卒業論文『オペラ座の怪人』-主人公としてのクリスティーヌ-

およそ3年前に出した卒業論文になります。
小学生の頃にウェバー版オペラ座の怪人の映画版を見てからずっと好きで、ついには卒業論文でテーマにしてしまったオタクです。

感情が入りすぎたせいでB判定をもらった論文になりますが、同じくオペラ座の怪人でレポートなど書きたいと思っている人や、ミュージカル作品を深く考察してみたい人の参考になればと思い載せます。

2020年12月時点での情報を集めた論文になります。
読みやすいよう、元の論文より改行を多めにしたり、表記を変えているところもあります。
誤字あったらスルーしてください。教えてくれても構いません。暇なときに編集します。

序論


オペラ座の地下に潜む醜い顔の怪人と、彼に見初められた歌姫の悲恋の物語。アンドリュー・ロイド=ウェバー (Andrew Lloyd Webber) らによって制作されたミュージカル『オペラ座の怪人』 (The Phantom of the Opera, 以下ウェバー版) は、初演の1986年からロンドンのウエストエンドで30年以上もの間上演され続け、ニューヨークのブロードウェイでは最長ロングランの記録を保持している。ウェバー版は世界各地で上演され、ミュージカルの金字塔としてその名を馳せてきた。

原作はガストン・ルルー (Gaston Leroux) の同名の小説 (1910) である。しかしミステリーなど様々な要素を含むゴシック小説の原作とは異なり、ウェバー版は作品の恋愛要素に焦点を当てたラブストーリーになっている。19世紀のパリのオペラ座で、怪人であり作曲家のファントム (Phantom) と子爵のラウル (Raoul) が、ソプラノ歌手のクリスティーヌ (Christine) を奪い合うという三角関係の愛憎劇だ。

亡き父親に依存するクリスティーヌは、彼女に歌のレッスンをするファントムを盲目的に信じていた。しかしクリスティーヌが幼馴染のラウルと恋仲になると、ファントムは嫉妬に駆られ恐怖で彼女を支配しようとする。ラウルはクリスティーヌを救おうと奮闘するが、ファントムの彼女への歪んだ愛はオペラ座全体を巻き込んだ悲劇を引き起こすことになる。

 ファントムはタイトル・ロールであり作品を象徴する主要人物だが、この作品の主人公は彼ではない。本橋が指摘するように、ウェバー版はクリスティーヌを主人公とし、彼女の成長を描いた物語である(244)。

また、1986年の初演でクリスティーヌ役を演じたのは、ウェバーの前妻サラ・ブライトマン (Sarah Brightman) なのだが、彼女がきっかけでウェバー版が制作されている。実はウェバー版より前の1976年に『オペラ座の怪人』はミュージカル化されており、ブライトマンは演出家ケン・ヒル (Ken Hill) にその作品でのクリスティーヌとしての出演を打診されていた。ウェバーがこのオファーをきっかけに物語に興味を持ったことが、ウェバー版の制作に繋がったのである (Heatley, 44)。

また、天才的な音楽家が美声のソプラノ歌手を愛するというウェバーとブライトマンの実生活が、物語の内容と重なっている。ウェバー版はブライトマンのために作られたと言っても過言ではない。彼女が演じたクリスティーヌに焦点を当てることで、『オペラ座の怪人』という物語を読み解くことができるだろう。

 本論ではウェバー版で重要な役割を持つクリスティーヌがどのように描かれ、成長していくのかを論じていく。第1章ではファントム、第2章ではラウルとの関係に着目する。第3章ではウェバー版以降に登場した『オペラ座の怪人』のアダプテーション作品を取り上げる。ウェバー版と比較しながら、作品におけるクリスティーヌの描かれ方を読み解いていく。
 

第1章 クリスティーヌとファントムとの関係


本章ではクリスティーヌがファントムとの関係を通じてどのような存在として描かれ、成長していくのかを読み解いていく。「父親の代替としてのファントム」、「媒体としてのクリスティーヌ」、そして「罪を犯す女としてのクリスティーヌ」の三つの項目に分けて論じる。

1. 父親の代替としてのファントム

ファントムとクリスティーヌは師弟関係を築いているが、それは支配と依存によって成り立っていた。ファントムは音楽の天使と身を偽り、彼女を騙している。音楽の天使は、クリスティーヌの亡き父親が天国から遣わすと約束した、おとぎ話に登場する存在だ。クリスティーヌがそれを信じてファントムに騙されてしまうのは、彼女が亡き父親に依存し続けているためだ。

ファントムはクリスティーヌの父親への依存を利用し、精神的に子どものままである彼女との間に師弟関係を築くのである。支配と依存によって成り立つファントムとの関係の中で、過去に囚われたクリスティーヌは大人に成長できずにいた。しかしファントムはその関係を自ら壊し、彼女と性愛関係を築こうと試みる。

 一幕の地下の場面で、ファントムはクリスティーヌを音楽で誘惑する。そしてウェディングドレスを着た彼女の等身大のマネキンを披露する。ファントムはこの場面で、クリスティーヌと結婚したいという意志を明確にしている。ルルーの原作やその他アダプテーション作品でも同様の展開を迎えるのだが、ウェバー版ではこの展開で性的緊張 (sexual tension) が強調されている。

