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創業2ヶ月で地銀と公庫から2億円融資を受けたCRAFTSAKE醸造家の話

初めまして稲とアガベ株式会社の岡住修兵と申します。

2021年3/1に法人登記した当社は、
2021年秋に秋田県男鹿市に新たなCraft Sake醸造所を立ち上げるべく奮闘しております。

当社は今年の5月10日に0.3%という低金利で、
日本政策金融公庫と秋田銀行から2億円を超える融資を受けることができました。(3年据え置き、返済期間20年)                 

秋田銀行プレスリリース

日経新聞


多額の融資を受けられるような大きな資本の会社かというと、

資本金は妻と一緒にコツコツ貯めた200万円。

株主は僕ひとり。

従業員も今年の4月から雇用した2人だけの小さな会社。

醸造所として活用する建物も賃貸物件なので、差し出せる担保などなく無担保です。

補助金ありきの融資かというと、大きな補助金は一切活用しない事業でした。


(補助金頼りの事業ではどこか甘えてしまうので、補助金は最初から検討に入れなかったとか言いたいですが、検討はしまくりました笑 補助金無茶苦茶詳しいです笑 単に条件や時期の合う巨額の補助金が存在しなかっただけです。ただ海外マーケティングのための補助事業で200万円程度のものが採択されたので、完全に0ではないです。)

創業まもない地方の小さな会社がなぜこのような条件の融資を受けることができたのか?
僕も不思議でならないのですが笑
今回の融資に至るまでに経緯を、前職の酒造会社を辞めてからの三年間について少しだけ書いてみたのがこのnoteです。

正直書きたいことが多すぎて、あまり纏まってはいません笑

乱文で恐縮ですが、
コロナの時代、資金調達に悩むすべて方々に、何か少しでもヒントとなるように僕の事例をお話しさせていただきます。

・起業に至るまで

1988年 福岡県北九州市生まれ
2014年 神戸大学経営学部卒
アントレプレナーシップとベンチャーファイナンスを専攻(忽那憲治ゼミ)
起業家の社会的な役割は雇用の創出であると学び起業を志す

と最大限カッコつけて書いてみましたが、
特にやりたいこともないのに浪人したり留年したりとふらふらしていた、
ただのクソみたいな学生でした。
大学の同級生は岡住はいつ死んでもおかしくないと思っていたようです(まじです)

そんな中、
神戸の日本酒居酒屋「ぼでが」
秋田県の新政酒造のお酒を飲み衝動的にここで働きたい!と思ってしまい、ぼでが店主の木村さんにその想いを伝えたところ、
木村さんがお店のfacebookページに「新政で働きたい男の子がいる」と投稿
→新政酒造の佐藤社長から「いいっすよ」コメントが入るというミラクルが起き、DM送ってアルバイトでの入社が決まってしまいました。

(努力をしないダメ人間だけど、昔からなぜか人に恵まれてて、運だけは良いんです。ご先祖さまがたくさん徳を積んだんだろうとまじで思ってます笑)

そんなこんなで、2014年4月から誰一人として知り合いのいない未知の土地秋田での生活がスタートしました。ぷらぷらしている期間が長かったので、25歳の時でした。

今回の記事では割愛しますが、新政酒造という酒造会社で、天才という言葉がよく似合う社長、尊敬する師匠や先輩方、同年代の蔵人と日々の酒造りを最大限楽しみつつ、
半月で給料使い果たすくらい毎晩飲み歩き、
財布がすっからかんでも飲みに出歩く、
そんな毎日を過ごしていました。

秋田の方々は心も体もぼろぼろの僕を暖かく迎え入れてくれて、飲み屋のカウンターで出会う見ず知らずのお兄さんや、おねえさんが「秋田さよぐ来た!」と奢ってくれたり、時に生意気だとお叱りを受けたり、時には喧嘩したりしながら、会社以外でも交友関係が増え、7年経った今では秋田中の市町村にいつでも泊めてもらえるような友人ができました。
死にかけの自分のこころもからだもすっかり元気にしてくれたのが秋田という土地や秋田でできた仲間たちです。

そんな秋田に何か恩返しができればなあ、というのが、
今回秋田での起業の最大の動機です。
ただ醸造所を作ってお酒造りをするのではなく、醸造所をハブにさまざまな事業の立ち上げを画策しています。

