西山 逸成(Itsunari Nishiyama)

ル・プチメック ファウンダー 2019年6月までル・プチメックというパン屋さんと、20…

西山 逸成(Itsunari Nishiyama)

ル・プチメック ファウンダー 2019年6月までル・プチメックというパン屋さんと、2020年6月までレフェクトワールというベーカリーカフェをやっていました。 現在は、リタイアした何者でもない人

マガジン

最近の記事

経営本のスゝメ 8.

「本はコスパが良い」とよく言われるけれど、その通りだと思う。 執筆に要した時間という意味でなく、著者の貴重な経験に費やされた時間を想像すれば、コスパが良いなんてものじゃない。 多くの人に届くように、という意味で適正価格というのはあって然りだと思うけれど、個人的には本の価格を材料原価から考えるのはナンセンスだと思う。 だから先述のビジョナリーカンパニーをはじめ、ここで紹介した書籍が仮に5倍の価格であったとしても、ぼくは躊躇なく購入する。 後述するつもりでいるけれど、今の時代

    • 経営本のスゝメ 7.

      経営本やビジネス書の話題になると、なぜか謎の上から目線で嘲笑するかのような人に遭遇することがある。 大抵その場合、自分には必要ないといった表情を浮かべられていて、自分のやり方に自信があるのは大いに結構なんだけれど、その表情はどこか中途半端な自信に映る。それに、こういった人はそもそもどうやって経営を学ぶのだろうと不思議に思えてならない。 まさか、生まれ持っての天才経営者なんてこともあるまい。 きっとやりたいことをやった結果そこそこうまくいってしまったために、それでイケるという

      • 経営本のスゝメ 6.

        こうしてぼくが経営の勉強をしていたとき、ずっと不思議でならないことがあった。 なぜ、正垣さんの著書がないんだ? この時点で既にいろんなフードビジネス誌上で、正垣さんのインタビューはかなりの数を拝読していた。どれも含蓄のある話ばかりで、ただただ勉強になり感銘を受けるものばかりだった。 それなのに・・・ なぜ、書籍化しない? 出版社や編集部の目は節穴か?とさえ、正直思った。 そんな待ちに待った正垣さんの著書が2011年、刊行される。 「おいしいから売れるのではない

        • 経営本のスゝメ 5.

          ぼくにとって経営の神様が稲盛さんだとしたら、外食業界における経営の神様はサイゼリヤの創業者である正垣泰彦さんになる。 それにしても、やはり〇〇の神様も多いな。神様でないとしたら、外食業界におけるアイドルが正垣さんだといってもいい。 ぼくが修業時代、技術を学ぶことと並行してやってきたことをこれまでにも何度か述べているけれど、多分まだ書いていなかった具体的なことを少し述べることにする。 先にお断りをしておくと、これらはすべて将来自分が店をすることを前提にやっていたことであり、そ

        マガジン

        • 本とか本屋さん(仮)
          18本
        • パン屋さんをして経営を想う
          73本
        • 日々是好日
          97本
        • お店の話とか(仮)
          31本
        • 食べものの話とか(仮)
          47本
        • 映画とかドラマとか(仮)
          15本

        記事

          経営本のスゝメ 4.

          ここで、超お薦めの経営本を1冊ご紹介したい。 ぼくが最初に読んだものであり、その後も繰り返し読んだ稲盛和夫さんの著書になる。 その前に。 稲盛さんがたくさん遺された著書のタイトルや設立された京セラの企業理念を見れば何となくわかると思うけれど、それらを宗教っぽいと揶揄する向きもある。 稲盛さんや京セラといえば、必ずというほど「フィロソフィー」という言葉がついてまわりその倫理観や道徳観はとても高尚で、著書でも繰り返し述べられているため、そういった印象を持たれたり敬遠される人もお

          経営本のスゝメ 3.

          稲盛さんは京セラだけでなく80年代半ば、通信事業自由化のタイミングで第二電電(現在のKDDI)を設立されている。 それまで通信事業はNTTの独占状態だったため、国民には高すぎる通信料金(電話料金)以外に選択肢がなかった。その業界に参入することで競争原理を働かせ、それを安価にしようと考えられたのが稲盛さんだった。 「国民のために通信料を引き下げる」という大義のもと第二電電を設立されるのだけれど、それを決心されるまでには半年間も本当に国民のため、世のためなのか、そこに自己顕示欲

          経営本のスゝメ 2.

          ぼくが経営本というよりも経営者本を手当たり次第に読んでいた理由は、ロールモデルとなる経営者を探していたのである。 つまり、いろんな経営手法や考え方がある中で、お手本となりそうな経営者を探すところからぼくは始めた。 目指すべき場所が右にあるのか、左にあるのか、北か南なのか、それさえわからずただ突っ走るのはあまりにも合理的でない。 目指すものが右にあるのに全力で左に走ったところで目的地に辿り着くこともなく、いくら努力をしてもそもそもの方向性を間違っていたのでは、おそらく結果が伴

          経営本のスゝメ 1.

