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手書きのノートから人生がひらく話

noteのプロフィールに「50代にして泥から抜け出し中」と書きました。

場をつくるひと。内省・収集心・学習欲・個別化・責任感。HSPにしては実行力があるらしい。50代半ばにして「泥」から抜け出し中。読んだり書いたり歩いたり。観察と色彩、長期的視点。苦手は急ぐこと、お酌とお金の計算。

noteプロフィールより

泥とは、自己否定と反省の人生です。

今こそ自己肯定感が大事といわれていますが、ダメな自分を見て足りないものを埋める努力は誰もがやった覚えがあるでしょう。反省しないと次に活かされないのでは?とも思えます。ではどうして泥から抜け出ようとしたのか?

「全部がむしゃらにやってみる」「とにかく頑張る」で乗り切れることもあるのですが…行き詰まってしまったのです。「何に努力するか」の選択はその人次第で、それが人生に大きく影響すると今は思っています。わたしは泥から抜けだす努力を選びました。

泥から抜け出すとは、野球に例えると右打ちから左打ちに転向するようなものです。そしてそれは、泥の中でキャリアを積み重ねるほど一筋縄ではいかないものなのです。長い長い自己紹介として、順を追って説明していきましょう。



1.置いてきた「幼少期」

早く大人になりたかった。子ども時代の偽らざる心境です。

わたしは島根県西部、石見(いわみ)地方のまちに一人っ子として生まれました。いまでは珍しくなりましたが大家さんの家の2階を借りてすむ、いわゆる「貸間」に小学校高学年まで暮らしていました。トイレやキッチンは専用のものがついていて、お風呂は大家さんが使った後、1階に入りに行くスタイルだったと思います。

海が近いため魚が新鮮で美味しく、また当時、秋には小さな社でも神楽(石見神楽)が上演される土地柄でした。石州瓦の赤茶色の家並みを見ると、帰ってきたなと感じます。

いわゆる癇の強い子どもだったようです。
赤ちゃんの頃黄色のタオルハンカチをいつも触っていて、それを洗って干すと乾くまで泣いていたとか。発熱も多かった。

何度かきつく叱られた記憶は今でも残っています。
家から裸で追い出すと言われ、上衣を脱がされ、下着も全部脱がされそうになりました。嫌がって泣くと、母はますますヒートアップしました。結局追い出されはしなかったものの、人生で初めて出会った怖い人は母でした。

わたしは息子を二人育て、腹の立つことももちろんありました。ですがあれほど怒ることはなかった。子育てを終わってますます「何故あんなに叱られなければならなかったのか」疑問がふくらんでいます。

何かあるごとに母はわたしに「だらしがない」「嘘を言う」と言いました。
いま思えば、激しく怒られるのが怖くてついた嘘がほとんどでしたが、「自分が悪いことをしたから怒られて当然」と信じていました。

父親は不在がちで、家族で買い物や旅行に出かけた記憶がありません。

文字や、企業のロゴマークには幼稚園の頃から興味があり、テレビCMの影響で文字を読めるようになったのは早かったと思います。生きた鶏を見て「キンチョール」といい(大日本除虫菊株式会社のロゴは鶏の頭部)、小学校の頃には読むに事欠いて洗剤のラベルまで読んでいました。

本はすぐに読み終わって飽きるためあまり買ってもらえず、図書館も遠くて自分では行けなかったので、進級時に配られる教科書を読むのが楽しみでした。

小中学校時代はこの読解力に助けられ、宿題以外の勉強をした覚えがありません。海外では飛び級という制度があると知ってからは飛び級に憧れていたほどです。教科書を読めばわかるのになぜゆっくり授業をするのか、もどかしく思っていました。

一方で筋力は弱く運動は全く出来ず、体育では自分のできなさ加減が白日の下にさらされて惨めでした。テストの点数は隠すことが出来ますが、体育はそうはいきません。チームにわたしが入ると皆嫌がる、まさに「お荷物」。迷惑をかけるという思いが余計に動きをぎこちなくして針のむしろでした。