この場面で歌われる「夜の調べ」 (“The Music of the Night”) には“Floating, falling, sweet intoxication. Touch me, trust me, savor each sensation.”「浮き上がっては落ちていく、甘い陶酔のひと時。私に触れてくれ。私を信じてくれ。あらゆる感覚を味わえ。」など性的な意味が感じられる歌詞があり、俳優はクリスティーヌが性的快感を覚えていると観客に思わせる演技をする場合が多い。

この場面はファントムとクリスティーヌが、教師と生徒から二人の男女へと移り変わる様子を表している。ファントムとクリスティーヌの間で描かれる恋愛がウェバー版を形作っていると言えるほど、作品において重要な位置を占めている。しかし二人の関係は、普通の恋愛関係とは異なっている。彼らの関係は擬似的な近親相姦であるからだ。

 クリスティーヌにとってファントムは父親同然の存在である。彼女はファントムを父親が天国から遣わした音楽の天使と信じていた。つまり音楽の天使を信じることは、父親を信じることと同じである。クリスティーヌの中で父親と、音楽の天使として現れるファントムは密接に繋がっているのだ。

2004年の映画版では友人メグ (Meg) による新しい歌詞が追加されている。“Do you think the spirit of your father coaching you?”「お父さんの魂に歌を教わっていると思っているの?」クリスティーヌがこれに肯いていることから、彼女が音楽の天使を父親の魂、つまり父親そのものと認識していることがわかる。彼女にとってファントムは父親同然であり、二人は擬似的な親子関係にあるのだ。しかしファントムが性愛関係を求めたことで、擬似的な近親相姦へと変化するのである。

 親子関係と性愛関係が共存した結果、二人は擬似的な近親相姦に陥っている。しかしこの矛盾した関係によって、クリスティーヌは亡き父親への依存を克服し、おとぎ話を信じる少女から大人に成長するのだ。

2. 媒体としてのクリスティーヌ

ファントムはクリスティーヌを媒体として利用している。彼は一幕の地下の場面で彼女に“Since the moment I first heard you sing, I have needed you with me to serve me to sing for my music.”「初めてお前の歌声を聴いた時から、私に仕え歌って欲しかった。」と歌いかける。彼は自分の音楽を創るためにクリスティーヌを必要としている。つまり音楽家であるファントムからすれば、クリスティーヌはギリシャ神話におけるミューズのような存在なのだ。しかし「仕える」という言葉から二人の上下関係が明確になっていることから、ファントムはクリスティーヌを、自分の音楽を形にするための媒体、道具として見ていると考えられる。

 また、ファントムはクリスティーヌを性的欲望の媒体として利用しようとする。彼は二幕で自作のオペラ『勝ち誇ったドン・ファン』(Don Juan Triumphant) を上演させる。この作品はルルーの原作では存在が言及されるだけだが、ウェバー版では重要な劇中劇として登場する。

この劇はティルソ・デ・モリーナ (Tirso de Molina) の『セビリャの色事師と石の招客』 (El burlador de Sevilla y convidado de piedra,1630) を始め数々の作品で受け継がれているスペインの伝説上の人物、ドン・ファンを主人公としている。ドン・ファンは次々と女を騙し、手に入れては捨てていたが最後は天罰が下り地獄に落ちる。

しかし『勝ち誇ったドン・ファン』では異なる結末を迎えることが、ルルー原作のファントムの台詞 “but my Don Juan, Christine, burns; and he is not struck by fire from heaven.”「しかし、クリスティーヌ。私が描くドン・ファンは情熱に燃えている。天の業火に焼き殺されはしない。」 (125) からわかる。また、原作ではファントムが自分とは対照的なドン・ファンに自身を重ねている点が描かれている。『勝ち誇ったドン・ファン』はファントムが自身の欲望を具現化した作品なのだ。

彼はドン・ファンとして舞台に立ち、クリスティーヌと劇中歌の「引き返せない地点」 (“The Point of No Return”) を歌う。これは男女の交わりを歌うデュエットで、彼がクリスティーヌと性的に求めていることを明確にしている。しかしファントムがクリスティーヌにドン・ファンの餌食となる処女の役を与えていることから、彼がクリスティーヌを性的に搾取する存在として見ていることがわかる。このようにクリスティーヌは、ファントムの欲望を具現化するための媒体として利用されるのである。

しかしクリスティーヌは媒体として利用されることを拒む。彼女はファントムの変装を解き、舞台を中断させる。そして仮面を剥ぐことでファントムの求婚を制止する。なぜならクリスティーヌにとって、ファントムとの性愛関係を受け入れることは擬似的な近親相姦に陥ることになるからだ。この後ファントムは逆上し彼女を再び地下へ拐ってしまう。しかしクリスティーヌは抵抗をやめない。彼女は、醜く歪んだ顔を全ての元凶と嘆くファントムに現実に目を向けさせる。“It’s in your soul that the true distortion lies.”「本当に歪んでいるのは、あなたの魂よ。」 彼女はこの後もファントムを非難し、抵抗を続ける。

これまでの場面でクリスティーヌはファントムの支配に屈するばかりで、抵抗することがなかった。精神的に未熟だった彼女は、ファントムに支配されることで亡き父親に縋り続けていた。しかしファントムが性愛関係を求めることで二人の擬似的な親子関係は破綻し、クリスティーヌは現実を見ざるを得なくなる。そのため彼女はファントムに抗い、その支配から抜け出そうとするのだ。

