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すべては、ぼうけんです。 (踊ることについての覚え書き)

「二人で踊っている感じがするペア、互いに愛情を感じるペアを選びました」というアナウンスが聞こえた。

二人で踊っていることかぁ、と思った。

落ち着いている時には音がよく聞こえる。目の前の相手に緊張したら、それはきっと指先から肩から相手にすべて伝わってしまうのだろう。強張った身体からは滑らかなステップは生まれないし、指先は相手の意図を捉えることはできない。とにかく落ち着いて、つないだ手や押される肩の感覚に集中する。視線は相手の目か、顎か、あるいは胸元を。そして深呼吸して音を聴くことだ。

こういう感覚はよく知っている。

大学で初めて演奏したジャズ。これまで触ったことのない楽器で、セッションをする。今考えるとそれは全く音楽にはなっていなかったけれど、純粋に心躍る緊張感に満たされていたあの頃。

その時、高揚感と照れや恥じらいに支配され、身動きが取れないような感覚に陥ることがあったことを、わたしは思い出していた。

ジャズという音楽にはルールがあり、型がある。しかし、それを知った上でどう曲を崩すかという部分には、それぞれのバックグラウンドが活きてくる。相手の出すグルーヴに合わせて自在にアドリブを奏でる。全ての楽器が一つの曲を完成させ、そして同じ演奏は二度と再現されることがない。

ペアで踊るダンスもよく似ている。相手のキューを、今度は聴くのではなく触れて理解する。必要があれば相手の目を見ることは、演奏と同じだ。

生来の運動音痴であるわたしは、誰がみても最低限の基礎やステップの正確さを維持することさえできない低レベルな状態。理想には全く追いついていないはずなのに、踊っている時にはなぜだか楽しい。この、「全くできていないのに楽しい」という感覚がとても新鮮で、わたしはダンスをやめられずにいる。

二人で踊っていること、その高揚感に魅せられたものだけれど、いざ自分が相手に向き合うとそこにあるのは高揚感よりもまず強い緊張だった。ペアになる相手と組んでいることよりも、自分の下手くそなステップに気を取られてしまう。気に入った音楽がかかると、そっちも気になってしまう。散漫になっていく。相手を理解しなければ。あるいは伝えないといけないのに、気づかないよう伝わらないよう頑なになっていくという矛盾した気持ちもあった。

演奏においても、とにかく必死になるあまり、あるいは緊張するあまり周囲の音に気づくことができなくなる。逆に自分の演奏に夢中になりすぎたり、難しい曲であれば満足に演奏できないことに尻込みさえする。あるいは思い切ったはいいが、盛大に失敗してしまうことだって。

とにかく、理想は捨てよう。難しいことを考えるな。応用はとにかく捨てて、見本に倣え。レシピを見ずに失敗料理を生み出しつづけるたぐいの人間にとって、まず必要なのは淡々と型を身につけること。基礎の力をつけることなのだということを、この人生を通して痛いほどよくわかっている。

散漫な脳みそでそんなことを考えていると、相手はどんどん違う技をかけてくる。わかる、わからない、わからない、踏めない、わかる、ずれていく、わからない、わかる、わからなかった。

一つ一つ、パッパッと繰り出される技を、さばいていく。千本ノックのように。

踊っている時のわたしはとにかく、顔がこわい。

「大切なのは、基礎、自分の軸、相手がいるという感覚、音楽を聴くということ。そして、自分のバックグラウンドを活かしたスタイルで味付けすること。」
ルールをよく知った上で、崩す。相手の音を聴きながら。
崩しかたのうまさやおもしろさが、各々のスタイルとなっていく。

ああ、知っている。
ジャズを始めた時に、皆が言っていたそのことと同じじゃないか!

自由に踊る時間のなかで、わたしはただただ怖い顔をしていた。

時間になると、エントリーをしたダンサーたちが即興でペアを組み、踊り始めていた。目の前で即興で踊るペアは次々に審査されていく。最後に優勝ペアが選ばれたとき審査員は、「とにかくみんなのダンスが素晴らしく、簡単に優劣をつけられるものではない」のだといった。そしてそのあとに続けた。「二人で踊っている感じがするペア、互いに愛情を感じるペアを選びました。」

二人で踊るということ。そこには自分と相手がいて、2人だけの世界のはずなのに、見るものを大きく震わせるような共感の響きを与えること。

「踊る」っていうのは、全ての連続した感覚や動きのシークエンス。音楽もそう。一つ一つの音が様々なパターンでつながっていく。各々が出す音や動きのその先が、自分自身すらも知り得ない大きなグルーヴにつながるのだ。

ダンスをはじめたばかりの自分には、とにかくできないことだらけで、自分にも他人にもどこにも優先順位なんてつけられっこない。けれど様々な人たちと踊る時だけは、あんまり怖い顔はしないでおこう。相手を信頼していないと、わかるものもわからないのかもしれないな。むずかしいことをコネコネ考えているうちには、表現が自身の身体感覚のそとへと広がることはきっと、ない。

体験や思いをことばにするとそれ以上の思考が制限されてしまうこともあるものだから、なかなか「これはこうだ」と断言はできかねるものだ。

けれども思う。
すべては、ぼうけんです。


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