読解力と語彙力が周囲と違うことだけでなく、家庭で満たされない気持ちが強い承認欲求として表れ、クラスでも浮いた存在でした。先生と話をする方が楽でしたが、先生も困ったと思います。また、仲良くなれそうな子に出会うとその子との関係に意識が集中してしまい、相手にとっては重い存在になるのが常でした。

学校では頑張ることを求められがちですが、わたしは頑張れば頑張るほど浮いた存在になっていくのです。

一人でいるときより誰かといるときの方が孤独でした。学校でも家でも「自分のことは一人で何とかしないといけない」と強く思うようになりました。それでいて「誰かにわかって欲しい、助けて欲しい」という思いは強まるばかりでした。

次第に周囲は「しっかりした子」という評価をしていきます。
それと同時に「母の機嫌を損ねないよう」常にアンテナを張っていました。

10歳頃になると父母に不穏な空気が漂っているのは嫌でもわかります。明け方、何かの声に目が覚めると聞こえてくるのはお金を巡る親の言い争いでした。高学年になると早く離婚して欲しいとひたすら願うようになっていました。父親の金銭トラブルから切り離され、13歳で両親が離婚したときにはホッとしたのを覚えています。

小学生のころ読んで印象に残った本は、佐藤さとるさんのコロボックル物語シリーズと、江戸川乱歩の少年探偵シリーズ。どちらも内容だけでなく表紙絵がたまりません…

小学6年生あたりではじめてラジカセを買ってもらって、最初にテープに録ったのは松田聖子さんの「青い珊瑚礁」でした。澄んだ声、伸びやかな歌がただただ気持ちよかった。その後中学でYMOに衝撃を受けます。

中学時代は新井素子さんや赤川次郎さんが若手として脚光を浴びていて、よく借りていました。今江祥智さんや井上靖さんは教科書に掲載されたのがきっかけで読んだと思います。


2.最初の「ホームラン」

高校は地元の進学校に進みました。母子家庭なので工業高校→就職と思い込んでいたのですが、当時の担任に勧められたのです。勉強は面白かったですが、大学受験が目標のように言う先生もいて、それはつまらないと思いました。課題が山のように出て、それをこなす日々。飛び級を願う余裕はなくなっていました。

クラスでは何か皆、本音を隠して表面的なことを話しているように感じ、なじめませんでした。2か月ほど学校に行けない日が続き、成績が下がると口をきいてくれなくなる先生もいました。

保健室の先生(養護教諭)から「これにあなたの思いの丈を書いてごらん。必ず返事を書くから」と、一冊の大学ノートを渡されました。頭には言葉が渦巻いていたけどそれを出すところがなかったわたしは、そこに思いをぶつけるように書いていきました。作文は大の苦手、読書感想文は大嫌いだったのに。それが「ノートに書くこと」との出会いでした。

2冊目のノートが終わり、三冊目の初め頃…わたしはクラスに戻っていきました。高2の冬でした。

高校時代に読んだ本…なんといっても司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」。作中の坂本竜馬に惚れてました(思い込みだいぶ強め…はずかしい)。他に井上ひさしさんの本はよく読んでいました。中島敦さんのキリッとした文章(文体?)は今でも好きです。それにしても軒並み改版・新装版となっているところに時の流れを感じますね…。ニュートンという科学雑誌はもっぱら図書館で。内容だけでなく図版の美しさも好きでした。

音楽はオフコース全盛期にあえてチューリップを聴くという方向に。音源を買うお金はなく、他校の友人にテープを借りて、「青春の影」など聴いていました。

不登校をきっかけに有難い出会いがいくつかあり、復帰してからは「今までで一番、素の自分」で過ごしました。担任にも恵まれ、大学進学への道が開けていきました。

これが、学ぶことが好きだったわたしの、最初の「ホームラン」でした。中学時代、進学はあり得ないと思っていたわたしが…大学で学べるのです!

