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ある批判をするためのプラグマティズムの個人的な外連味や過飾なき極最小のまとめと三角関数とか文系の話(読書日記としての)

個人的なメモ。久々に読み直した本の読書感想文、あるいはメモの類いなので、精緻な読みは出来ていない。覚え書きである。あとでブログにうつす。

そのため、まとまってないし、話が方々にとぶ。
またとんだ内容もうろ覚えが多いとおもわれるので修正箇所がなんこもある。

詳しく知りたい人は、本を読むといい。



プラグマティズム

有名な哲学者の名前と思想

チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェイムズ、ジョン・デューイ

この三名が有名。高校倫理の教科書にも載っている。
後ろ二人はフルネームで記載されることが多いが、
パースのチャールズ・サンダースは省かれることが多い。
長いから。

この三名が重要で、それ以降の人たちも皆、この三者をネタに己のプラグマティズム理解を披瀝する。

今はパースが重要

この三名の文はパースを除けばわかりやすい。
ただしパースには数学者としての側面があり、この数学を理解できるか
どうかが問題で、そこがやや忌避されがち。

後述するが、後にパトナムが哲学者ポール・ペナセラフとともに『数学の哲学』を出版する。

パース自体はフレーゲやラッセルなどの「論理主義」に与していなかった。
論理主義は数学は論理に還元されると考える。

けれども、パースは数学から分離して、固定的な分野に関する適用例が論理学だと考えていた。
そのため、パースをフレーゲやラッセルと同様にみるのは留保がいる。

で、これがためにクワインのパース批判も正当であったかがわからなくなる。

クワインの批判



クワインは昔、真理はある事象と一対一の関係ではないという。
多様性があるといって、パースを批判していた。

本書でわかりやすいたとえがあるのでアレンジして利用する。

・日本語を母語にしていない人物がウサギをみて「ギャバガイ」という
・そのギャバガイを私ズンダがみて「うさぎ」という意味だと察する
・しかし、その「ギャバガイ」という意味は「耳が長い」という意味かもしれないし、「白い」という意味かもしれない
・つまり、本当は何についていっているのかわからない。
・これを「根底的翻訳の不確定性」という


ところが、パースの数学と論理学についての考えはラッセルやフレーゲの「論理実証主義」とは異なるので、クワインの批判は妥当ではなくなってしまうわけだ。

またこれは論理実証主義を批判するためだったが、相対主義への道をひらいてしまっているので、クワイン哲学をどうみるかの分け目にもなっている。

数学はマウント養成器

ソーカル事件



問題は論理学と数学との関係である。
数学をつかえば哲学は担保できるのか?という問題。


この偏見にまんまとだまされたのが「ソーカル事件」であった。

パース解釈の怖いところは、頭の中に「ソーカル事件」が蘇るからである。

私たちの中には数学が苦手な人間が大勢であり、
それゆえ、「数学が使われているとそれが、正しいものにみえる」という一種の偏見がある。

数学は遺伝率が高い以上、特定の人間にしか触れることができない分野である。

数学は教えられるか

そう考えると、子供達に数学を教えるのがそんなに大事なのか?という気もしてくる。もとから選ばれた人間以外はできないのだとすれば、これほど大衆教育に不向きな分野はないだろう。

私たちが勘違いしているのは教育内容が同じだったとしても、その質や環境や遺伝はみなそれぞれ違うということである。

これがいつも馬鹿馬鹿しい話だとおもってしまう。
「お前にとってあたりまえのことは、他の人にとってあたりまえではない」という端的な事実をムシしてしゃべってしまうのだ。

こういう観点からすると藤巻健太衆議院議員が「三角関数よりも金融経済」といったのかもやや理解できなくもない。といっても、金融経済は三角関数があるとおもうのだが、要するに彼が言いたいのは
「人生で多くの人間にとって役立ち、理解できることを学ばせた方がよくない?」ということだったのだろう。

というのも古典漢文以上に数学を理解できる人間は殆どいないし、解ける人間もたいしていないからである。

多くの人の誤りは、「やればできる」という謬見のせいだ。

われわれは5教科が大事だといわれるし、それによって選別されるが、本当に使うのはこれらの科目ではない。保健体育のほうよほどに人生で役に立つし、それこそ税金の授業や恋愛結婚の授業でもしたほうが今の日本にとっては重要だろう。