3. 罪を犯す女としてのクリスティーヌ

クリスティーヌはおとぎ話の存在を信じ続け、精神的に成長できずにいた。そのこと彼女が無垢で純粋な存在であることが分かるだろう。しかしファントムは作中において彼女に、罪を犯す女のイメージを持たせている。

 一幕、ファントムが初めてクリスティーヌを地下に連れ去った後、彼女は仮面を剥ぎ取る。するとファントムは “You little prying Pandora!” 「好奇心の強いパンドラめ!」と彼女を罵る。その言葉通り、クリスティーヌの姿が禁じられた匣を開けたギリシャ神話のパンドラに重なる。パンドラは人間界に災厄をもたらした女性として有名で、旧約聖書のイヴと共に罪を犯す女性として認識される。つまりここでファントムは、クリスティーヌの仮面を剥ぐ行為を罪と認識しているのだ。しかし仮面を剥ぐことだけが罪ではない。ファントムは彼女が自発的な行動を取ることを罪と見なしているのである。

 クリスティーヌは劇中劇 『イル・ムート』 (Il Muto) において、夫に隠れて愛人と逢瀬を重ねる伯爵夫人の役を代役として演じている。この作品は『勝ち誇ったドン・ファン』とは違いファントム自作のオペラではない。しかし彼はクリスティーヌに伯爵夫人を演じさせるよう手配しているのだ。彼女に魅力的な役を演じさせたいという思いゆえと考えられるが、この劇中劇にはそれより深い意味が込められている。

クリスティーヌは伯爵夫人を演じるが、その運命をも引き受けてしまう。作中に “This faithless lady’s bound for Hades!” 「不実な奥様は、地獄に行く運命!」という歌詞がある。伯爵夫人が不貞の罪を犯したことで罰を受けるという予言めいた歌詞なのだが、この運命は後でクリスティーヌの身に降りかかることになる。

ファントムは命令に背いた支配人達への怒りから、見せしめに大道具のスタッフを殺す。現れた首吊り死体に劇場中が混乱する中、クリスティーヌはラウルを屋上へと連れて行き、ファントムに抱く恐怖を打ち明ける。そして二人はデュエットの「私があなたに望むこと」 (“All I Ask of You”) を歌い、恋人になる。その様子を影に潜み見つめていたファントムは、報われぬ想いを胸に復讐を誓う。彼はカーテンコール中の舞台上にシャンデリアを落下させ、一幕が終わる。

この場面では実際にシャンデリアが観客席の上を通って落下する演出になっていて、ウェバー版を象徴するスペクタクルな場面になっている。しかし、この時シャンデリアは舞台上に立つクリスティーヌを目がけて落下する。ラウルの救助によりシャンデリアは彼女に衝突しないが、それが無ければ命の危険もあったことが示唆されている。エンターテインメント的演出ではあるが、クリスティーヌの命が危険にさらされる場面なのである。

このシャンデリアの落下は、ファントムがクリスティーヌに与えた罰だ。三人の関係性を劇中劇に当てはめると、クリスティーヌが伯爵夫人、ファントムが夫、ラウルが愛人になる。ファントムは彼女が真の主人である自分を裏切り、ラウルという愛人に乗り換えたのだと捉えている。彼は自分に逆らい自発的な行動を取ったクリスティーヌに、シャンデリアの落下という危険な罰を与えているのである。ファントムに殺意があったかどうかは解釈によるだろう。しかし屋上の場面でクリスティーヌは怯えながら“He’ll kill me.”「彼は私を殺す」と言っていることからも、殺意があった可能性は高い。

このようにクリスティーヌが自らの意志で行動すると、ファントムによる罰が待ち受ける。ファントムが彼女に自主性を認めない理由は、支配的な上下関係を維持するためだ。ファントムはクリスティーヌとの関係において、常に上の立場にいる。

本橋は、仮面は他者が顔を見えないようにするが、着けている人間には他者や外界が見える、という一方的な視覚による支配関係をもたらす道具と指摘している (259)。また音楽の天使と存在を偽っていることからも、ファントムはクリスティーヌとの関係でアドバンテージを持っていると言える。

ファントムは常に自分が上の立場でクリスティーヌを支配することで、彼女と繋がることができたのだ。しかしその関係は、クリスティーヌが立場を逆転させることによって壊れる。「媒体でのクリスティーヌ」でも指摘したように、彼女は二幕終盤からファントムの支配に抵抗し始める。さらに最後の地下の場面では、クリスティーヌは二人の立場を逆転させている。ファントムがラウルを人質にとり、恋人を救う代わりに自分と結婚するようクリスティーヌに迫ると、彼女は情けの心で彼を受け入れるのだ。

“Pitiful creature of darkness. What kind of life have you known? God, give me courage to show you. You are not alone.”「暗闇に生きる哀れな人。一体どんな人生を歩んできたの?神様、勇気をお与えください。あなたは独りじゃない。」 クリスティーヌはファントムに口づけし、抱擁して彼を受け入れる。愛を知らないファントムに、自分より相手を思いやることが本当の愛と身をもって示すのだ。その姿は罪を犯す女ではなく、聖女を思わせる。本当の愛を知ったファントムは改心し、二人を解放する。今まではファントムがクリスティーヌを導いていたが、この場面では立場が逆転し、クリスティーヌがファントムを導いている。この場面は彼女がもう精神的に子どもではなく、大人に成長したことを表している。