ただし、ノートに書くことで自己分析が進んだわけではありませんでした。

大学に行くには周囲を納得させる理由が必要でした。そこで化学と生物が得意だったわたしは「薬剤師になるために大学に行く」ことにしました。大学に行かなければ取れない資格だったし、潰れそうにない業界だと思ったからです。自分の適性など考えてもみませんでした。「出来る」と「好き」は違うのです。

19歳で進学のため家を出ます。

3.「ホームランバッター」になろうと右打席でバットを振り続ける

親元を離れ、広島での一人暮らしが始まりました。時はバブルでしたが、それはよその世界の話。家賃1万円の風呂無しアパートでした。

同期が「ノルウェイの森」や「キッチン」を読んでいるのを横目で見ながら、池波正太郎の時代小説(文庫本)や「広告批評」という雑誌を読んでいました。天野祐吉さんの視点が好きだったし、広告に勢いのあった時期です。「あしながおじさん」のジュディは、いまでもわたしの憧れ。初めて大型書店や美術館に行き、今までいた世界と違うことを痛感したのもこの頃です。

大学生活は楽しかったです。ですが挫折の日々でもありました。
まず、専門教科がなぜか面白くない。生物系の教科がが化学っぽくなっていったのはまだ何とかなったけど、化学は物理みたいでした。うわ大丈夫なのか?! 

面白いと思ったのは、一般教養で学んだ日本史や社会学や文化人類学でしたが、薬剤師になると言って進学した以上方向転換は出来ません。頑張れば何とかなると思い直しました。

そして同期は皆優秀でした。「見直すのが面倒なので、一度見たものは覚えるようにする」といった人がいました。「高校ではろくに勉強しなかった」という人もいました。上には上がいるものです。井の中の蛙だと知りました。

勉強はそこそこしていたけれど、高校までの「霧が晴れるような感覚」ではなく、「自分がいかに何も知らないか、理解していないか」を突きつけられるような日々でした。

一方、クラスで何かをするときの団結力はありました。実習室での飲み会の企画と準備は1年生の仕事です。皆学級委員などの経験者なので足を引っ張る人もなく、意見がまとまればすぐに動けるのは気持ちよかったです。自分の言葉が通じる感覚がありました。

同期でカラオケスナック借り切って朝まで飲むとか、キッチン付の会場を借りて宴会するとか…実習で忙しい中でもそのような企画が実行に移され面白かったです。

音楽は…配信はまだなくて、CDを買うかレンタルショップで借りる時代。井上陽水さん、サザンやドリカム…吉田美和さんの声が魅力的でした。当時カラオケが一般化し、歌う楽しみがひろがり始めた頃。ドリカムは歌おうとすると全く高音が出ません。自分の声の低さを呪いました(笑)。

マイケルジャクソン全盛期だったけど、洋楽を楽しむ感じは無かったなぁ。(トレンドから常に距離を置くのはなんでだろう)

こうして面白いと思うことが増えた一方で、「自分を理解してもらえない」という感情が、澱のように心の底にありました。

このころ、わたしの母親像は「苦労して育ててくれた、感謝すべき母親」であり、父親像は「金銭と行動にだらしがなく責任放棄した父親」でした。その父の血を引く自分がたまらなく嫌だったのを覚えています。(これは後に変化していきます)

就職の時期を迎え、研究者になるため大学院を受けたものの、奨学金が得られる成績でなかったことから入学辞退。就活し、ある企業に勤めることになりました。

わたしは何者かになろうとして、悉く失敗します。

それは筋力のないわたしがホームランバッターになろうと打席でバットを振り回すのに似ていました。毎回真面目に右打席に立ち、バットを振っているのにホームランはなかなか打てません。視界に入る一塁側からはヤジが飛んできました。ヤジが怖くてますます打てなくなりました。

