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使い捨てカメラ、一瞬の残像

フィルムカメラは遠い思い出。小学校か中学校のころまで遡る。
あの頃はインスタントカメラや安いフィルムカメラで写真を撮ったりしていたっけ。

周囲にプロのカメラマンや、アマチュアでも写真が趣味の人たちがあまりにも多い今。そんな中、今更写真を真剣に撮ろうなんて考えたりはしなかった。

それよりも、目の前で起きていることに集中して楽しみたいな。そんな風に思っていたので特段カメラにハマったりはしなかったが、数年前から時々撮っていた写ルンですの写真をこのゴールデンウィークにようやく現像した。

写真の中には、時間を超えた友人たちの姿があった。

3つのカメラをランダムに使っていたので、場所も時系列もばらばらの写真たち。

スマホで同じ構図で撮ったとしても 、こういう質感にはならないであろう味のある写真が撮れていた。

わたしは人の似顔絵を描くのがとても好きだ。

人間の顔、表情というものになんとなく興味があるのかもしれない。

現像したものの中で、風景をうつした写真には特段何も感じることはなかったが、こうして人がうつっているものには何らかの文脈や空気感を感じることができて、それもまた面白いのだ。

今や仲の良い交友関係を築いている人たちとの最初の邂逅、もう住んでいない街の風景、空き時間の暇つぶし。

決して写真がうまいというわけではないのだが、写真のなかには相手との関係性のようなものも映し出されているような気がする。

どれもこれも、こんな写真になっているなんて思わなかったものばかりだが、写真のなかの彼らはとてもいい表情をしている。

その表情はカメラに向けられたものであり、同時に「わたし」に向けられたものでもあった。

彼らはカメラに向かって止まっているのか、動いているその一瞬がおさめられたのか。

それすらよくわからなくなってくる。

過ぎ去っていく時間を切り取って残すという、写真の持つシンプルな役割に気づかされる。

もしかしたら自分しか知り得ないかもしれない場面や、誰かの表情。

カメラを通して、決して手に入ることのない「時間」の、一瞬のきらめきに手を伸ばす。

その残像を、いつまでも見つめる。



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