分数が出来ない大学生を思い出せ

実はこの議論、私は数十年前にあった『分数が出来ない大学生』を思い出す。
そのためTwitterで三角関数云々が話題になぅたとき、私ズンダがみていたのは、誰かこの話をしないかなあ?ということだった。
そしてそこから、遺伝や教育学の話に広がらないだろうか、と期待していたがそんなことは当然なかった。

単に「自分は三角関数がわかりますよ」という自慢に終わっていて、くだらねえなあ、とひとり悄然としていたのである。

で、この本は、京大教授が早稲田だかへ教えに行ったときに「分数すらとけない」といって嘆いたモノだ。

これに対して堂々と批判したのが教育社会学者の苅谷剛彦である。
どの本で批判していたのかは覚えてない。
なんならその批判の仕方も実はあまり記憶してないのだ。
ただ、その鮮やかな批判にうならされたのを覚えている。

『大衆教育社会のゆくえ教育と平等』
『大衆教育社会はいかに生成したか』
『教育改革の幻想』

この辺りだったような気がする。
正直、日本の教育だの人の能力だのについて語りたくなったら
苅谷氏の本は最低限、よんでおくべきだとおもう。

そして読んでない人間の言論はすぐにわかるので、批判ならともかく無知ゆえの言論は私は意義を感じない。

要するに、教育環境が全く異なる人間にとっては「分数をとけるのはあたりまえではない」といった内容であった。

当然、苅谷は社会学者なので「環境を重視する」わけである。
教育社会学の世界では子供の学力などは「環境を絶対に無視できない」というのが答えなのだ。

そのため「環境が悪くても自助努力すれば」という中高生あたりが好きな言論は「噴飯物」といえる。

これが遺伝学者になると「環境ではない。遺伝である。環境をかえればどうにかなるというのは幻想」というところにいくのが面白い。

何かが全員にとって重要なわけではない

早稲田の政経などは今は数学が必須だかになっていたような気がするが、昔は英語や社会や国語だけで入学できた。
場合によっては数学などに全く触れないで入学できる。

たとえば、皆さんが、文系志望で早稲田に受かろうと思ったとき
あなたは数学を勉強するだろうか?

まともな人間なら一切しないはずである。
数学にとられるリソースを考えれば、数学の勉強はその人にとって
ムダだからだ。

というか、数学の勉強をするほうがバカといえる。
必要のないことをやるわけだから。趣味でしかない。

なんなら、分数が出来ない大学生は、
むしろ、
「バカではない。頭がいい」のである。

「頭が良い」からこそ彼らは数学を一切忘れたのだ。
自分の早稲田合格を確実なものとするために。

このように実は私たちはなんでもかんでもできるわけではない。
必要なことは人それぞれ異なる。
それは自分の能力、才能や年齢や環境による。

ここから私ズンダの場合は、努力主義や自己啓発を否定しているわけだが。

以前、Twitter上で「三角関数うんぬん」が話題になったが、
あれは「文系に利用されている数学好きの人々」の憂さ晴らしでしかなかったようにおもえる。

高校数学程度の三角関数なら私ズンダでも解けたが、ではその程度で「三角関数がわかった」といっていいのだろうか。

数学できる派の数学コンプレックスが見落とされている


私はあのあたりの文系批判をみると「数学コンプレックス」があるだけなんじゃないかとおもわないでもない。

数学をやたらに「高く評価する」あるいは「低く評価する」のもどちらもコンプレックスである。

いわゆる、理系の人間がそもそもどれだけの数学力をもちあわせているのか実は謎である。
この部分はなぜか等閑視されている。

要は「理系だから数学ができる」という前提が共有されているが、その人たちの水準がどの程度なのかは一向に議論されないまま
「文系たたき」を行う権利が与えられているのである。

ずいぶん無邪気な連中だと思うが、人間らしいと言えば人間らしい。
ウィル・ストー『ステータス・ゲームの心理学 なぜ人は他者より優位に立ちたいのか』という本があるが、この中にはそういう例が五万とあり、社会から離れたいと思う人々がいるのも宜なるかな。