もうお気づきだと思いますが、真面目に打席に立っているだけで結果など出るわけがないのです。ホームランバッターになるためには相応の身体作りが欠かせません。そもそもそんな素質が自分にあるのかさえ確かめようともしませんでした。

最初の就職先では与えられた仕事の意味がわからず、上司や先輩の求めに応じることが出来ませんでした。

組織において、直属の上司の意をくまない人間ははじかれます。先輩は挨拶さえ返してくれなくなりました。当時はあんまりだと思いましたが当然でした。ただ黙々と求めに応じてやっていれば良かったのです。それで意味が見えてくることもあったでしょう。いま思えば不良社員もいいところです。

足りないところを指摘されると、自分自身が否定されているようで何日も引きずりました。助言も受け入れることが出来ませんでした。それは、左バッターへの転向を勧められても「右でホームラン30本打てないわたしにそんな資格はありません」と言っているようなものです。こうして例えると変だとわかりますが、当時は大真面目にそう考えていたのです。

ただ、辛いからとやめていくのはお世話になった方々に示しが付きません。
その頃建築に興味がわいて勉強したいと思っていたので、それを理由に二年で退職し上京しました。母は反対しましたが、家も出ているし、自分のお金ですることですから強行しました。

この頃は「室内」というインテリア雑誌を購読。発行人は作家の山本夏彦さんで、この方のエッセイなども読んでいた気がします。あえて広告を取らずに商品テストなどをする気概が好きでした。いまは最終号だけが手元にあります。休刊がとても残念だった雑誌です。

音楽はもっぱらラジオで。スピッツの「ロビンソン」がよく流れていました。上京後に阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件がおこります。

夜間の専門学校に行くことにし、昼間は生活費を稼ぐため高田馬場の薬局でアルバイトをしました。専門学校を卒業し、住宅作家を目指して二つの事務所にそれぞれ2~3年勤めました。

ところが壁にぶつかります。「製図作業が壊滅的に遅い」のです。
製図に限らず、幼い頃から作業は悉く遅いわたし。着替えが遅いので制服の下に体操服を着ていた学校生活。食べるのもゆっくり、実習・実験を終えるのは一番最後でした。

遅さをカバーするために、長時間労働が当たり前になりました。
当時は手書きからCADに変わったあたりでした。CADでは実寸法で全てを描く必要があります。最初の頃は部材の寸法もよくわからず、線を一本引くのも調べながらで何分もかかりました。

たまに自分の意見を言うと、よくわからない理由で却下されることも、仕事のしにくさにつながっていきました。プロジェクトのために良かれと思って言ったことが、所長には反抗的に捉えられたようでした。二つ目の事務所では仕事を干される事態となり、辞めることになりました。

「とても正確な仕事をする」という評価がつくのは、いつだって辞めてから。そして職場内の人よりも現場の職人さんたちや取引先さんが評価して下さったように感じます。

薬局含め、どこに行っても誰かに疎まれ仕事も上手くいかずに辞める…一旦広島に戻ろうと思いました。疲弊しきっていたけれど実家に戻る選択肢はありませんでした。

「どこに行っても疎まれる」
「どこに行っても仕事が出来ない」
「わたしはダメな人間だ」

毎日のようにそんな言葉が頭をめぐるようになりました。ここから逃げたい…でも広島に戻ったところで何かが好転するといった希望は持てませんでした。

4.大きなヤジは減ったけれど

何かを変えたい。そんな時に現場で知り合った8歳年上の人とのあいだに結婚話が浮上。その流れのままに結婚しました。仕事から離れ、仕切り直しが出来ると思ったのもつかの間でした。

子どもが二人生まれると、家事と育児に追われる毎日になりました。夫が仕事以外で協力してくれたのは、子どもの入浴とレジャーで出かけるときの運転だけでした。ゴミをまとめて玄関に置いてもそれをまたいで出勤していきました。

