな。最後になっちまったからな」
それほど待ったという感覚はない。それよりも最後という言葉に反応した。
「誰かに会ってきたのか」
「そうさ、親から始まって、会いたい人にみんな会ってきた」
ますますどういうことかと思ったが考えてみればここは夢のなか、意味などないのだ。彼は机を挟んで僕の向かいに座った。
「さてと、時間はやまほどあるけど、説明から入ったほうが良さそうだな」
「なんの説明だ」
「お前さ、今夢を見てると思ってるだろ」
まさしく図星である。そうでなかったらこの場所の説明がつかない。
「もう長い時間ここにいるんだ、まず一服をしてから話そう」
そう言うといつのまにか彼の手にはタバコとライターがあった。ポケットから出す仕草はなかった。
「お前は紅茶が好きだったな」
「ああ、タバコは嫌いだけどな」
タバコから漏れる煙を手でかき消していると、机の上に灰皿と湯気が静かにのぼる紅茶が置かれていた。やはりここは現実世界ではない。夢だと気構えているので違和感なく紅茶を一口飲んだ。いつだったか彼と行った喫茶店で飲んだアールグレイにそっくりだった。
「懐かしい味だ。ここの紅茶が一番好きなんだよな」
「そうか。間違えなくてよかった」
まるで彼が用意したかのような発言。やはり夢とはいえ気にかかる。タバコが吸い終わって話を始めるのに興味が出てきた。
しかし心なしかいつもより吸うペースが遅く、もったいぶっているように思えた。どこかそわそわと話したがっている素振りにも見える。どうやらきっかけを探しているのだろう、ならば作ればいい。
「紅茶が冷めるころ」
彼の手が止まり、「ん」と疑問符を言葉にした。
「紅茶が冷めるころ」
もう一度問いかけるようにして呟いてやる。気づいた彼はタバコを消してこう言った。
「話題は突然変わりだす、か」
紅茶が冷めるころ、話題は突然変わりだす。いつだったか彼が僕を皮肉るために作った言葉だ。なにか相談したいことがあっても、すぐには切り出せず適当な世間話を繰り返したあと、ようやく本題に入る癖があった。
今回は逆だ。珍しいことなのだ。わざわざ妙な文言を考えてぶつけてくるほどに。彼はすぐに本題から入る。
「紅茶、冷めちまったか」
「僕の場合と違って言葉の綾さ」
すすった紅茶はまだほんのり暖かかった。
「じゃあずばりと言っちまおう。俺さ、死んじゃったんだ」
心臓の鼓動が一瞬にしてリズムを変えた。だがすぐさまこれが夢だということを思いだし、なんて縁起の悪い夢だろうと思い直してみると、八つ当たり気味に怒りが目覚めた。
「冗談。じゃあなぜ目の前でタバコが吸える。まさか僕まで死んだと言うんじゃないだろう」
「走馬燈って知ってるだろ。死ぬ直前に今までの記憶が駆けめぐるってやつ」
「知ってる。が、どうした」
「ここはそれに似たようなもんさ。俺の記憶を遡って今まで会ってきたいろんな人に再会する。記憶の整理、早い話がお別れの挨拶ってものなんだろうな」
思わず吹き出してしまった。そしてそのままハハハと笑いに繋げた。馬鹿げている。
「ここは走馬燈と違って時の流れが遅い、というより止まっている。だから時間はいくらでもある。最後の別れをしよう」
笑い声を遮って彼は真剣な目つきで言った。真面目な顔、声。今まで見たことがないほど、嘘ではないと確証を持てる本気さに、口を開くことができないでいた。すると彼のほうから緊張をとかし、表情がゆるんだ。
「人間、突拍子もないことを言われると、怒るか、笑うか、黙るかのどれかだった。お前は全部やっちまうんだもんな」
若干うんざりとした調子の言葉を聞いて、彼とここで会ったときの会話を思い出した。
「今までに会った人も、そんな反応だったのか」
「察しが良くて助かる」
まだ信じたわけじゃない。
「泣いてくれた人もいた。最後まで信じないで笑っていた奴もいた」
これは夢なんだ。
「ふざけるなって殴られたりもした。特に話すこともなくすぐ別れた人もいた」
僕の夢なんだ。
「でも良いんだ。会えて言葉を交わせただけで」
「良くないだろ!」
叫んで立ち上がってしまう。勢いが良すぎて椅子が後ろに倒れた音がした。感情が破裂した音だった。