 本章ではクリスティーヌとファントムの関係を複数の観点から分析した。二人の関係は師弟関係という名の主従関係、そしてファントムの歪んだ性愛が生み出す擬似的な近親相姦関係となっている。クリスティーヌはこの矛盾した関係を通じて、亡き父親への依存を克服し成長していく。エンディングでも、彼女の成長が描かれている。彼女がラウルと共に地下を後にすると、ファントムは仮面だけを残して姿を消す。先述の通りファントムは自分の正体を偽る仮面をつけることで、クリスティーヌを騙し、彼女と支配的な上下関係を築いていた。残された仮面は、アドバンテージを失ったファントムがもう彼女を支配することができないということを表すだろう。クリスティーヌは亡き父親、そしてファントムによる支配から解放され、自由になるのである。


第2章 クリスティーヌとラウルとの関係


次に、クリスティーヌがラウルとの関係を通じてどのような存在として描かれ、成長していくのかを読み解いていく。「父親の代替としてのラウル」、「媒体としてのクリスティーヌ」、そして「英雄としてのクリスティーヌ」の三つの項目に分けて論じる。

1. 父親の代替としてのラウル

クリスティーヌの恋人であるラウルは、見目麗しい若者で貴族としての地位と人望を手にしているため、ファントムとは対照的な人物として物語に存在している。ファントムがオペラ座の地下という非現実の象徴で闇の世界に生きているのに対し、ラウルは現実の象徴で光の世界に生きている。しかしこのような違いがありながらも、クリスティーヌは二人を同じ存在として見ていることが考えられる。

 一幕、クリスティーヌは初めて姿を現したファントムに“Angel of Music, guide and guardian!” 「私を導き、守ってくださる音楽の天使よ!」と歌いかけている。第1章でも述べた通り、彼女は音楽の天使を父親そのものと認識している。つまり「自分を守り導く存在」とは父親であり、クリスティーヌはファントムを父親の代わりに「自分を守り導く存在」として見ていたのである。

しかしクリスティーヌは、デュエットの「私があなたに望むこと」 (“All I Ask of You”) において、これと似た歌詞 “You’ll guard me and you’ll guide me.”「あなたは私を守り、導いてくれる。」を、ファントムとは対照的なラウルにも告げている。ファントムが性愛関係を求めてクリスティーヌに正体を明かしたことで、二人の擬似的な親子関係は崩れ去る。彼女は「自分を守り導く存在」を失ってしまうが、代わりにラウルにその存在を見出すのである。

クリスティーヌがラウルに「自分を守り導く存在」を見出すのは、ラウルが彼女の父親と面識があるためだ。クリスティーヌは二幕の墓場で、赤いスカーフを身につけている。それは彼女とラウルが出会うきっかけとなったもので、父親がまだ生きていた子ども時代を彼女に思い出させる要因となっている。クリスティーヌの中で、ラウルと父親は密接に結びついている。またラウルがクリスティーヌの父親をよく知っていることが、この後の台詞で分かる。

ファントムが彼女を連れ去ろうとすると、ラウルは“Whatever you may believe, this man, this thing is not your father!” 「たとえ何を信じても、この男は、こいつは、君のお父さんじゃない!」と言って彼女を引き止める。クリスティーヌの実の父親を知っているラウルだからこそ、偽りの父親であるファントムの洗脳から彼女を救うことができるのだ。ラウルはクリスティーヌに、亡き父親を思い起こさせる存在なのだ。

一幕の終わり、クリスティーヌはファントムの元を離れてラウルの恋人となる。この展開は、クリスティーヌの恋愛感情の変化ではなく、彼女にとっての「自分を守り導いてくれる存在」の変化を意味している。なぜならクリスティーヌは作中で両者から愛の言葉を告げられるが、その言葉を返すことはないからだ。彼女にとってはどちらも父親の代わりで、同じ存在なのだ。

2. 媒体としてのクリスティーヌ

ラウルはクリスティーヌに自由を与え、守る存在として描かれる。しかし彼もまたファントム同様に、彼女を支配する存在である。仮面舞踏会で、クリスティーヌはラウルとの婚約指輪をチェーンに通し、ネックレスとして身につけている。ファントムは “Your chains are still mine.”「お前の鎖はまだ私のものだ。」と告げて、そのネックレスを引きちぎる。

この場面ではネックレスのチェーンと、ファントムが彼女に及ぼす支配の鎖が同義語として表現されている。つまりファントムは彼女を鎖につなぐべき存在と認識しているのだ。そして「まだ」という言葉から、自分が握っている鎖を二人の結婚によってラウルに奪われると考えていることが分かる。結婚は歴史上において女性を束縛し、自由を奪う制度であった側面があるため、これを被害妄想と片付けることはできないだろう。ラウルもファントムと同様に、彼女を支配する存在なのだ。

 また、両者は共にクリスティーヌを媒体として利用しようとする。クリスティーヌが『勝ち誇ったドン・ファン』への出演を辞退すると、ラウルも最初はそれに同調する。しかしファントムを捕らえる絶好の機会であることに気がつくと、彼はクリスティーヌを、ファントムを捕まえるための囮にしようとする。彼女は取り乱し懇願するが、ラウルは聞き入れず、結果としてクリスティーヌは出演を余儀無くされる。