          このご時世、お店を増やすといった考えの人は少ない気がするけれど、それでもお店や会社を始めようとする人はきっとおられると思う。 そこで、前回ビジョナリーカンパニーについて触れたこともあり、参考になるかわからないけれど今回は、経営本やビジネス書について述べてみることにする。 ぼくは、経営や会計の専門的なことを学校などで体系的に学んだ経験がない。 30歳で店を始めたときも、やりたい店を形にしただけで経営をそれほど意識することもなかった。それをぼくが明確に意識し始めたのは、2軒目を

          授人以魚 不如授人以漁

          このタイトル、読める人いますか? ぼくは、読めません。 話を進めます。 どれほど才能があっても独りでできることには限界がある。だからモノづくりにおいては、1人(や2人)でやる以上事業としてスケールすることはまずないとぼくは考える。 無論、善し悪しといった話ではない。 もしそれを目指すのであれば自分以外の手が必要不可欠なのだけれど、そのとき同時に必要となるのが「再現性」だと思っている。これを平易にいえば「仕組み」のことになる。 昔、パンの卸しでお付き合いのあったイタリア

          授人以魚 不如授人以漁

          天才とマネジメント

          先に述べたように天才は感覚的に「できてしまう」ので、それを他人に引き継いだり委ねるといったことが基本的にできない。 つまりそれは「再現性がない」ということになる。 世の中にある大抵の仕事は、それができないと売上を大きく伸ばしたり会社を拡大させることも困難になる。無論、拡大させることがすべてでもなければ正しいというわけでもない。自分の目の届く範囲で、納得するものをできる範囲で、といった考え方もあるし、それは人それぞれの価値観による。 ぼく自身、もしお店なり事業を今から始めると

          天才の盲点

          天才や才能という響きには、やはり惹かれるものがある。 ここまでに述べてきたように陰の側面もあるのだけれど、それも込みでその言葉には、なんとも陶然とさせる不思議な魅力がある。それは稀代の才能を有する選ばれしもの、という自分にはないものへの憧れに他ならない。 つまり端的にいってしまえば、理屈抜きにカッコいいのである。 やはり人は自分にないものを持つ人、それを備えた人に惹かれるものなんだなぁ。 ここまで天才や才能ある人のことを述べてきたけれど、この話題の最後にそんな天才やそ

          葉桜の季節に君を想うということ 後編

          ちょうど20年前のいま頃、鷺沢萠さんの訃報をテレビのニュースで知った。 自分の耳を疑い、緊張で身体は強ばり、いたく狼狽えた。 当初の報道では心不全との発表だったけれど、ほどなくしてそれが自死だったとわかると、ぼくは脳が停止したような気がした。胸は詰まり、膝から崩れ落ちるとはこのことだった。 遺書はなかったらしい。 当時、本業である執筆業はもちろんのこと、舞台演出まで手がけられ仕事に精力的だった。亡くなる1ヶ月前には、ぼくの好きな1冊「ウェルカム・ホーム!」を、さらにその1

          葉桜の季節に君を想うということ 後編

          葉桜の季節に君を想うということ 中編

          鷺沢萠さんは、美人女子大生作家との触れ込みで華々しく文壇デビューを飾った。上智大学外国語学部に現役合格という才色兼備で東京都世田谷区の出身、それもかなり裕福な家庭で生まれ育ったらしい。 上智大学へ入学して間もなく文學界新人賞を最年少で受賞(当時)し、その後も「少年たちの終わらない夜」「駆ける少年」「海の鳥・空の魚」「スタイリッシュ・キッズ」「葉桜の日」と毎年のように上梓され、芥川賞候補作には4度、三島由紀夫賞候補作にも2度選ばれ、「駆ける少年」では泉鏡花文学賞を受賞されてい

          葉桜の季節に君を想うということ 中編

          葉桜の季節に君を想うということ 前編

          タイトルは、歌野昌午さんの叙述トリックを駆使したミステリー作品から拝借している。こういった好きな作品のことも述べてみたいと思うのだけれど、今回は別の作家さんの話になる。 思えば10代の頃、ぼくは超絶にアホだった。 この字面だと、まるで「いや、今ではそうでもないんですよ」とでも言いたげで、読んでいる人に錯覚を与えようとしているみたいだけれど、昔は今より更にアホだったというだけに過ぎない。 当時、何を語るにも語彙が貧困だなぁと自覚のあったぼくは、10代も終盤になってとにかく

          葉桜の季節に君を想うということ 前編

          知的好奇心や認知的欲求も怪物なのかも知れない

          昔から天才や才能に溢れた人を想起する際、自死によって早逝したイメージがついてまわる人も多いのではないかと思う。 パッと思いつくだけでもゴッホ、太宰治、芥川龍之介、三島由紀夫、川端康成、カート・コバーン、アーロン・シュワルツ、桂枝雀など(敬称は省略させてもらいました)、古今東西を問わず多くの天才たちが自死を選んでいる。 また若くして亡くなった海外のミュージシャンの中には、事故ではあるけれど自死とも思えるような薬物依存症や過剰摂取によるものもある。 無論、それぞれ時代背景もあ

          知的好奇心や認知的欲求も怪物なのかも知れない

          退屈なヒットチャートにドロップキック

          もうしばし、凡人による天才の考察を。 ここでは便宜上、天才的、天才肌、天才気質などすべて天才と述べることにする。 天才と呼ばれる人を目にするとき、ぼくは羨望の眼差しを向けている。それは間違いなく、自分とは縁のない傑出した才能に対する憧れである。 また「天才」という言葉からは、天賦の、唯一無二の、といった甘美な響きも漂っているものだから、ますます魅かれる。 けれど、そういった華々しいイメージがある一方、孤独、孤高、絶望、儚さ、破滅といった影のイメージを併せ持つのも「天才」だ。

          退屈なヒットチャートにドロップキック