孫文の神戸公演 全文解説

日本に留学していた孫文は、神戸で感動的な演説をした
「欧米の走狗になるな。共に中国を統一しよう」と孫文は言った。
日本は孫文に共感して、
孫文(国民党軍)の協力者として中国へ行った。

しかし、ドイツから満州の領土を日本は譲り受けたことをきっかけに
反日愛国運動が中国全土で起きて、(国民党が起こしたのかはわからない)
その結果、孫文亡き後、
国民党は日本と別れた。

そして、蒋介石(国民党)は、
米軍人(フライングタイガース)を、秘密に軍事参謀に迎え、
軍事参加も秘密にしてもらって、
日中戦争に勝利し、日本軍を中国から追い出した。

その後、
太平洋戦争にフライングタイガースは米軍に復帰し
日本軍と再び戦った。

フライングタイガース=卑怯なだまし討ちした米軍人というイメージが強い。
真珠湾攻撃は奇襲ではなく、それ以前に、
米軍は、日中戦争時に、秘密裡に、
宣戦布告無しに日本軍と戦っていた。

「大アジア主義」  孫文の神戸での講演 内容

「本日は、アジア主義について講演します」

「わがアジアは、最も古い文化の発祥地です。
~~~~アジアは一度は衰微しましたが、三十年前に再び復興しました。
この復興の起点は一体どこにあったのか?、
それは、
日本が30年前に外国と締結した、全ての不平等柔約を撤廃したことからです。
日本の不平等条約撤廃のその日こそ、我がアジア全民族の復興の日であったのです。

「三十年前日本は不平等条約を廃除して独立国となった時に、
日本近隣諸国は大なる影響を受けたことは受けました。

もっぱら、それより十年を過ぎて日露戦争が起り、日本が露国に勝ち、
日本人がロシア人に勝ちました。
これは最近、数百年問における、
アジア民族の欧州人に対する最初の勝利でした。

この日本の勝利は全アジアで影響を及ぽし、
アジア全体の諸民族は、皆有頂天になり、
そして極めて大きな希望を抱くに至ったのであります。
この事について私が親しく見ました事をお話し申上げましょう。

日露戦争の開始された年、私は丁度EUにいました。
ある日、東郷大将がロシア国の海軍に勝利した。
ロシアが新たに欧州よりウラジオストクに派遣した艦隊は、
日本海で、全滅されたと言うことを聞きました。
この報道が欧州に伝わるや、

全欧州の人民は「父母を失った如くに悲み嘆いた」のです。

英国は日本と同盟国でしたが、
この日本軍の勝利を知った英国の大多数は、
いずれも肩をすくめ、日本が大勝利したことは決して、
白人種の幸福を意味するものではない
と思ったのです。
これは正に英語でBlood is thicker than waterと言う観念です。

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しばらく後に、私は船でアジアに帰ることになり、
スエズ運河を通った時に、沢山の土人(アラビヤ人)が、
私が黄色人種でありますのを見て、非常に喜び勇んだ様子で、
私に「お前は日本人か」と問いかけました。
私は「そうではない。私は中国人だ。何かあったのか、
どうしてそんなに喜んでいるのか」と問うたところ、
彼らは私にこう尋ねました。

アラビア人:「俺達は今度非常に喜ばしいニュースを得た。
何でも日本はロシア海軍を全滅させた。と言うことを聞いた。
この話は本当か?」

「俺達はこの運河の両側に居て、ロシアの負傷兵が、
船毎に欧州に送還されて行くのを見た。
これは必定ロシアが大敗した一風景だと思う。
われわれ、東洋の有色民族は西洋民族の圧追を受けて苦痛を嘗めていて、
全く浮かぶ瀬がないと諦めて居た。
が、今度日本がロシアに打ち勝った。」

「俺達はそれを東洋民族が、西洋民族に勝ったと見なすのだ。
日本人が勝った。俺達はその勝利を俺達自身の勝利と同様に思うのだ。
これこそ、こ踊りして喜ぶべきことだ。
だから俺達はこんなに喜んで居る、こんなに喜んで居るのだ」
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孫文「・・・これは、
東洋の文化と西洋の文化との比較と衝突の問題です。」

東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道です。

王道は仁義道徳を主張するものです。

覇道は功利強権を主張するものです。

仁義道徳正義合理によって人を感化するものであり、
功利強権洋銃大砲を以て人を圧追するものです。

英国に対するエジプトおよびインドの関係が覇道を示して居ります。
即ち英国はエジプトを征服しインドを滅し、
エジプトとインドは常に英国より難脱しようとしています。
彼らは盛に独立運動を起して居ります。

……我々は今こう言う世界に立って居るのでありますから、
我が大アジア主義を実現するには、
我々は何を以て基礎としなければならないかと言いますと、
それは我が固有の文化を基礎にした道徳を講じ、仁義を説かねばならない。


仁義道徳は、我が大アジア主義の好個の基礎であります。

このような良い基礎を持っている我々が、
欧州の科学を学び、工業を発達させ、武器を改良しようと欧州に学ぶのは、
決して他国を滅したり、
他の民族を圧追したりすることを学ぶのではないのです。
ただ我々は、それを学んで自衛するのです。

「我々が大アジア主義を説き、アジア民族の地位を回復するには、
ただ仁義道徳を基礎として、各地の民族を連合すれば、
アジア民族が非常な勢力を有する様になることは自明の理であります。

「さて最後に、
我々はどんな問題を解決しなければならないのでしょうか?、
圧迫を受けている、我がアジアの民族が、
どうすればEUの強盛民族に対抗できるか?」
です。
簡単に言えば、
欧米人によるアジア民族に対しての不平等を撤廃しよう
という事です。

 我々の主張する不平等の廃除は、
覇道に背叛する文化であり、民衆の平等と解放とを求める文化です。


貴方がた、日本民族はすでに、欧米の覇道の文化を取入れると共に、
アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。

今後、日本が世界文化の前途に対し、
西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋王道の干城となるか、
それは日本国民の考えと慎重な選択にかかっています。


大アジア主義講演(1924年11月28日)孫文の神戸での講演会。
神戸商業会議所など5団体を対象に、
現在の兵庫県庁(県立神戸高等女学校講堂)で行われた。
講演内容は、大阪毎日新聞、神戸新聞、民国日報(上海)が伝えた。

「大アジア主義」1924年12月28日神戸高等女学校において
神戸商業会議所外5団体におこなった講演――「孫文選集」1966

孫文はなぜ日本に亡命留学していたのか?
1895年、広東省広州で、
孫文は、清朝政府に反対する最初の武装蜂起を企てたが失敗、
香港へ逃れたが、
清朝政府は孫文に花紅銀1000元という多額の賞金を懸けてその行方を追及した。 このため孫文は日本に亡命した。

★孫文は、「漢民族 復権 運動家」だった。
清朝時代、中国の人口90%は漢民族で、
少数民族の女真族が、漢民族を支配していた。
これを不満に思っていた漢民族は、
1600年ごろから
「打倒!清朝」のレジスタンス活動をしていた。


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