わたしは働かないで家にいるのだから何でもやらなければ、ちゃんとしなければと必死でした。家事育児、家電や車の整備、家計管理、税務申告、自治会活動、帰省準備と後始末。相談など一切出来ません。深夜になっても家事が終わらないことも度々でした。…ある日限界が来ました。幼い息子達にお昼を食べさせることを放棄したのです。

その日のうちに、まあまあ重いうつ病と診断されました。2003年のことです。わたし35歳、長男3歳、次男は1歳でした。
(子どもたちには昼食代わりにお菓子か何か食べさせ、タクシーで病院に行きました。)

5年間の療養は、出口の見えないトンネルを歩くのと似ていました。いつ治るともわからず、気分が上向きになっても治った気がしませんでした。あれほど親しんだ活字が読めなくなり、音楽も穏やかなピアノ曲しか聴けなくなりました。次男が1-3歳の頃の記憶があまりありません。

夫もどう声をかけて良いのかわからなかったと思いますが、調子はどうかと聞かれたことは一度もありません。それはいま思えばとてもさみしいことでした。

寛解へのきっかけは、帰省時の母の一言でした。
「ええ子にしとったら、おやつあげる。」と息子達に言ったのです。

???
おやつは子どもたちの栄養と楽しみであって、いい子にしてるかどうかは関係ないよなぁ…だいたい、いい子って何?誰にとって都合の良い子なん?
小さな違和感は後になって大きくふくらんでいきました。

もしかして、わたしもこういった条件付けで育てられたのでは?
帰省の度に緊張するのは、母の機嫌を伺っているから? 
信田さよ子さんの「母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き」を読んで、何かがつながっていきました。

数度のカウンセリングの後、自分を押さえつけていた重しが軽くなったように感じました。医師はこう言いました。「もう薬は要らないね。ストレッサーはお母さん。とにかく距離を取りなさい。気づいて良かったね! あなた自身が気づくのが大事なんだよ。

わたしの中の母親像は大きく転換し、「わたしを支配しようとする大きな怪物」となりました。(これも後に変わっていきます)

回復後の読書は子どもとともにありました。図書館に通い絵本を借りました。児童文学と言われるものやファンタジーを読むことで、子ども時代をすこし取り戻した気がしました。そのほかには山本ふみこさんのエッセイ。キラキラした暮らしは出来ないわたしだけれど、応援していただいたなぁと思います。

音楽は…NHKスペシャルにだまされ(笑)、佐村河内守氏の「HIROSHIMA」を買っています。当時は音楽センスがないことを直視させられましたが、ゴーストライターだった新垣さんはその後活躍されていますので…どうなんだろう。ある意味、忘れられない思い出です。

鬱は寛解しましたが、大きな問題が残されていたことを知ったのは最近です。母に電話するのは用件があるときだけにし、帰省もやめました。
それでも

「ちゃんとしなければ受け入れられない」
「身を削って奉仕しなければ愛されない」
「どこに行っても仕事が出来ない」という思いは消えず、自分の土台はありませんでした。

泥の中にいると、反省して自分を責めます。すると次の選択肢が極端に減ります。そしてたいてい身を削って何かをしようとします。努力のポイントがずれてしまうのです。
さらに状況が悪化すると、わたしは自分を「かわいそう認定」することで、手を差し伸べられることを待つだけになりました。考えることは視界の外でした。厄介なことに本人に自覚は全くありません。日々飛んでくるボールを打ち返すのにヘトヘトでした。

いつしかわたしは母の代わりに夫の機嫌を伺うようになっていました。とにかく諍いを避けるため、何をするにも「一人でやらなければ」「わたしが我慢すれば面倒なことは起きない」と思っていました。子育ては、とにかく母のようにしたくない、悪しき連鎖を止めたい一心でした。

仕事は改修依頼をきっかけに二級建築士事務所の登録をし、耐震診断など少しずつしていましたが、ここでも睡眠時間を犠牲にしていました。みんなどうやって時間と体力を捻出できるのか…うらやましい一方で劣等感も募りました。自宅の改修もして過ごしやすくなったはずなのに「ゆたかな暮らし」からは遠ざかっていきました。

