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プペルは映画というよりも 実はすごい文化祭なんだな

(これはプペルの感想ではありません。)
友人とふとプペルの話になった。前提として、お互い見には行っていない(え)。ネットの評判を見ると、賛否両論。レビューを見てて思ったのが、自分のスタンスを明示する人が多いこと。例えば、高評価の人でチラホラとみるのが、「私はサロンメンバーでも、原作も読んでいない」的な前置きをする人がいたり、批判的な人の冒頭が「サロンメンバーです」と始めたり。なんというかスタンスのあり方と感想がセットになっているのが、不思議である。

そこまで行った時にプペルは映画ではなくて、高校の文化祭なのかという結論に友人と至った。(2人同時に文化祭という言葉が出てきたのが笑った)

文化祭という人間模様を思い返してみる

(A)クラスの中心メンバーとその仲間たちで構成されたワイワイメンバー
当事者になって文化祭の過程をとにかく楽しむ人たちで、色々なことを試したり、人と協力したり、コミット量を高めていく人たち。

(B)ワイワイしている様子を快くは思っていないクラスの人たち
(A)と同じクラスでありながら、ワイワイするのに入れなかったり、(A)のメンバーに苦手な人がいるため、入らない・距離をとっている。(A)のメンバーは(B)の人たちを気にしていない。

(C)それ以外の人たち
(A)のメンバーと仲がいい隣のクラスの生徒がいたり、なんか楽しそうだよと風の噂を聞きつけた別の学校の生徒がいたり、親がいたり、商店街のおじさんがいたり定義できない集団。

スタンスで決まる感想

(A)はプロセスを楽しんでいることで作品に対して、自身と周囲の人間関係を反映させているために、「良い」という評価以外はしない(できない?)

(B)は、積極的に参加しないことを選んでいるので、評価はしない または 低い評価をつけることになる。

(C)は、事前情報や(A)のメンバーとの関係性など色々な要素に影響を受けながらも評価をしていくことになる。

つまり(A)を増やせば増やすほど、文化祭を楽しむ人を増やすことができる。

なるほどプペルはすごい文化祭だ

ここでプペルに戻れば、(A)は何かしら制作をしたり、クラファンに参加したりする人たち。(B)はサロンなどを冷ややかに見ていたり、サロンにいるが故にマイナスな気持ちを持っている人たち。(C)はまあどちらでもない人たち。プペルにおいては公開までの過程でできるだけ多くの(A)を巻き込みながら、(A)ぽい(C)の人が出てくる仕組みを作ることで、(A)と(C)の境を限りなくして、売上と評価の安定につなげている。

多くの人を巻き込んで(A)にするのがオンラインサロンとクラファン。(A)ぽい(C)を作るのは、フォロワー達の拡散だったり、西野亮廣以外のインフルエンサー達からの応援コメントにあたる。この作戦(?)によって、主要SNSの利用者すべてがプペルの情報を目にしているはず。

ここまで書いて調べてみると

もう本人が2年も前に言っているやん。俺の思考遅すぎ。となっているわけだが、一方でこの文化祭を純粋に評価できる人っておるんやろうかという疑問が立ち上がった。

少なくとも(A)と(B)の人たちは、スタンスによって評価が決まるというか、決まりざるをえない状況だ。(A)の人たちは全力で楽しむし、(B)の人は(B)でいるなら否定するしかない。そうなると、(C)の人たちが正当な評価をできるかというと、SNSでの盛り上がりとか著名人のコメントとかをもう嫌って程見ているから、そのバイアスは入る。中には嫌悪感を覚えて、(B)にいく人もいるだろうけど、ポジティブな人は応援する方向になると思う。だからきっと、プペルは芸術的な意味での映画ではなくて、すごい文化祭なんだ。という結論に至った。

ビジネスとしての確実性の担保

映画が出来上がる前から、多くの人の感情や評価をある程度方向づけする事で、売上と評価を安定させるのはほんますごい。映画ってかなり博打的というか、先に払うものが多い割には大赤字になる可能性もかなり高いので、配給会社や映画会社のビジネスとしてはこのやり方が一つのモデルケースになっていくんじゃなかろうか。

自分のスタンスが見えてしまう恐怖

なんで自分は見に行かへんのやろうなと、ふと思った。単純にそこに時間をかけるのが面倒いがある。一方で、「ああ、自分がどこにいる人間なのか決定するのびびっているんだな」と気づいた。プペルを見た後に自分がどっちの感想を持つかによって、自分のスタンスが見えてしまう。別にそれは大したことないかもしれないけど、ふわ〜〜と遠くから見ているくらいがちょうどいい。

自分が何を思うか純粋に感じたい

もちろん面白いって評判だから映画を見ることが多いし、プペルはそのちょっと先のことをやっているだけ。ただ、あまりにも裏側の人を見過ぎると純粋な感想が分からなくなる恐れがあるなと。自分がどっちのスタンスでありたいかによって、感想の方向性が決まってしまうのは、映画見る意味がないかもとかひねくれているわけです。多分こんなこと考えずに普通に見られる人も多いので、もう寝ます。

最後に友人が、「プペルって”ダラーズ”みたいやな」って話したのはかなり秀逸だった。

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