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ゆうめい『ゆうめいの座標軸』「俺」雑感 ~物語化できない人生を歩む人々~

 やっぱりゆうめいってすごい。

 昨年「姿」をみてからこの劇団のファンになりましたが、今回の過去作品の再演である「ゆうめいの座標軸」も素晴らしかったです。僕は「姿」の上映会も含めて三作品拝見しましたが、この記事では「俺」について書きたいと思います。「弟兄」とかはいっぱい書く人がいるだろうし。

 この作品「俺」はゆうめいの初公演となったものだそうです。当時二人芝居だったものを今回は一人芝居にして公演していました。この話を簡単に説明すると、アルバイトをしながら演劇を続けている田中という青年が、出会い系のアプリ「斉藤さん」で出会った小林という男の半生を自宅の部屋で再現した配信の内容にものすごく共感したので、それを今からここで実際にアプリの配信モードで実演するというものです。

 このアプリを使うというのがすごく面白くて初めはその演出というか表現の仕方に感心するのですが、物語が進むにつれてどんどんその小林(田中)の人生にのめりこんでいきました。結局この小林というのは、名のある映画監督で家も家庭も車も持っている恵まれた人間であり、8万も課金して田中がきいた配信の内容はすべて嘘であったことが最後にわかるのですが、田中は憤慨しながらもその小林の嘘の物語さえも「俺」つまり自分の物語として取り込もうとします。

 こう書くと全く不思議な話なのですが、この話に妙に共感というか、シンパシーのようなものを感じたのは僕だけではなかったはずです。

 この感想を見て、痛みを請け負うという表現に、なるほどと思っていたところで、ふと、ある本のことを思い出しました。

 社会学者の大澤真幸氏の本です。この本は僕が教育者のまねごとをしていたころに読んでいた本ですが、非常に面白くて、今もう一度読み返しています。今回はこの本の内容と一緒に「俺」の感想を書きたいと思います。以下引用はすべてこの本からのものです。

 大澤氏が述べることと「俺」がリンクしたのは、第一章の部分です。大澤氏はこれから論じるイントロとしてこの章を「物語化できない人生」と名付けました。この「物語化できない人生」とは「物語にならない人生」とも言われ、大澤氏は次のように定義しています。

何のためにあるのかわからない人生、無駄な時間のように感じられてしまう人生、有意義な結果に向かっていく過程とはどうしても思えない無駄な時間としての人生のこと

 ここでいう「物語」とは、社会的成功や自己実現というような

「価値ある終結へと関連付けられている出来事の連なり」

であるとも。

 大澤氏が提唱した物語化できない人生は、「俺」の中ですべての人間が持っているメンタリティでした。小林の話はものすごく入り組んでいるので、説明はしませんが、彼もまた、山田という友人の人生という物語を自分が背負うという旨の発言をしています。田中もまた、彼女もおらず、お金もなく、バイトを続けながら成功できるとも分からない不安定な演劇という道を選ぶ一見物語化されそうで、いまだ明日が見えない「物語にならない人生」の方に偏った人生を生きていました。

 このような「物語化できない人生」が現代のメンタリティとして一般性があることを、大澤氏は哲学者カトリーヌ・マラブーの「新しい傷」という言葉を借りて説明しています。

 「新しい傷」とはリスク社会における、自身が受け入れることのできない心身の傷のことです。何のことかというと、従来の傷というのは、何らかの原因によって自分に身体的ないしは精神的な傷が症状として発症するのですが、それがどの原因で起きたかを意味付け、解釈をすることによって癒えていく。もっと言えば自分の人生という物語に統合されていくものになる。だが、「新しい傷」はそれができない。自分の物語として意味を持たせることができないというのです。

 なぜ物語化できないのかを大澤氏は現代社会による解釈のフレームワークの崩壊で説明しています。つまり、今までは神様の怒りとかお国のためとかいう解釈が通用した前近代社会から、近代社会ではその仕組みが崩壊することで、すべては自分のせいであるという自己責任論が蔓延して、自分一人ではどうにもできない出来事が、辛いものは辛いまま、苦しいものは苦しいままになってしまった。