引き受けた仕事は何とかやり遂げましたが、いつも「失敗できない緊張」に苛まれていました。仕事に時間がかかり、時間もお金も才能もない自分を責めてばかりの日々でした。

2020年の暮れ、初めて自分の名前で設計した、新築戸建住宅が竣工します。52歳でした。念願の住宅設計、住宅作家への一歩です。夢は叶ったはずでした。なのにわたしは疲れ切っていました。その後更年期の症状がひどくなり、新型コロナが追い打ちをかけ、2年以上の療養に入ることになります。


5.ヤジを送っていたのは誰か

気づけば自分の望みがわからず、心地よさは無視して暮らしていました。療養に入ってから、いくつかのブログや本を読みました。読書など何年もしていなかった気がします。そこで「自分の感覚を大事にする」ことを学びます。

「家事をやらなければならない」という思い込みは続き、半年経ってようやく「病人なのだから休んで良いんだ」と思えるようになりました。「ねばならない」で動くと、通常の2倍近いエネルギーを使うこともわかってきました。

わたしの周りには「やらねばならないこと」であふれていました。
朝の弁当づくりから夕食の後片付け、翌日の炊飯準備まで。家族の誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝るのは当たり前でした。

少しでも上手くいかないと「もうっ!」と頭の中で声がしました。掃除や片付けが出来ていない場所を見ると叱られている気がします。やりたいと思ったことも、出来ない日が続くと重荷になり、「やらなきゃいけないのに、出来ない」にひっくり返りました。

「ちゃんとできないダメなやつ」
「家事が出来ないダメなやつ」
「仕事が出来ないダメなやつ」

…心ないヤジを観客席の一番前でずっと送っていたのは自分でした。それだけではありません。くせっ毛も歯並びも、声も貧弱な身体もみんな嫌いでした。

この頃から手持ちのノートに何かを書くようになりました。自分のことを綴るのは高校の不登校以来、35年ぶりです。簡単な日記、自分がやってみたいこと、これまで起きたことの振り返り、本の要約…。わたしはゆたかな暮らしをしたいこと、その奥には穏やかで優しくいたいという願いがあると気づいてゆきました。

簡単な日記を書いたり、休んだり。
過去の振り返り。右ページは気づきを書くために空けている。

自然豊かな場所での散歩、ゴワゴワのタオルや伸びた下着は新しくする、着たい服を着てみる…自分が心地よいと思うことを出来る範囲でやってみました。

家事は6割で良いと自分に唱えながら料理をしはじめました。調味料をこぼして「もうっ!」となったときは「大丈夫、誰も怒らない」と唱えました。夕飯後は食器もそのままに一旦寝床で休むようにしたら、家族が食器を下げるようになりました。

片付けは自分の守備範囲だけ。手際が悪くても「ゆっくりで大丈夫」と自分に言い聞かせました。夜、体調が優れないときは「朝起きれません」と宣言して睡眠時間を確保しました。玄関にまとめたゴミは、いまは夫が収集所まで出しています。

バッターとして来た球を闇雲に打ち返す日々は終わりました。少なくともボール球に手を出すことはなくなりました。野球選手として「チームの勝利に笑顔で貢献したい」と気づいて、健康管理をはじめた、と言えます。

6.左打席に立つまで

自分の理解が進み、願いに気づいてからは、気持ちが落ち着き、承認欲求から来る行動が減りました。いままでは他人に向かって「わたしを理解して欲しい」と要求し続けていたのが、自分で自分を理解することで落ち着いてきたのです。しかしそれで万事解決とはいきませんでした。それだけでは前に進めないのです。

自分の望みをまとめて、落ち着きが増した

気になった本を読み進めるうち、「今までの行動を形作る言葉」があり、人はこの言葉に従い、たいてい無意識に行動していることを知りました。この頃、「褒めと感謝の日記」をつけるメールワークにも参加しました。

