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夢の中のデッサン狂った世界とキワキワの精神

パスワード忘れてログインできんくなってたが復活した。
最近は釣りに行ってムニエル食べるとか、その時処理したアラを利用しまた釣って刺身食べるとか贅沢なことをしていた。外でラーメン煮たりお茶沸かしたり風流なこともしている。


少し前に目眩に襲われ少し吐いたりなどあって、ずっと薄い目眩でフワフワしている。タイミング的にワクチン後遺症かとも思ったが、以前難聴になった時からたまに目眩が出るからそれかと思う。季節の変わり目、神経やられてる感があり集中力が削がれる。

集中力が削がれているのもあるが1枚の絵に時間がかかりすぎている気がする。ずっと30号に人がいる空間を描いている。しかし、少し捻じ曲がった空間を描くのは楽しく意外と飽きない。構築の喜びみたいなもんがある。わたしは、その空間を知っている。記憶と想像の中でモデリングされた場所で繰り広げられるある一場面を、時間をかけて描いている。

このような試みをしていたのは10代後半、絵を描き始めた初期の頃だ。毎日夢を記録し、「夢の世界」と「想像の世界」という、実体のないものを具現化することにハマり込んでいた。頭の中だけにあったものが他人にも見える形になるのは最高だと思う……。今思うとそれにかまけるのは少し危ない状態だった気もする。

学業として絵画を学びはじめてからは、「空間に整合性がない」とか「形が狂ってる」など言われまくって「正しい絵」というものを描くように矯正されていった感がある。わたしは正しいもの=美しいとも思えないのだが、とりあえず正しい絵を描いていた。でも元々は「みんながまだ見ていないキショい狂った世界」を描いていたいだけだった。まぁこの世界の方がフツーに狂ってる気がしないでもないが。

夢の中で何度か訪れている場所がある。「ヤマデラ」という仮の地名だが、実際の山形市山寺ではない。谷の街でずっと曇っている。冷たい川と大小の滝があり、どこに行くのかもわからないロープウェイと橋がかかっている町で、多くの木と民家で構成されている。たぶん山形市山寺より「ヤマデラ」の方が少し広い。一緒に行く人や出会う人は毎回違うし、行く場所も毎回微妙に違うが、夢の中で同じ町なのはなんとなくわかる。いつかそこでのことを絵に描きたい。でもまだ全貌は掴んでないんだよな。たまにしか行けない場所だし。

わたしは以前から趣味で映像も作るのだが、夢の世界のような整合性のないものを具現化するには音や映像の「時間の表現」も絡めた方がいい場合もある。映像でできたら最高だけど、辻褄が合わない空間を撮影することは不可能なので、よほどCGとかできんと無理やなと思う。自分には絵が手っ取り早い。しかし二次元の絵の中に時間の概念を持ち込むのは不可能に近い。いやそういう一般常識の話では不可能なのだが、絵を見た時に時間の概念を感じさせる作品ってあるんだよな。たまに。それは間接的に視覚以外を働かせてそう思わせるということなので、受け手の感性を刺激する仕掛けがなくてはならないし、受け手の感度にもよるので不確かなことだ。でもそこを目指すのは悪いことじゃない気がする。

まぁなんでそこまでキショい狂った世界を他人にも見せたいと思うのかはようわからん。話題として夢の話はつまんねーって言われる風潮があるのによ……わたしは人の夢の話聞くのも好きなんだけど、、いや、ものによるか。

友人に夢の話をすると「よくそんなに覚えてられるな」というようなことを言われるが、たぶんこれは夢を見たらノートをつける習慣があったからその名残だろう。今は衝撃的な夢を見たときくらいしか書かんけど、ある程度の期間は覚えていたりする。 巷では夢の記録をつけると精神崩壊に至るなどと言われているが、個人的に夢はとても興味深いものなので、記録して客観的に見直すのが好きだ。時間をおいて過去のノートを開くと、突拍子もない変な夢の話がたくさん載っていて単純におもろい。

夢の中では普段考えもしないようなことが起こり、普段観察している意識もないようなものが鮮明に描かれたりする。無意識で観察してしまっているものもあるんだろうな。夢ってすぐそこにある未知への扉というか、めちゃくちゃ脳の可能性を感じる。睡眠時手軽に未知と遭遇できるのコスパよくね?
……こういう人が社会性失って発狂してしまうのだろうか。
流石にもうガキじゃないんで、酒とかドラッグに憧れたりしないし、自分の世界だけにどっぷりってこともないけど、どんなのが好きな表現かってのを考えると結局「キショい狂った世界」を「ほどよく」だなと思った。って話。

生きていたいし絵を描きたいし文章書きたいしごはん食べたいと思う。