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⑳リアスアーク美術館・上

気仙沼市内から自転車で20分ほどのところにあります。三陸地方数少ない美術館の一つである。こちらはぜひとも訪ねおきたい場所でした。

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地方の美術館や博物館はその地方の歴史や風俗や文化がアーカイブされている場所であり、その地方の成り立ちやなりわいを知るにはまさにベストスポットと言えます。正直にいえば伝承館よりも美術館や博物館の方が、震災という事象を様々な角度から思考できるとは思います。とはいえ、そのような施設をわざわざ新設する資金や手間も時間もなかったのが実情だとは思いますが。というか伝承館という括りは「史料館」なのか「博物館」なのか「美術館」なのか「コミュニティスペース」なのか。コミュニティスペースを備えた地域史料館なのか。

そしてこのリアスアーク美術館。見た目は年季が入っており、完成したのは1994年。僕より一年若いですね。しかし中を入ってみると、その展示の充実ぶりに首がもげる寸前でした。まずちょうど東日本大震災発生10年特別企画展「あの時、現在、そしてこれから」が開催されていました。

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10年間の中での気仙沼周辺地域の「風景の変化」に注目して、あの時と現在を見比べて、どのようになっているか、といった内容の展示でした。

これがとてもわかりやすい。

もちろん、今までの施設においても時系列比較写真はあったし、それらがあることで被害の惨状をなんとなく理解することができた。しかしこちらの展示はその数が膨大です。

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前回も言ったように気仙沼はリアス式海岸なので、海岸線が入り組んでいる。その分被害地区もいくつもあったわけだが、それらの地域の様子を丁寧にわかりやすく、展示している。その展示の効果をさらに高めているのが、一つ一つの写真の横に掲示されている説明文である。普通美術館の説明文といえば、日付、カメラ、F値などのデータがほとんどだが、こちらの展示は一つ一つに関して、エッセイのように撮影者(当学芸員)の感情も入れながら、説明している。この説明の仕方が斬新で、かつ心に響く。

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一つ一つの写真をただ見るものよりも、その説明文によって一つ一つの写真がより現実味を帯びて、生々しく、感情に訴えかけるものを持っている。

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「―海景を望むことはできない。辺りに漂うコンクリート臭は、潮の匂いを凌ぐほどだった。」

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「―旧来の地面が地下深く埋没していく。土が高く盛られた風景はどこかの遺跡のような雰囲気を漂わせる」

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「BRT専用道路の奥には内の脇に建設された9階建ての災害公営住宅がそびえる。知らない町がそこにあった。」

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他にも紹介しきれないのですが、このような説明文があることによって、一つ一つの写真の文脈や背景が浮かび上がってくるわけです。なぜここに住宅が存在しているのか。なぜこれほどまでに大きな防潮堤が建設されたのか。写真を見るだけでは掬い取れないナラティブを丁寧に表現していて素晴らしいと思います。

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いままで数多の伝承館と名のつくものを片っ端から乗り込んでいったわけですが、そこでの得たことも大きかったし、どの施設も言ってよかったと思っていた。しかしここにきて、何か揺さぶられつつある。今までの伝承館の展示はあくまで事実と現場ベース。つまり伝承するために一番大事なのは「追体験」というスタンス。災害を追体験することで、風化を防ぎ、教訓を後世へつなげること。

一方リアスアーク美術館の展示方法は今までの方法とは明らかに異なっている。むしろ事実よりも主観ベースだ。データよりも感想だ。このように言うと子供じみていますよね。でも、意外と心に効きますよ。むしろ、そのような「オフレコ」こそ、とても重要な伝承になる。災害を「災害」として表現するのではなくて、災害を「オフレコ」で表現することによって、日常と災害、非日常と災害、歴史と災害というように、「災害」の影に隠れた重層性を感じることができるのではないかと感じました。

普通美術館はそのような主観的展示をしない。記録を誰の目にも明らかになるようにアーカイブするには客観性が重要だからである。しかしこの美術館はそのような手法を取っていない。曰く、

そもそも「被災」とは非常に感情的、感覚的、主観的に認識されている現象であるといえる。よって「被災の記憶」「被災の実態」を記録、伝承しようとするならば、均質化された客観的情報を拠り所にするのではなく、個々人が感じた主観的思考を重視し、言語化、文字化、可視化、実体化するべきである。少なくとも美術館である当館はそのように判断している。美術館は主観を信じ、感覚を共有する場所なのである。(リーフレットより)

これはとても重要な指摘だろうと思います。僕が意訳すると、

津波を「津波」として捉えることで何か重要なものを掬い損ねるかもしれない。
災害を「災害」として捉えることで何か重要なものを掬い損ねるかもしれない。

つまり被災していない人から見たときの「津波(TSUNAMI)」と被災された方から見た「津波(tsunami)」は完全に一致していないのではないかと。重なる部分はあるにせよ、少しその意味合いが違っているのではないかと、そのような感じがするんですよね。