【エッセイ】記事を書くとき読み手を意識してますか? 私は多分半々です
note記事に関する記事です。
私の記事で度々でる言葉があって
「あれ、これって誰向けの記事なんだ?」
とか
「これって需要あるのかな?」
とか、何回かこのフレーズが出てきています。
記事として投稿している以上、結局記事内容に自信がない故の「言い訳」、またはそのフレーズで一笑い欲しいが故の「ボケ」なんでしょうけど、
要するに記事を読んでくださる人に対してのアクションですよね。
つまり私は読み手を意識してそのフレーズを放り込んでいるわけで、
じゃあ私は読み手を意識して記事を書いているのか?という分析をしようと思います。
読み手を意識すると記事が書けない
これは多分ですが結構あることですよね。
文章を不特定多数の人が見れるところに投稿するとなると、読んだ人はそれぞれ何らかの感想を抱くわけです。
自分としては、基本的には「問題提起」とか「有益な情報提供」をしたいわけではなく、「何となく読んだ人が面白いと思ってくれる記事」を作りたいんですよ。
そうなるとやっぱり「この記事を読んで不快になる人がいないだろうか?」というのはどうしても意識してしまいますね。
私の場合は不特定多数の人にちょっと引っかかる疑問とかを提示することが多く、比較的特定の人を刺激する内容は書かないのですが、たまに書いている映画レビューやザ・ノンフィクションの感想を書きます。
その手の記事は私の書いた文章が作り手や当事者に届く可能性は無いとは言えないです(実際に旧Twitterとかでもレビューに対して監督より直接視聴のお礼をいただいたこともあります)。
そうなると、どうしてもネガティブな感想だけ書き殴るのは気が引けるという気持ちになります。
まあそんな文章を書いても自分含めて誰も良い気持ちにならないので、私の性格的にしないのですが。
でも逆に考えると誰から見ても不愉快にならない文章を書くのって不可能ですよね?
「トマトが好き」
って記事を書いたとして「私はトマト嫌いです、不愉快です」
なんて言われることを気にしていたら、何も書けないですからね。
そんなわけで、読み手を意識しすぎると記事は書けないと思うんです。
読み手を意識しないと記事が書けない
真逆の事を言いますが、私の場合は読み手を意識しないと記事って書けないとも思うんですよ。
これは記事を書いている目的にもよると思うのですが、先に言った通り私は「何となく読んだ人が面白いと思ってくれる記事」を作りたいんですよ。
理由は
文章力の向上のために記事を書く
→特別書きたいものが無いので日々思った事を書く
→どうせならちょっと笑える子を書きたい
って感じなんですが、そうなると私の記事には読み手が必要です。
であれば「読んで貰える文章」を書く必要がありますよね。
というかnoteで記事を公開している以上「読み手」を意識しない事ってあり得ないと思うんですよ。
なぜなら書いた文章を公開しているわけですから。
たとえ「たくさんの人に読んで欲しい」でなかったとしても「誰かに読んで欲しい」という気持ちはあるはずですよね。
であればその「読み手」のために記事を書いているはずなので、読み手を意識しないと記事は書けないんですよ、私の場合。
人によってはその「読み手」が「自分」なのかもしれないんですけどね。
つまり、
私は読み手を意識していると文章が書けないのですが、
読み手を意識しないと文章が書けないのです。
以上です、いや本当に誰向けの記事かわからない、自分の思考垂れ流しの記事でした、という言い訳です。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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