そうしているうちに、自分の中の呪いとも言うべき言葉が浮かび上がってきたのです。

「愛が欲しい…」(ホラー映画のタイトルに使われるフォントで、もちろん赤い字…)

今でもこれを見ると「ウエッ」と胃酸が上がってくるような心持ちになります。

過剰な奉仕や見返りを望む気持ち(こんなにしてあげているのに相手は何もしてくれない)、察しているのにこっちのことは理解されない…これらは皆、ここから始まっていたのでした。

呪いの言葉はこれ一つではありませんでした。
「わたしのお金が取られちゃう」
「ひとは怖いもの」
「おまえに楽しむ資格はない」など、数か月に一つくらいのペースで浮かび上がりました。

わたしはノートにこれらの言葉を書き留め、それが引き起こす行動を付け加えました。
そして今の自分にかけたい言葉を目立つ色のペンで綴っていきました。
・自分で自分を満たすことが出来るよ
・本来の自分を生きていいよ
・思い切り楽しんでいいよ
・感情を出していいよ    等々。

わたしはようやく自分に「許可」を出すことが出来ました。2022年、54歳。療養から1年半が経っていました。

「呪いの言葉」から「勇気をくれる言葉」に書き換える

夫や息子たちには仕事や勉強があるとは言え、常にわたしが家事をしなければいけない理由はないとようやく気づきました。わたしは家族に言いました。

「今のわたしには人のお世話をする体力も余裕もないので、申し訳ないけど一人でくらしたい。人の多いところももう居たくないから地方に移住しようと思う。」

伝えて、心が軽くなりました。ようやく本音が言えたと感じました。


7.左打席からの眺め

やりたかったホームページのコンテンツづくりが進み始めました。これなら出来るかもと思うサービスも(売れないサービスでしたけど)考えられるようになりました。描きたかった絵のスタイルに出会い、日常に絵を描く楽しみが入ってきました。

ですが一つ問題がありました。「愛を配って歩きたい」と思っているのに、肝心の愛が自分の中に感じられないのです。

わたしは母から十分な愛情を受けられなかったと感じていました。

母の立場ではどうだったでしょう。
まず、わたしが「育てにくい」子どもだったことに気づきました。感情の浮き沈みが激しく、大人の話に入りたがり、よく熱を出しました。周囲の子どもと変わっていたのは確かで、情報もない中、母は一人で悩みながら子育てをしたはずです。

昭和の田舎ですから出る杭は打たれます。この変わり者の娘をどうにかして社会に適応させなければと躍起になったに違いありません。それは母から見れば愛情ですがわたしが求める愛ではありませんでした。

また母は、自分のきょうだいに対して「気にかけない」態度を貫いています。仲は悪くないのですが、きょうだいに何かあっても母から様子を聞くことは一切しませんし、協力したことを聞いたことがありません。このヒヤッとした感覚は身内だからこそ感じる独特のもので、母には母の苦しさがありそうです。

わたしは息子達が小さかった頃を思い出しました。
彼らの笑顔に何度も助けられました。わたしが笑顔になれないとき、ハグだけはしようと心がけていましたが、ハグしながらその実、子どもたちに抱きしめてもらっていたように思います。

わたしも母に微笑みかけていたことを思い出しました。
母に届いていたかどうかは別として、愛はあったのです。

母親像は大きな「怪物」から等身大の「理解しがたい部分を持つ人間」くらいに縮んでいきました。今までモザイクがかかったようになっていた父親の顔も思い出すことができました。許せたわけではありませんが、小さい頃にわたしの手を握ってくれ、わたしのさみしさを感じ取っていたことを思い出しました。

母との付き合い方は今でも難しく感じていますが、小さい頃から母の姉や妹(私から見ておば)には事あるごとに助けてもらいました。母の性格を知っているおば達がいなかったら、わたしはここまで来られなかったと思います。