このラウルの行動は、クリスティーヌへの想いよりも、ファントムへの敵対心が強く出た結果であると考えられる。ラウルはクリスティーヌを守る存在だが、この場面では彼女を危険に晒すという真逆の行動をとっている。この場面でラウルが強く気にかけているのは恋人のクリスティーヌではなく、敵であるファントムの方だ。ラウルは「ファントムに勝ちたい」というホモソーシャル的感情 (homosocial rivalry) のために、クリスティーヌをギリシャ神話のアンドロメダのような囚われの姫 (damsel in distress) として消費し、彼女を救うペルセウスのような英雄になろうとしているのである。この時クリスティーヌは、ラウルが自身の英雄性を主張するための媒体として利用されているのだ。

3. 英雄としてのクリスティーヌ

観客は一幕の屋上の場面から、ラウルを物語における英雄と認識するようになる。「私があなたに望むこと」はラウルがクリスティーヌを守ることを誓う内容で、ラウルが英雄という印象を観客に植え付けている。しかしこのような英雄性の主張は、ルルーの原作ではほとんど行われない。

原作のラウルは墓場の場面では彼女の洗脳状態を解けず、クリスティーヌと駆け落ちしファントムから逃れようとしている。反対にウェバー版のラウルはファントムに宣戦布告するなど、自身の英雄性を主張する行動をとる。2004年の映画版では白馬に乗る姿や、ファントムとの決闘など明確な演出で彼の英雄性が強調されている。ラウルはクリスティーヌに囚われの姫のイメージを強く持たせ、自分は彼女を救う英雄であると主張している。

 しかし実際は、ラウルは英雄ではない。物語の最後、ラウルはクリスティーヌをファントムの魔の手から救うことはできない。二幕の終盤、ラウルはファントムに連れ去られたクリスティーヌを救いに地下へ向かう。この行為自体は英雄性を示すが、正反対の結果を生み出すことになる。ラウルは逆にファントムに捕らえられ、囚われの姫となる。ファントムはクリスティーヌに自分と結婚するか、ラウルを見殺しにするかという究極の選択を迫った結果、クリスティーヌは自分を犠牲にすることでラウルの命を救うのである。

ここでの英雄はラウルではなく、クリスティーヌになっている。ラウルの生死の決定権はクリスティーヌの手中にあり、ラウルが英雄、クリスティーヌが囚われの姫という関係性が逆転しているのである。このことから『オペラ座の怪人』の真の英雄はクリスティーヌであることがわかる。

 物語の中でクリスティーヌは守られる存在である囚われの姫から、守る存在の英雄へと変貌を遂げている。彼女は自分が守る存在へと変わることで、誰かの助けを待ち続ける存在から抜け出していると考えられる。クリスティーヌは最初に父親を、次にファントム、ラウルと「自分を守り導いてくれる存在」に縋り続けてきた。しかしラウルと立場を入れ替わることにより、彼女は誰かを守る存在へと変わる。

この立場の逆転は、クリスティーヌが父親やファントムへの依存から抜け出し、精神的に成長したことを意味する。これまで述べてきたように、クリスティーヌは支配する男性によって自主性を抑えつけられてきた。音楽の天使が現れるのを待つよう教えた父親も、クリスティーヌの成長を妨げ自主性を抑えつけた張本人であると言える。この関係の逆転はクリスティーヌの成長だけでなく、彼女を支配し続けてきた男性達への反抗も意味していると考えられる。また、男が戦う英雄で、女性が囚われの姫という固定観念への反抗を意味するだろう。


本章ではクリスティーヌとラウルの関係を複数の観点から分析した。ラウルはファントムと正反対の存在だが、同様にクリスティーヌの父親の代替であり、彼女を支配すると考えられる存在だ。しかし現実を象徴するラウルだからこそ、クリスティーヌを父親・ファントムへの依存から抜け出させることができる。解放されたクリスティーヌとラウルは、ファントムを捕まえに来た群衆の目をかいくぐり地下を後にする。この後の展開は定かではないが、デュエットの「私があなたに望むこと」が再び歌われることから、ラウルとクリスティーヌは結婚すると考えられる。

クリスティーヌがオペラ座でのキャリアを捨てて結婚する結末は、彼女の自主性を否定するように思える。しかし、この結末はクリスティーヌが亡き父親への依存を克服し成長したことを表している。オペラ座は、非現実を象徴する劇場だ。大人へ成長したクリスティーヌはもう非現実の世界を必要としない。そのため彼女はオペラ座を離れて、現実の象徴であるラウルと共に外の世界へと旅立つのである。


第3章 ウェバー版以降のクリスティーヌ


本章ではウェバー版以降に登場するアダプテーション作品を取り扱い、ウェバー版との違いを指摘しながら、作中においてクリスティーヌがどのように描かれているのかを論じていく。

1. Susan Kay, Phantom(1990)

まずは、ウェバー版に非常に近いSusan Kay, Phantom (以下、ケイ版) に注目する。ファントムの誕生から死までが描かれた長編小説であるため、クリスティーヌに重きを置いた作品とは考えにくい。しかしこの作品は彼女を解放していると言える。ここではクリスティーヌの肉体、そして魂の解放について論じていく。

 まずは、肉体の解放だ。第1章で述べた通りウェバー版はクリスティーヌがファントムの音楽で性的快感を覚えている様子を、俳優の演技などによって示唆している。しかしケイは、直接的な表現を用いてクリスティーヌの自慰を描くことで、彼女の性的快感を克明に描いている。

