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㉑リアスアーク美術館・下

人々が何を津波と感じ、何を災害と感じるか。

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何を復興とし、何を復興としないのか。

同じ景色も一人一人思うことは異なるだろう。主観的情報を獲得することによって、僕たち第三者も主観的に考えれるようになる。主観的に考えるとは当事者として考えるということだろう。つまり主観的情報に触れることによって、第三者である僕たちもより主観的に、当事者感覚に引き込まれる。

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客観的表現の展示では、見学者はずっと見学者であり、第三者のままである。いつまでも災害が災害としてしか捉えられないことによって、それをただの情報としてしか見れなくなる。記憶はされるが、伝承はされるのか。

阪神淡路大震災。僕はこの言葉を教科書で知ったので、それは災害というよりか情報に近い感覚を覚える。そのようなわけで僕は、阪神淡路大震災の伝承館が大阪に存在することも知らなかったし、知っていたとしても、行ったかはわからない。それは当事者的感覚が完全に欠如しているからだと思います。大阪行く機会あればいって見ようと思います。

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そしてこの美術館は常設展でも東日本大震災をテーマに展示している。一つの美術館に震災展示が二つも見れるのはひとえにリアスアーク底力だと思います。「東日本大震災の記録と津波の災害史」という常設展。美術館に常設展で震災を扱っているのはおそらくここだけなんじゃないかと思います。災害から2年間被害記録と調査。過去の津波について調査。この展示もなかなか濃い内容でした。リーフレットでも書いていますが、

「最大の特徴は、キャプション等に綴られたテキストの数と膨大な文字量である。入室と同時に、観覧者は同展が「眺める展示」ではなく「見つめて読む展示」であることを悟る」

そして僕はまんまと悟ります。まず写真の量が膨大にも関わらずに、その一点一点に100~200字程度しっかり説明書きがなされている。これはまず読むことに時間がかかる。しかし、立ち止まり読むことによって、一つ一つの写真をただの写真としてではなく、自分の中に落とし込まれていく感覚でした。そして象徴的だったのが、写真の近くに展示されているキーワードパネルである。「東日本大震災を考えるためのキーワード」として文章化し、108点掲示している。

「被災地・・非日常」

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―日常を喪失し、非日常化した被災地には、震災前には考えられなかったような著名人が出入りする。(中略)しかしそういったある意味、過剰なプラスの出来事も、結局のところ非日常を拡大するものであり、―

「歴史・・未曽有」

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未曽有とは「今までに一度もなかったこと」という意味である。つまり、東日本大震災を表現するにあたって、未曾有という表現は適切でとは言えない。なぜなら三陸沿岸部において同様の津波被害は頻繁に繰り返されてきたからである。(略)

これは僕自身も驚きました。三陸沿岸部には、過去平均して約40年に一度の頻度で大津波が襲来している事実があり、その都度甚大な被害が出ていたそうです。このように考えると三陸沿岸部での災害は防げる余地はあったと言えます。しかしそううまくはいかないのが常なんでしょうか。20世紀は戦争に明け暮れ、21世紀も、ぼーっとしている間にまた戦争している。伝承はつらいことです。伝承はつらい記憶を蘇らせることなので、誰も進んで伝承しようと思わないでしょう。つらい記憶からできるだけ目を背けたい。なかったことにしたい。そしていつの間にか忘れてしまう。

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逆に僕たちはいままで何を伝承できていたのでしょうか。

災害の伝承は当事者である親が子どもにする場合が多いと思うが、その子どもは自分の子どもにその災害を伝承するかと言われれば、可能性はあまり高くないように思う。それは自分はその災害の当事者ではないので、記憶から徐々に薄れていく。一番の当事者はもちろん被災者である親だが、このような伝承方法だと、いずれ忘れ去られてしまう可能性が高いのではないかと。つまりただ記憶を伝えるだけの伝承方法では、どうしても伝承しきれない部分が出てくると思います。直接の被災者がいなくなるにつれて、どのようにその災害を伝承していくのか、ただ一辺倒に災害の情報を開示するだけでは廃れていく危険がある。この美術館は今までの一辺倒な伝承に一石を投じている。ぜひともまた来ようと思います。

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