自分の人生の目標は、ふたつ。

一つは、
「一生をかけてでも、日本酒の参入規制を突破し、若い醸造家の独立の道を造ること」
実は、日本酒産業は、現行法ではM&A以外では新規参入が認められていません。現行法を変えて規制緩和を起こすために行動しています。
この辺の話もまたいずれ。

もう一つが、
「死ぬまで秋田に優良な雇用(事業)を創出し続けること」
起業家の社会に対する最大の貢献の一つは雇用の創出だと、大学のゼミで学びました。
これが自分が秋田にできる最大の恩返しだと考えております。

・農業がキーポイント

お世話になりすぎた、新政酒造を2018年6月に色々あって退職して、

(2017年の年末にテキーラ好きのかみさんと結婚して、かみさんは2018年5月に仕事を辞めていたので)

奇しくもめでたく夫婦揃って無職になりました。

(本当に色々あり憔悴しきった僕に、かみさんが「よかったね!これでやりたいことできるね!」って言ってくれて背中を押してくれたから今があるのはかみさんには内緒)

この時立てた目標が、3年後に自分の醸造所を立ち上げるということ。

なぜ3年後かというと、
今の自分にあるのは新政でお酒造りをしたということだけ。
そのため今の自分ではお酒造りに関しても、
その後のお酒の販売に関しても、
説得力を持って金融機関や投資家に説明できない。
それでは資金調達に難儀するだろうと思ったから。

学生時代にベンチャーファイナンスを学んだ経験から、自分を客観視できたように思います。忽那先生ありがとう!

資金調達のために説得力をつける
三年間の旅がここから始まりました。

時間はある。

そんな中、まずは、農業を学びたいなーと思い、門戸を叩いたのは、秋田県大潟村の自然栽培米のパイオニア農家の石山さんでした。


稲作を最初に学ぼうと思った最大の動機は、お米を使用して4年半もお酒を造ってきたのに、「お米のこと何にも知らねーな」ということ。
同じ品種でも、農家さんによってお米は全然違う。名人と言われている農家さんのお米を使うと、なぜかいいお酒ができるんですよね。

それがなぜなのか単純にいつか知りたかった。

田んぼの日当たりなど環境の違いや、その年の気象条件の細かい違いが、お酒の味わいにどんな影響を与えるのか?そこまでお米のことを理解して、お米の違いを理解して、お酒の一滴をつくれるように、いつかなれたらなと。

ちなみに自分が目指す醸造所は農業から醸造まで一貫して行う、栽培醸造蔵。
栽培醸造蔵である方が、注目を集めやすい。販売につながる=資金調達につながる、という打算的な思いももちろんあります。農業で雇用を生むこともできますし、努力次第では、地方に広がる耕作放棄地の再生など意義のある活動につながるかもしれないというのも、もちろんあります。

でもライフスタイルとして、夏は田んぼで汗ながして、冬は蔵にこもって酒造り。
そんなスタイルで生きれたら、しあわせだろうなーというのが実は一番大きいこと。

いざ、門戸を叩いた石山さんは自然栽培のパイオニア農家です。
JAS有機という有機栽培の認証制度があるのですが、その制度開始と同時に日本初の認証を取得した数少ない農家の一人。いわば無農薬のレジェンド農家です。
有機栽培から数年前から全量自然栽培という栽培方法に切り替えて稲作を行っています。
切り替えたきっかけは、ある年に、とある方から無肥料でお米を造ってくれと言われ、実験的に田んぼ一枚だけ無肥料・無農薬の自然栽培をやっていたところ、
奇しくもその年はいもち病という病気の大発生した年でした。
他の有機栽培の稲がいもち病に犯されていく中、肥料を抜いた自然栽培の田んぼだけ病気にならなかった。
その経験から、肥料を抜けば病気に強くなるんだというのを実感して一気に無肥料栽培に石山さんは切り替えました。
自然栽培に切り替えて15年ほど。非常に安定させるのが難しい自然栽培で毎年安定的に収量を確保している傑物農家です。
安倍昭恵さんに農業の指導を行った方だったりします。

実はそんなこと詳しく知らず軽い気持ちで、自然栽培に興味があり、ある日訪ねた石山さんに、田植えまでは人が必要だから来るか?と言われアルバイトとして雇用していただきました。
たった3ヶ月でしたが、濃厚な毎日を過ごさせていただきました。
(自然栽培に従事したとかいろんなところに書いてますが、実はたったの3ヶ月のど素人です。すみません笑)
もちろんそのあとも農業はさせてもらっていて、
石山さんと同じ大潟村の僕の大親友松橋さんの農家で、有機野菜の栽培の手伝いなどをさせてもらっていました。
松橋さんのお野菜、特にアスパラ最高にうまいですよー。