There was a swelling heaviness in my breasts that caused my nipples to stand erect against my exploring fingers; but now the irresistible pulse was beating harder and more insistently below my stomach and my hand traveled farther and farther until it reached a place I had never known existed. (398)

胸が膨れ上がったように重くなり、乳首は指に触れて硬くなった。しかしその抗いがたい鼓動はもっと激しく、もっと執拗に下腹部を打ちつけていた。私の手はどんどん先へ下がって行き、今まで存在していたことも気づかなかった場所へと達した。

クリスティーヌは精神的に未熟で、快楽を知らないことから処女と考えられる。彼女が穢れを知らぬ処女というイメージは他作品にも共通し、ウェバー版では劇中劇や純白の衣装でその処女性が表現されてきた。そんなクリスティーヌが女性にとってタブーと認識される自慰を行う姿の描写は、彼女の肉体を解放していると考えられる。また、彼女はこの後ラウルと結婚し息子を産むが、その父親がファントムであることが示唆されている。クリスティーヌが夫ではない男の子どもを産む設定は、彼女の処女性を打ち壊し、女性に純潔を求める社会への反逆を意味すると考えられる。

またケイ版は、クリスティーヌの魂も解放している。ファントム亡き後の彼女の人生は息子を中心に描かれる。そしてその息子が成長すると、彼女は若くしてこの世を去る。Hogleは、この展開によってクリスティーヌはファントムと息子を繋げる通路としての役割を果たす道具に成り下がっていると指摘している (217)。つまりクリスティーヌはファントムの子どもを産むための道具であり、その役目はもう果たされたため、彼女はもうこれ以上生きる必要がないということなのだ。このような展開はウェバー版の続編として制作された『ラブ・ネバー・ダイズ』 (Love Never Dies, 2010) でも見受けられる。クリスティーヌの早い死は、彼女の存在意義の卑小化を意味するだろう。しかし逆に、死ぬことでクリスティーヌの魂が解放されていると考えられる。

 ウェバー版において、彼女がファントム、ラウルのどちらを愛していたのかは曖昧で、余白を持たされている。しかしケイ版は、彼女のファントムへの愛を明確に描いている。クリスティーヌはラウルとの駆け落ちを決めるが、それはラウルを愛していたからではなく、ファントムと生きる勇気を持てなかったために下した決断だった。そのため彼女はファントムに解放された後、自ら彼の元に戻り処女を捧げるのだ。このあとクリスティーヌはラウルと結婚するが、ファントムが死ななければ彼と結ばれていたことが示唆されている。ラウルは作中で“I had held her in trust for seventeen years until death chose to reunite her with the one to whom she truly belonged.”「私は17年間彼女を委託されていた。そして遂に死が、彼女を本当に結ばれるべき相手と再会させたのだ」(452)。と言っている。

クリスティーヌは死ぬことでファントムと結ばれ、彼女に安らぎを与えなかった現実から解放される。ジュリエットがロミオの後を追い自死したように、クリスティーヌは死を救済として受け入れるのである。


2. Arthur Kopit, The Phantom of the Opera (1990)

次にArthur Kopit, The Phantom of the Opera (以下、コピット版) を、ウェバー版との違いに着目しながら論じていく。本作はウェバー版の登場と圧倒的な人気によりミュージカル化の計画が一時頓挫し、代わりにテレビドラマとして制作された。その1年後の1991年に、Maury Yeston作曲でミュージカル化が実現している。 (Hall, 101) ここではテレビドラマ版を取り扱う。コピット版とウェバー版は同時期に制作されていたにも関わらず、設定や登場人物に大きな違いがあり、作品の世界観も異なっている。コピット版とウェバー版の違いを比較しながら、クリスティーヌの描かれ方について論じていく。

まず一点目の違いは、ファントムとクリスティーヌの関係だ。ウェバー版のファントムは誰にも愛されたことがないが、コピット版のファントムは母親に愛された記憶を持ち、完全に孤独ではない。その違いが影響してか、コピット版の二人の関係には依存や支配の要素はなく、対等な師弟関係になっている。二人は互いを尊敬し、慈しみ合っているのだ。
 二点目は、クリスティーヌの自立性の有無だ。先述の通り、ウェバー版では彼女は父親への依存のためファントムの支配下に置かれている。つまり父親はクリスティーヌを子どものまま縛りつける足枷となっているのだ。しかしコピット版の彼女は父親の面影に囚われておらず、オペラ座の舞台で歌う夢を抱き前向きに生きている。そのためコピット版のクリスティーヌはウェバー版とは対照的にファントムに支配されず、彼と対等な関係を築くことができているのである。

 この自立性はクリスティーヌに、ファントムとの関係においてエンパワーメントをもたらしている。コピット版のクリスティーヌは、ファントムに自ら仮面を外させることができるのだ。ファントムにとって仮面はアイデンティティそのものであり、迫害する人々から自分を守るための手段でもある。その仮面を剥ぐという行為は、ファントムの自尊心を傷つけることだ。しかしウェバー版とは異なりクリスティーヌは彼と友人のように対等な関係を築いている。また彼女はファントムの母親と瓜二つであるため、仮面を外させる力を持つ。母親に愛された記憶を持つファントムは、クリスティーヌにも愛されることを期待していた。彼女はその気持ちを知ると、ファントムに仮面を外すよう頼む。