「お前が死んだとしていたらどこが良いんだ。死ぬってことはもう二度と会えないってことだろ。これが最期だって分かってどうすりゃいいんだ。お前は良いかもしれないけど、僕は残されるんだぞ」
自分でも不思議なくらい口がまわる。いつだったか、似たような感情が爆発したことがあった。喜怒哀楽のネガティブ部分、怒りと哀しみを混ぜ合わせたような、あるいはお互いがぶつかり合い打ち消したような。虚無なのになにかが有る。矛盾でありながら、当然の如く存在を見せつけられる感覚。
「怒るなよ。死んだのは俺だ。俺だって哀しい」
違う。怒ってるんじゃない。哀しんでいるんじゃない。もっと複雑で、あるいは曖昧で。
「やめよう。お前とは喧嘩別れみたいにはなりたくない。せっかく誰かが与えてくれた時間なんだ。有意義なものにしよう」
はにかんだ彼の顔を見て僕は冷静さを取り戻した。信じる信じないかは問題じゃない。ただ彼と話がしたかった。

しばらく会ってなかったのも手伝って、話題はなかなか尽きずに話が弾んだ。今までなにをしていたのか、あいつは今どうしているだとか、そろそろ結婚する年になったなんてのも。時間をいくらほど使っただろうか、まるで進んだ感覚がない。
窓があるのに暗くもならない明るくもならない。夢であるという証拠はいくつも揃ってきたのに、逆にそれが夢でないという確信に近づかせる。出来過ぎているのだ。
友人と会話する為だけに作られたような空間、現実ではあり得ないことが起きても、夢にしては正確すぎる、歪さがないのだ。
「やっぱり夢じゃないのかな」
話が一段落したとき、彼に聞いてみた。
「そうだ。夢じゃないけど、夢みたいなもんさ」
違和を感じた。彼の言葉と、それを発するときに左耳を触った彼の仕草。確か、これはなにかの癖だったはず。どうにも思い出せず、仕方なくそのまま談笑は継続された。
だが弾むものはいずれ地にとどまる。無限に続くかと思われた話題も底をつきはじめ、無言の時間が増えていく。
「じゃあ、そろそろ行ってくる」
「待ってくれ。まだ話したいことが」
「あるなら、いくらでも残ってやるんだけどな」
心の中を覗いたような返事。カップが空になったように、彼に伝えたいことはもう尽きていた。
ふっと彼が笑うと、手でカップを覆うようにして空をきり、湯気が立ち上がり紅茶が注がれていた。まるで手品か魔法みたいだった。
「空になったカップには紅茶を注げばまた飲める。でも俺のカップはもう空っぽのままなんだ。たとえこれからお前がいつもの紅茶、あるいは趣旨を変えて珈琲、ときには茶を淹れたとしても、俺にはもう飲めないんだ」
わざわざ遠回しな言い方をして、格好つけるのは彼の性分ともいえる。しかし的を射ている。彼が本当に死んでいるのなら、未来はない。あるのは彼以外の生きているモノ、つまり僕。話題、謝罪、暴露、告白、長い時間をかけて使い果たした。また得るには生きて、未来を現在にして、過去にせねばならない。僕にはできるのに。彼は得ることも、僕が得たことすらも知り得なくなる。それが死ぬということなのか。

彼が一言別れの挨拶を放ってドアに向かって部屋から出ようとしたとき、本当にこれで最期なのだろうかという疑心は拭いきれず、まだ消えていない彼の姿を確認すると、急いで質問をした。
「ちょっと待ってくれ。お前なんで死んだんだ。原因はなんなんだ」
「聞いたところで。この部屋から出て日常に戻れば分かることさ」
彼は右手でドアノブを掴んだままこちらを向いて、左手で左耳を触りながら答えた。
思い出した。彼の癖、その仕草には無意識の正直さがあることに。
「僕が知れるとは限らない。どういう状況で死んだかはっきりと知っておきたい。それにお前は意図的に隠し事をしている」
指摘されて彼は焦って左手を耳から離した。じっと左手を見つめながら、小さく笑みをつくった。
「死んでも治らないもんだな、癖ってのは」
右手はドアノブから離さず、立ったまま彼は語り始めた。
