26歳の時に書いた文章(傲慢だ)

「20代からなんら精神的成長もしておらず
まだまだ色んな女の子と遊びたいし恋愛もSEXもしたい」

23歳のときに住んでいたシェアハウスのハウスメイトがSNSに投稿していた文章が目に入った。彼はいま、30歳くらいになったのだろうか。

文章の中にあらわれる「ドクシン」「バツグン」「ケッコン」。

韻でも踏みたそうに配置されたカタカナは、自分に降りかかってくる物事をいかにも不自然なこととして捉えているような様子で、ああ「この感じ」わたしも知っていると思った。

その家にはいろんな人が住んでいた。
カメラマンになるために一念発起した人、ちょうどサンディエゴから帰ってきた人、ヒッピーだらけの環境で果敢にもテレビの前でマクドナルドを食べ続ける人、転職して秘書になった人、自然食のカフェで働いている人、アーティスト、料理人、旅行者、彼らの友人、その他。

二段ベッドが4台ほどひしめく男子部屋に、わたしたちは数ヶ月の間暮らした。休みの日でも毎回きちんと朝早くに起きているルームメイトを目の端にとらえる。「休みの日って全然起きられない。きちんと起きられてすごいね。」そう言ったわたしに、「今まで散々遅くまで寝たからさ。」といいながらテキパキと1日を始めていたルームメイト。その時の彼の歳はだいたい、今のわたしの歳だった。

この間、21歳の人に「俺からすると、年上のお姉さんだから。」と言われた。
どきっとした。
26歳と21歳はやっぱり全然違うのか。

たしかに、昔のことを思い出すと、シェアハウスにいた時27歳のみんなは圧倒的に「お兄さん」と「お姉さん」だった。大学生にとっては特に、4歳の差は大きい。26歳と30歳の違いなんかより、たぶん全然。

その人と話していると、自分が21歳だった時はきっとこんな感じだったんだろうなという気持ちになってきた。海外に行きたい。日本が窮屈だ。働き始めたら、いろんなものが死んで行くのがいやだ。自由に暮らしていたい。人のことを考えるより、自分のことしか考えられなくて、気ままで自分勝手で奔放。

自分のことしか考えていないのに、自分のことが大嫌いだったあの頃のことが思い出されて、いろいろなことをごまかすかのようにとっさに口にした煙草は、ただただその場の苦々しさを増幅させた。

あの頃の自分が影のように、まだはっきりと付いて回っているのを感じた。

ちょっと前まで、いつから「大人」だと思えるようになるのか全くわからなかった。けれど、「子供だなと思いたくなるようなこと」が以前に比べて減ってきたことに気づいてきた。かといって、決して自らを大人だと思っているわけではなくて、さて自分は一体どこにいるんだろうかというような気持ち。

23歳のころはもっと毎日焦っていたし、今より自由だったけれど正直楽しくなかったのかもしれない。これをしなきゃ、こうならなきゃ、こうなりたい、こうなりたくない。いつまでにどうしたい。これは絶対にこうなんだ。ここではないどこかに行きたい。出会うべき運命に出会いたい。

そういうものがぐるぐると自分の中にはあった。いや、今でもある。

とはいえ、めまぐるしく変化する、あるいは何かが確実にかたくなに凝り固まっていく日々の中で、自分のなかの何が一体いつ死んでいったのかさえわからず、懸命に勉強しようという姿勢も、何かを生み出そうとすることもなく、気づけばわたしが一番嫌いだと思っていた「味気のない」人間に一歩また一歩と近づいているのを感じる。

けれど、それでいて「普通」にもなりきれない。

いろんなことを貪欲に吸収しようとし、知らないことを一つでも知って得意気になることに躍起になっていた頃に戻りたいのかと言われたら正直そうは思えない。かといって、周りが望む「普通」にもなりきれない自分は一体どこへ向かって行くのだろうか。

普通になりたいと思ってそのために薬まで飲んでいるというのに、いざ自分が味気なくなってくるとそれはそれで焦燥感にかられてしまうなんて、なんてどっちつかずの根性なしだ、と思う。何かを得るには何かを犠牲にしなければならない。それは、こと自分のような効率の悪い人間に対する教訓である。

「(きみには、あるいはだれにでも)何か才能があると思う。」

そう言われてきたことは過去に一度や二度ではないけれど、なんとなく実感がわかない。磨いてみたらべつにただの石なんじゃないか。

まあ思うに彼らの言うそのことばの真意は、「これだけ『普通の振る舞い』ができないきみにはせめて何か才能くらいなくっちゃ救いがないね」ということのような気もするのだけれど。

たとえ才能なんてなくっても努力を重ねてきたやつは強い。しかし、自分を信じることができず、なんだっていいやと思ったまま、磨かなくてもだんだんと輝きを失っているわたしは今やただの石なのだと思う。どこにでもあるただの石。いびつで透明な存在。こうやって、人は自分を小さく諦めて固まっていくんだろう。

自分の中で膨らんでいく「めんどくさい」を止めることができないままになし崩し的な生き方をしてきたけれど、ないがしろにしてきた時間やその他全てに向き合うことが怖くてつい自分の人生に対して不真面目な態度を取り続けている。

「わたしなんて、どうせ。」

大人にならなくちゃと思いながら、子供に戻りたいとも思う。ずっと子供でいたいとすら思う。なんだか矛盾があるかもしれないけれど。

こっちで暮らし始めて、しばらく行っていなかったクラブやライブのイベントにまた顔を出すようになってきた。自分は音楽が好きだし、そういう場はやっぱり楽しい。体力は相変わらず全然ないけれど、たまにはうんと遊ぶのだって悪くないと思う。

周りが順調に恋愛や仕事をこなしている中、わたしはまた自分が楽しめることを焼き直しているような日々だけれど、人より成長の遅い自分もいつかどこかしらにたどり着けるのだろうかと不安になる。また、現実に向き合えずに空虚な時間を過ごしていたりする。

友人の数に比例することのない恋愛経験の乏しさ。親元を離れて長いというのに家のこともうまくできないし、地方の国公立大学に進学できた割には仕事もうまくこなせない。

仕事も恋愛も家事も、みんながまともにこなしているようなことすらままならず落ち込むことばかりだけれど、こんな時期もあったよなんて笑って話せるようになる日がきてほしいと思う。


いや、来るように努めなくてはいけないのか。


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