“Your mother saw your face and smiled. If love could let her gaze at you and smile ... why can’t it do the same for me?” 「お母さんはあなたの顔を見て微笑んだ。愛がそうさせたのだとしたら…どうして私にも同じことができないと言えるの?」 (98) 

クリスティーヌは母親のように醜い顔を受け入れることで、ファントムを愛そうとする。つまりここでクリスティーヌは、ファントムの母親になろうとしているのである。ウェバー版では、ファントムはクリスティーヌの父親の代わりになろうとしていた。しかしコピット版では、その逆が行われている。クリスティーヌは支配される側ではなく支配する側になることで、二人の関係における主導権を握ろうとしているのである。この後、クリスティーヌはファントムの醜い顔に耐えられず、試みは失敗に終わる。しかしこの場面は、クリスティーヌが二人の関係において強者であることを表している。

 クリスティーヌがファントムの母親と瓜二つという設定はケイ版にも存在しているが、全く異なる影響をもたらしている。ウェバー版では彼女は父親への依存が原因で、ファントムと擬似的な近親相姦関係にあった。ケイ版では更にファントムの母親への依存が追加され、より近親相姦の要素を強めている。それに対しケイ版では性的な要素は排除され、近親相姦の要素はない。二人が互いに抱く感情はプラトニックな純愛、むしろ友情として描かれている。

3. The Phantom of the Opera (1989)

最後に、1989年に公開されたホラー映画The Phantom of the Opera (以下、1989年版) におけるクリスティーヌの強さについて論じていく。物語の基本的構造はウェバー版と同じだが、世界観が大きく異なっている。この作品は『エルム街の悪夢』 (A Nightmare on Elm Street, 1984) で主役を演じた俳優ロバート・イングランド (Robert Englund) がファントムを演じていることからもグロテクスな描写が多く、ファントムは大量殺人鬼として描かれている。また物語は現代のニューヨークから始まるが、クリスティーヌが『勝ち誇ったドン・ファン』を歌うと前世の記憶が呼び覚まされ、19世紀のロンドンにタイムスリップし、再び現代に戻るという複雑な構造になっている。

他作品と最も異なっているのは、クリスティーヌの描き方だ。彼女はウェバー版と同様に亡き父親に深く依存しており、その結果ファントムの支配下に置かれている。ファントムが悪魔と契約していることからもその力は超人的で、他作品より凶暴性を増している。それにも関わらず、1989年版のクリスティーヌは他作品では考えられない行動に出る。彼女はファントムを、殺すのである。

 1989年版のファントムはラウルを人質に取らず、躊躇いなく殺す。彼女に選択の余地を残さず、窮地に立たせるのだ。するとクリスティーヌはファントムを銃で撃ち、現世の世界へと戻る。ファントムは彼女を追いかけるが、その試みは失敗に終わる。クリスティーヌはファントムの命である『勝ち誇ったドン・ファン』の楽譜を破り捨て、彼を完全に殺害するのだ。

他作品のクリスティーヌは物語の最後に自己犠牲を払う。ウェバー版ではラウルを救うためにファントムに身を捧げ、コピット版では母親の代わりになりファントムを救おうとしていた。しかし1989年版のクリスティーヌは自己犠牲を払わず、ファントムを殺すのだ。第2章でも述べたようにクリスティーヌは物語の真の英雄だが、1989年版はその英雄性を強調している。また他作品では彼女がRaoulと結ばれるのが定番だが、1989年版のクリスティーヌは最終場面では一人だ。このことから1989年版はクリスティーヌがヒロインではなく英雄であることを強調していると言える。

 また1989年版は今まで描かれなかったクリスティーヌの一面を描いている。エンディングで彼女は『勝ち誇ったドン・ファン』を演奏するヴァイオリン弾きの男に遭遇する。男がファントムである可能性が示唆され緊張が走るが、彼女は前を向き歩き出し、物語は幕を閉じる。クリスティーヌがここで立ち向かわないことから、この男はファントムではなく、彼女が見ている幻覚、トラウマによる妄想だということが分かる。

1989年版は心に傷を抱えて生きていくクリスティーヌの姿を描くことで、ファントムが加害者、彼女はその被害者という構造を明確に描いている。これは数々のアダプテーション作品で無視されてきた構造だ。ウェバー版では最終場面でクリスティーヌがファントムに自分を騙したことを責める歌詞があることから、この構造を描いていると言える。しかし後にファントムの罪を肯定した『ラブ・ネバー・ダイズ』が続編として制作されていることからも、クリスティーヌが被害者という描き方は明確にはされていない。

 このことから1989年版は他作品とは違う視点でクリスティーヌを描いた作品であると言える。『オペラ座の怪人』のアダプテーション映画として名前が挙げられることは少ないが、1989年版はクリスティーヌが持つ英雄性の要素や、彼女が受けたと考えられる精神的苦痛を無視せず明確に描いている。他作品よりもクリスティーヌという人物に焦点を当てている、フェミニズム的な作品であると言えるだろう。


 本章ではウェバー版以降のアダプテーション作品におけるクリスティーヌについて論じた。ケイ版は彼女の自慰と死を描くことにより、肉体と魂の解放を描いた。コピット版はウェバー版と正反対の物語の中で、クリスティーヌの自立性とファントムとの関係における主導権が描いた。1989年版は彼女の英雄性と精神的苦痛を描き、今まで描かれなかったクリスティーヌの姿を表現した。『オペラ座の怪人』のアダプテーション作品はこの3作品の他にも多く存在する。しかしクリスティーヌという登場人物の核心に迫った作品は、他に類を見ない。