数学をとくだけで精一杯


この「文系たたき」には経済学者がいたりするが、その経済学者はMMTが出て以降、読解力がたりないせいなのかまともな批判をしないで、藁人形論法を積極的にしていたことは記憶に新しい。

すると彼らに必要なのは数学ではなくて、読解力だったのではないか。
あるいは、他の説を受け入れるだけの寛容さだったのではないか、ということになる。

また、「海水派」「淡水派」といわれるように小難しい数式を理解したり解けるようにするために、「自分が何をしているのかを理解する猶予」がない人々がいる。

要は数学者のまねごとをしているだけで、それが経済を把握するのに役立っているのかは考えなくなってしまう。

だが、もちろん、そんなことは彼らは認めないし、言わない。
自分たちが不利になるからである。ステータスを守るために知らぬ存ぜぬを決め込む。

Twitterには彼らのフォロワーや友達などがいる。

この友達というのはけっこう厄介である。
私たちは自分が個人的に付き合いのある人々を批判できない。
そこにはツテコネの世界があるし、不和が生じるとストレスがたまる。

「分数が出来ない大学生」と同じ人たち


当たり前だが、数学者並みではないだろう。
正直、かなり雑な議論がTwitter上では繰り返されていて辟易する。

色々見ていて思うが、彼らは数学ではなくて、
人文系の教養を学んだ方が良いと思う。

要は小馬鹿にしている文系学問の勉強が
足りないのである。

それゆえ「僕は、三角関数をしってます!」という小学生染みた傲語しかできなかったのだ。
残念ながら、語り方や話題の広げ方は、数学では学べないのである。

だが、

本などを読んでいる時間などない、と彼らは言うだろう。
本を読むのは苦手だ、と彼らは言うだろう。
本なんてくだらない、と彼らは言うだろう。


それが、「分数が出来ない大学生」ということなのだが、
お気づきになっただろうか?
論理力があれば気づけるはずだが。

ぶっちゃけ、各分野、ピンからキリまででしょ


人文系での批判、特に社会学への批判だが、
彼らの頭にあるのは「宮台 真司、古市憲寿、上野千鶴子」などであって、テレビに出てるわけでもない人たちのことは全く知らないだろう。

とりあえず、知っている人間が自分にとって気に入らない。
それが数名いる。そうすると、その数名を以てして「この学問はクソ」という。

ちなみに最近だと宮台に関しては評価されるようになっているかんじがするが(youtubeの動画のせいか?)、十年前や二十年前だと古市みたいな扱いだった。

結局、年齢をへると重鎮扱いされやすくなるのかもしれない。
私たちは他人をみるときの明らかな違いは年齢である。

20代の彼を知っている人間と60代の頃の彼を知り始めた人間とでは解釈が違うのである。

プラグマティズムの話に戻る

ネオ・プラグマティズム



先の三者からくだって、クワイン、ローティー、パトナムが有名。
フルネームは面倒なので省略。wikiをみればいい。
ネオ・プラグマティスととよばれる。

クワイン、ローティーはパース批判をし、パトナムはパースを肯定的にみてローティーやクワインを批判する。

ローティーはパースを「プラグマティズムという名をつくっただけの人」と小馬鹿にしており、眼中にない。

クワイン「経験主義の二つのドグマ」が大事。前述した。
ローティーは「反基礎づけ主義・反表象主義・自分化中心主義」
パトナム「素朴実在論・自然的実在論・言語ゲーム」

ローティーはおもしろいー相対主義じゃないー

この中で一番面白いのはローティーで、後の二人はプラグマティズムへの純粋な批判や進化という感じがある。ローティーはぶっ壊していく感じ。


ローティーは「自分化中心主義」であり、「相対主義者、保守主義者」と批判される。
彼自身は「これは相対主義とは異なる」という。
その理由は以下。

「われわれ自身の」実践に即して、可能な選択肢の間の優劣を判定できる。認識や知識についての反権威主義を採用しても、「何でもあり」ということになるわけではない。

要するにそれぞれの共同体ごとに常識があり、その常識の範囲内にそった判断を人間はする。それゆえ、「なんでもあり」というアナーキーな状態にはなることはない。常識に沿った真理がある、ということだろう。