「大丈夫かもしれない」
不振続きのバッターが、左打席に立った瞬間でした。

「愛が無い」「時間が無い」「お金が無い」「才能がない」が少しずつ覆されていきました。正確には、「状況は変わっていないけれど、捉え方が変わってきた」のです。

左打席からは3塁側の観客が見えました。思ったより多くの人の応援が目に入りました。ヤジもありましたが応援の声を頼りにバットを振れるようになりました。そしてホームランにはこだわらなくなりました。コーチにバントが向いていると言われると、チームのために素直に練習できるようになったのです。

泥から抜け出すとは、自分の願いを知り、自分の快適に気づき、自分で自分を満たす行動を積み重ねることでした。過去を振り返り、行動のブレーキとなる思い込みを手放すことも必要でした。

わたしの人生は失敗や嫌な思い出にまみれています。
でも、それは誰か一人のせいではありません。社会のせいでしょうか、そう言えるかもしれませんが、わたしには社会に救われた部分も多々あるのです。

泥から抜け出す…それは自分でなければ出来ないことでした。そして他人が、社会が変わるのを待つより希望のあることでした。

右打ちのバッターが左打ちに転向するには訓練が必要です。時々昔の自分が顔を出し悩ませます。コーチにも力を借りて、練習します。
左打席に立ったから全て解決ではありませんし、ヤジが完全になくなることもありません。それでも右打席でおびえていた頃に比べれば遥かに自分らしく練習できるようになりました。

視野も広がりました。一塁側の観客しか見えていなかったのが、三塁側、チームメート、コーチや審判それぞれに焦点が合っていく感じです。まだ全部が見えてはいないけれど、気持ちの良い経験です。

8.ノート術への想い

今のわたしは、自分の願う「ゆたかな暮らし」、また「優しく、笑顔でいたい」というあり方に少しずつ近づいている実感があります。

高校の時に書いたノートは未来の扉を開くきっかけをくれました。
50代になって書いたノートも再び未来への扉となりました。ですがこちらはただ思いを綴るものではなく「何かに気づく」きっかけになり、行動の指針になるものでした。ノートはこれからもわたしの相棒です。

ところが、ここまで言語化できたから、よっしゃノート術やろう! という感じでは全くありません。わたしの場合、意気込んで始めたことはたいてい上手くいかないので、これは良い兆候です。

わたしがいま「生産」できそうなものは、絵を描くことと、今までの経験を話したり文にすることだけでした。ノート術はその話からビジネスコーチに見つけてもらったものです。ノートに書く「ジャーナリング」という分野があることすら知りませんでした。知らずにやっていたのでそれは強みとも言えますが、必要に迫られて取り組んだのであって、どこかに行って系統的に学んだものではありません。

なので「教える」というより「気づきの場」をつくって、それに意味があると感じる仲間と一緒にわたしも取り組む…そんな感じで居ます。泥から抜け出して日が浅いので、自分の訓練も必要です。書き方は共有しますがそれぞれのスタイルで取捨選択やアレンジして気づきにつなげてもらえればうれしいです。

泥に50年も居たので仲間の滞りポイントはわりと早くつかめると思いますが、それを指摘することはしません。行動を変えるためには自分で気づくことが必要です。わたしはあくまで「場づくり」に徹したい。

わたしの仕事(望み)は「愛を配って歩くこと」。
職業はその手段です。いまはノート術を通じて場をつくり愛を配って、笑顔で優しくいたいです。


ここでわたしの長い長い自己紹介は終わりです。
最後まで読んでくださったあなたは、とても…変わり者と言って良いくらいに…優しい方だと思います。その優しさが損なわれることのないよう、願ってやみません。ありがとうございました。

なお、長い個人的手紙にすぎなかったこの文章を、自己紹介の形で公開できるよう編集してくださったのは #パーソナル編集者 の、みずのけいすけさんです。的を射た助言とあたたかな伴走にこころより感謝しています。

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