 「俺」の登場人物は多かれ少なかれこの「新しい傷」を抱えていたと思います。そして、この「物語化できない人生」は自己のみならず他者との間にも起こっていました。この文脈で行けば自己と他者を結びつけたり、相互理解を促すものは「物語」の存在です。他者の「物語」を受け入れることによって自分は他人を少なからず理解したり、受け入れていたのです。しかし、現代においてそれができない他者が現れたと大澤氏は指摘しています。

 どうしても理解できない「物語」を持つ他者の存在です。連続殺人をした人間の「物語」や、テロを起こす人間の「物語」です。どれだけその人がその行為の正当性を主張しても、おそらくこの行為を受け入れる人は少ないでしょう。

物語を媒介にして、他者の敵対性を乗り越えるという方法が、今日では、限界に達しようとしているのです。いわば、敵対性の深さが、物語の深さを凌駕しているわけです。リベラリズムの寛容は、互いに他者の物語を聞くことを前提にしてきました。しかし、そうした方法では乗り越えられない、他者の他者性・敵対性が露呈しているのです。

 リベラリズムの崩壊がありありと見えていく文章なのですが、つまりは、極端な他者性はもはや物語では説明できない。だからその物語をきいたところで他者を理解することなどできない。これが現代社会の一つの特徴だと大澤氏は述べています。それが、「物語化できない人生」を生きている者同士ならなおさらでしょう。

 長くなりましたが、ここで「俺」の内容に戻ります。田中が小林から聞いた物語は、実際は人から聞いた話をつなぎ合わせたデタラメであったことがわかるわけですが、ここで田中がやったことは、小林の物語を自分の物語として背負う。小林自身は現代では数少ない「物語化できた人生」を送っていますが、小林が暇つぶしで演じたキャラクターはまさに「物語化できない人生」を歩んでいる人間でした。

 それが嘘だとわかったとき、田中の前には「物語化できている人生」と「物語化できない人生」の両方を瞬間的に持った他者が現れたのではないでしょうか。その他者はこの両方の物語を持つがゆえに、大澤氏が言うところの「敵対性の深さが、物語の深さを凌駕して」しまった。家も車も家族もすべてをもって物語ることができる人間が、何一つ持っていない物語れない人間を演じることへの敵対性が田中の中に芽生えたのだと思います。

 僕がこの作品が魅力的で面白いと思ったのは、大澤氏が述べた現代の一つの特徴のその先を描いているような気がしたからでした。「物語化できない人生」を持つ人間は、作られた物語を、自分のものとして無理矢理にでも受け入れようしていたということです。小林の話の中での山田はアニメの世界に行きたいといっていましたし、小林自身も(嘘ではあるにせよ)その山田となおちゃんを救うためにアニメの世界に行く旨の発言をしています。

 書いてみるとなんだか普通のことなのかもという感じがしましたが、これがこの作品の魅力の一つだと思います。彼らは自分が物語れないからこそ、切実に「物語」を欲するのだと。それは、上のTwitterの感想でも触れていた他者の痛みを請け負うことでもあり、自己の人生にむりやりにでも他者の物語をとりこむことによってつぎはぎの物語をつむぎだすことで新しい傷を埋めようとしたり、自己の人生を物語として成立させようとする一種のあがきのようなものだったのではないか、そんなことを考えました。そのなんと切ないことかと思って、ちょっと客席でうるっと来てしまいました。

 作品の構造の話が大半になってしまいましたが、演じていた田中さんはものすごかった。僕は「俺」を2回見に行きましたが、両方とも素晴らしかった。ただ、回によって間とか説明の段取りとかが違うので、人によって好きな回と、分かりづらい回があるんじゃないかなと思いました。

 ちなみに劇中田中さんが蹴った携帯が僕の靴にあたって、足が冷えていたこともありめちゃくちゃ痛かったですが、これもいい思い出です。別に怪我とかはしてないです。むしろうれしかった。

 なんだか、まとまらない感想になってしまって、もっと言いたいことがあるはずなのに言葉にならないのでもう少し考えることにします、今回はこれまでにします。とてもいいものが見られました。

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')