実は最初に思い立った、この農業が、今回の資金調達の最大のキーポイントになります。詳しくは後ほど。


当時主な収入が無い中、事業を始める資金を貯めないといけないので、朝から農業させてもらって、夜は、秋田市の日本酒DININGKUROさんでバイトして、朝8時から夜中の0時まで働く日々だったなあ。

雨で農業のない日は、秋田市の雑貨屋まど枠さんで働いてた。
同時にNEED the PLACEというお店の立ち上げに参画して、酒バイヤー、イベンターとしても働いてた。

秋田市から大潟村までの片道50分の夜中の運転で、何度も寝落ちしそうになりながら、死にかけたことは何度も。かみさんからはそんなに働いて心配だから働かないでと怒られながら、何かはわからないけど何かに負けたく無いと闘った。そんな日々でした。


この時仕事をくださった秋田の方々はみなさん大恩人。
目黒夫妻、松橋さん、伊藤さん、林さんありがとう!
いつか恩を返さねば!
特にお世話になったKUROさんのリンクを貼ります。素敵なご夫婦のお店。秋田にお越しの際はぜひ!



・稲とアガベで実績造り

石山さんと交流する中で、お米を卸値で購入させていただけることになり、まず自身の日本酒ブランドを造ろうと考えました。

まずブランド先行でスタート、醸造所はそのあとにしようと決めました。その方が圧倒的にリスクが低いから。

石山さんが行っている自然栽培ですが、実は僕にとって無農薬であることより無肥料であることの方が重要だったりします。
お酒造りにおいて肥料とタンパク質の関係というのは一般的にもよく議論されることでして、
いいお酒を造るために、肥料を抑制して、収量はあまり採らないでください。というのが一般的な酒造会社の契約栽培農家への要望です。

そもそも肥料を抑制してタンパク質を減らす必要があるのか?
その理由の一つは、タンパク質は発酵においてアミノ酸に分解されるのですが、日本酒においてアミノ酸は雑味と捉えられる場合が多いためです。
タンパク質はお米の外側に多く含まれるため、酒蔵はお米を磨きます。
多く磨いたお酒を吟醸とか大吟醸と呼んだりします。

実際自然栽培のお米を食べると、普通のお米よりさっぱりと清らかな味わいがします。
これはお酒の味わいにもつながるのでは?と仮説を立てました。

お米は磨かずに、田んぼを磨く、自分の腕も磨いて、吟醸を造る。
お酒造りのコンセプトは決まりました。

醸造をお願いしたのは、群馬の気鋭の酒蔵土田酒造さん。
新政時代に土田の杜氏の星野さんが新政に研修にいらっしゃったことがあり、その時から交流が続いていました。
お酒をつくろうと思ったときに、真っ先にお願いしたところ、すぐに土田社長に相談いただき、二つ返事でOKいただきました。

酵母無添加生酛という無添加の製法で、お米も磨かずに造りたいということを伝えると、実は実験的に作っているんだと出てきたお酒が、イニシャルMというお酒。ちなみに日本酒における雑味であるアミノ酸がどかっとでたお酒でした。
恐る恐る飲むと恐ろしく旨い!これを自然栽培米で造ろう!
(いまは同一コンセプトのシン・ツチダというお酒に進化してます)

このような流れで自身のブランド「稲とアガベ」は生まれました。
もちろんこのブランド造りが資金調達の要でした。
石山さんと土田さん、星野さんのお陰です。感謝してもしきれません。一生かけてでも返しきれない御恩です。

自身のブランドを作った最大の理由は、販売実績を積むということ。
資金調達に際して金融機関や投資家から一番問われるのは、本当にその商品、サービスは売れるの?儲かるの?ということだと考えました。

そこの実力をどうあげるか?どう見せるか?が創業までの準備期間において最も重要だと考えてました。

自身のブランドを造り、もしそのブランドが市場で飛ぶように売れている状態を作り出すことができれば、醸造所立ち上げの資金調達もあまり労せずできるのでは?という考えです。
2020年は、その勝負をしてきた一年間でした。

自身のこの勝負のブランドは、

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