「俺が死んだのはよくある交通事故さ。運がなかった。信号を無視して更にスピード違反の車が歩いていた俺に突っ込んできた。運転手が酔っぱらっていたのか居眠りなのか、あるいはシャブでも打っていたのか、俺にはもう分からないことだが、ひかれたのは事実だ。身体が吹っ飛ぶ感覚を味わって、アスファルトが如何に硬いかを文字通り頭で知って、そこからの意識はない。気づけばこの部屋にいた。そしたらまるで生まれる前から持っていた常識かのように、白い部屋というものがどういうところでこれからなにをするのか知っていた。誰に会いたいか念じながらドアを開けば、白い部屋から白い部屋と繋がる。最期の別れを言うべき人が待つ部屋にな」
淡々とした調子でありながらどこか歯切れが悪い。問いつめるまでもなく彼は白状した。
「それとな、白い部屋から出ると、相手はここでの記憶は決して残らない。さっきまでの会話も、紅茶の味も」
それを聞いてやっぱりという納得と期待を裏切られた気持ちが共立しながら胸を痛めた。予感はあったのだ。もしもこれが本当に夢でなく、実際に起きている事柄ならば、生きている人間のほとんどは白い部屋に来たことがあるはずだ。なのにそんな話を現実で聞いたことはない。現に未だ信じ切れていない自分自身が証拠であり証明でもある。
「じゃあなんの為に、この部屋は存在している。目が覚めればここでの記憶はない、お前に伝えたかったことを伝えたのに現実の俺はそれを忘れて、きっと後悔する。このシステムを考えて作り上げた奴はなんて悪趣味なんだ」
くそっ、ふざけるな。小さく何度も呟いた。いくら会えなくなることに覚悟を決めたとしても、無駄になる。
「生きている人にとってはそうかもしれんが、俺にとってはとても有意義な空間だった」
 複雑な心境な自分と違って、彼はとてもシンプルで明快な表情をしていた。笑っている。哀しみは見えない純粋な笑顔。
「俺はお前の言葉が聞けた。他の人の言葉も、別れの挨拶もできた。充分だ。なにもできないまま死ぬよりはな。ここはきっと。未来のない死者の為のシステム。未来ある人間には理不尽でも仕方ないのかもな」
反論しようと思ったが、彼が死者であるということを思うと、なにも言えなかった。
「それとな、白状ついでにもうひとつ言うと、会った人全員にあなたが最後だって言ってるんだ。こういうのはトリに選ばれたほうがなんとなく嬉しいもんじゃないか」
「なんだよ、僕が最後の人じゃなかったのか」
最後の最後でがっかりさせやがって、でもなぜだか二人で笑いあってしまった。いつも通りの感覚で。
彼はついにドアノブを回し、ドアを開けた。部屋の外は眩しくて、目がくらんだ。薄目を開けてみると、逆光で彼の顔は見えなかったが、光に対してなんの反応も示していないようだった。見えている景色が違うのかもしれない。彼がゆっくりと足を進めていた。
「教えてくれ。本当は最後に、誰と会うんだ」
聞いて意味があるものではないが、ここで逃すと一生満ちることのない好奇心、それがあったことすら忘れてしまうのだ。
光のなかに吸い込まれるように出て行く彼が、少しだけこちらを振り向き、逆光なのに彼が照れくさそうに笑っているのがはっきりと分かった。
「お前だよ」


 十一月一日に友人が死んでいた。仲の良かった友人だ。親友と呼んだほうがいいだろう。大人になってから会う回数は減ったが、それでも大事な親友であることに変わりはなかった。
なのに僕は彼が死んだことを知ったのは三日経ってからだった。交通事故で車にひかれて即死。彼の親から連絡があっても信じられなかった。身近に人の死を感じたことがなかったから。
葬式に呼ばれ、ご焼香をあげ、棺のなかの顔を見て、まるで眠っているような気がしてならなかった。まだ信じていない。
翌日、彼の携帯に電話をかけてみた。まだ解約していないからか、留守番電話に繋がった。なんどかけても、何時にかけても、留守番電話にしか繋がらなかった。そこで僕は、もう彼を呼ぶ出すことも、呼ばれることもない。会うこともできない。話すこともできないことを理解した。留守番電話で伝言を預かるというメッセージのあとに、僕は一言だけ、彼の携帯電話に残した。
「まだ話したいことは山ほどあったんだ」
一つの習慣がなくなり、僕は分かってしまってから、涙がこぼれた。

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