「何でもあり」にならないところが相対主義とは違う。

ところで、その「われわれ自身の」となるとこれは保守主義的であり旧套墨守ではないか?と批判される。

ローティーはトマス・クーンの「パラダイム理論」を援用して、科学者達の実験法やモデルがある段階で変化し、物事の見方が変わるようにローティーがいう「自分化中心主義」もそれと同じである。

それは偏狭かつ固定的なものではなく、時代の趨勢に伴い、可変していく。
「われわれ自身の」という可変した状態でわれわれは「実践する」わけである。

実際、これは納得できる。
生きているともろもろの変化がある。その昔は「○○すべきだ」というのが徐々に変化して「○○してもよい」になっていく。

すると、当然、実践もかわっていく。

別段、個人の話だけではない。

つくる会の主張はどうだったか

やや話が逸れるが、90年代に西尾幹二らによって「つくる会」という歴史の教科書がマルクスの階級闘争史観によって語られているのをどうにかしたいという団体があらわれた。

そこで彼らは「○○の歴史」という叢書を出版していく。

西尾がかいた『国民の歴史』において彼は確かトマス・クーンの『科学革命の構造』を援用し、歴史の書き方を変えることが許される担保としたのだった。

西尾のいったことが本当なのか当時、私はよくわからなかったが、ズンダブログでも触れたように2010年代になってから、ちらほら歴史学者の述懐を新書でみるようになった。

歴史学って何をしてるの?

『昭和史講義』や『決定版 大東亜戦争』や『一揆の原理』や『百姓一揆』や『歴史学という病』などである。

どの本にもマルクス史観の影響で日本史が描かれてきたといっているのだから、結局、西尾などの「つくる会」のその主張自体は外れたものではなかったのである。

しかし、彼ら歴史学者は90年代のときは沈黙していたのだろうか?
その当たりのことは全くしらない。

無論、90年代はまだ若手だったので発言しづらいこともあったのだろう。あるいは、つくる会に同調していても、下手なことをいえば干される可能性もあるだろう。

世代による見え方の違い

そもそも、当時は左の人間の方が多く、右寄りの人間をメディアでみることはあまりなかった。

あの空気感は2000年代の人間には分からないと思うが、本当に言論状況が違っていたのである。

という回顧はともかくとして、ローティーのいわんとしていることはよくわかる。
私たちの中にはそのときの常識があって、それに沿った形でしか真理をつかむことがない。

パトナムはわかりづらい。女性プラグマティストはおもしろい

ところがこれがパトナムによって批判される。

パトナムは結局、ローティーを「相対主義でしかない」というわけだ。

パトナムおよび、それ以降の哲学者はあまり面白みがなかったので省略する。
パトナムの価値はローティー批判と「現代のプラグマティスと」たちへの影響にあると思った。現代のプラグマティスとはパースをどう解釈するかという面で活躍しているように本書ではかかれているようにおもえる。

ローティーによって相対主義へと弛緩したプラグマティズムをいかに厳しく真理を求める方向へ切り替えるかという議論につながる。

個人的にはシェリル・ミサックが面白く感じる。ミサックはローティーを批判しているが、その批判もたとえばロールズの『正義論』と結びつけている。
ローティーの考えでは「自文化中心主義」であり、仮にどこかの国で虐殺などがおこなわれ、正義が達成されなくてもよいことになりがちがちである。

だが、プラグマティスとは認識論的な正当化とその主張の真理性への議論を一定程度は結びつける必要があるはずだ。

プラグマティズムにとって真理は有用性や実践にあるのであり、真理だけが宙に浮いているわけではないからである。

その認識と真理との間に逕庭があまりにもひどければ、そもそもプラグマティズムがなりたたくなってしまう。

このシェリルの批判は実に面白い。
ただし、ローティーやシェリルとちがい、ロールズは他国の文化を尊重しつつも一定のことに関しては関与すべきといっているので、
この批判というのはロールズの読解をこの二人がしくじっている可能性がある。
↓ズンダが紹介したロールズの新書。


で、ここで終わり。
ところで、私がこれを書いたのはメモであるが、私がやっている
スプラトゥーン界隈を批判するための序説でもある。

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