結論

本論文ではウェバー版におけるクリスティーヌの描かれ方と成長について考察した。
第1章ではクリスティーヌとファントムとの関係について論じ、彼女がファントムと擬似的な近親相姦に陥っていることを明らかにした。クリスティーヌはファントムの支配に抗い、立場を逆転させている。
第2章ではクリスティーヌとラウルの関係について論じ、ラウルがファントムと正反対でありながら同質の存在であることを明らかにした。クリスティーヌはラウルから英雄性を奪い返し、支配や固定観念に抵抗していく。ウェバー版においてクリスティーヌは自分を支配する男たちの支配に抗うことで亡き父親への依存を克服し、大人へと成長する。
第3章ではウェバー版以降のアダプテーション作品におけるクリスティーヌについて論じ、彼女の解放、自立と主導権、英雄性と精神的苦痛が描かれていることを明らかにした。それぞれ異なる物語を描きながらも、新たなクリスティーヌ像を確立した作品である。

 『オペラ座の怪人』の原作はフランスで書かれた。それにも関わらず1925年の映画版を皮切りに、英語圏を中心にアダプテーション作品が発展し続けてきた。現在でもテレビドラマや映画化の話が持ち上がるほど、その勢いは衰えることを知らない。なぜこれほどまで『オペラ座の怪人』が英米文化で人気を博しているのか。

ブロードウェイ・ミュージカルとして有名な『レミゼラブル』 (Les Miserables,1985) や『美女と野獣』 (Beauty and the Beast,1994) は、ウェバー版と同様にフランス原作の物語である。また、エミリー・ブロンテ (Emily Brontë) の『嵐が丘』 (Wuthering Heights, 1847) とは、共に愛憎を描いたゴシック小説という共通点を持っている。

英米人のフランスへの憧れが反映されているのか、または物語が英米人の心に訴えかけているのか理由は不明だが、『オペラ座の怪人』は英米文化に浸透している。ウェバー版はコロナウイルスの影響で2020年3月からウエストエンド、ブロードウェイともに上演中止となり、現在も苦境を強いられている。しかし英米文化にその名を刻んだ『オペラ座の怪人』は、これからも私たちの記憶に残り続けるだろう。
 
 

引用文献

Hall, C. Ann. Phantom Variations: The Adaptations of Gaston Leroux’s Phantom of the Opera, 1925 to the Present. McFarland, 2009.
Heatley, Michael. The Phantom of the Opera: 25th Anniversary Edition. Pavilion, 2012.
Hogle, E. Jerrold. The Undergrounds of The Phantom of the Opera: Sublimation and the Gothic in Leroux’s Novel and Its Progeny. Palgrave Macmillan, 2002.
Kay, Susan. Phantom. Llumina Stars, 2005.
Kopit, Arthur. Phantom. Music and Lyrics by Maury Yeston, based on the novel, The Phantom of the Opera, by Gaston Leroux, Samuel French, 2010.
Leroux, Gaston. The Phantom of the Opera. Signet Classics, 2010.
本橋哲也『深読みミュージカル:歌う家族、愛する身体』青土社、2011年。

英語要旨

Synopsis of “The Phantom of the Opera——Christine as a Hero——”

Andrew Lloyd Webber’s The Phantom of the Opera is the longest running musical in Broadway and has been performed in West End for more than 30 years. The original cast who played Christine was Webber’s former wife, Sarah Brightman. She was the reason why the Webber version was produced in the first place. Phantom is the title role and one of the main characters in this story. However, the Webber version puts emphasis on portraying Christine. As Motohashi mentions, she is the protagonist of this Webber version. The purpose of this paper is to examine how Christine is depicted and grows up in the story.

In the first chapter, I examined the relationship of Christine and Phantom. Phantom tries to dominate Christine and to form sexual relationship with her. Christine sees Phantom as a replacement of her dead father. Therefore, Phantom and Christine have the pseudo incestuous relationship. She resists Phantom by reversing their positions and takes control in their relationship.
In the second chapter, I examined the relationship of Christine and Raoul. I pointed out that Raoul and Phantom are essentially the same person. Raoul tries to make Christine his “damsel in distress” and to be a hero. However, she regains her heroism by reversing their positions in their relationship. In the Webber version, Christine is able to stop depending on her dead father by resisting Phantom and Raoul. Through these relationships, Christine grows up as an adult, physically and mentally.

In the third chapter, I discuss how Christine is depicted in the adaptations of The Phantom of the Opera, which were made after the Webber version. Susan Kay describes Christine’s liberation in both body and soul, although the story is almost the same with the Webber version. Arthur Kopit portrays Christine’s independency and initiative in her relationship with Phantom in a story which is completely different from the Webber version. In the 1998 version, Christine is strong and very active against resisting Phantom’s control, yet she is victimized by Phantom. This structure that Phantom is the abuser and Christine is the victim is not depicted in other adaptations of The Phantom of the Opera including the Webber version.

In conclusion, the adaptations of The Phantom of the Opera have been made numerously in the United Kingdom and the United States. This story has similarities with other works which run deep in British and American cultures, such as Les Miserables, Beauty and the Beast, and Wuthering Heights. Even though the relations between these four stories are unclear, The Phantom of the Opera has also been influencing British and American cultures to this day and will keep doing so in future.

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