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一二〇〇文字の短編小説

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原稿用紙三枚分の、物語が始まるまでの物語たち。
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記事一覧

最近の夢はどれも【一二〇〇文字の短編小説 #1】

薄暗い部屋でベッドに横たわって天井を見上げながら、ジャスティーンは考える。最近の夢はどれも気分がいいものではない。探し物が見つからなかったり、何かの獣から逃げられなかったり、目的地にどうしてもたどり着かなかったり、電車に乗り遅れたり、どうにも寝覚めが悪い。 人生がうまくいっていないわけではない。四年前に自分でロンドンに立ち上げた美容院は順調だし、趣味のガーデニングも楽しめている。黒雲がわき起こるような夢はそれほど気にならない。けれども、「予言夢」という言葉がある。少しだけ不

地獄に行った男と【一二〇〇文字の短編小説 #2】

その男は「私は地獄に行ったことがある」と言った。どこか誇らしげな口調で。 その夏、僕は旅先のバンゴールの町でふらりとパブに入った。確か、ザ・キャッスルという名前の店だったと思う。夕方、安宿のホテルからふらついていたときにひと休みしようと思い立った。 ビールはドゥーム・バーを一パイント、少し腹が減っていたからラムステーキをオーダーした。 小さな編集プロダクションに就職して三年目、気分転換も兼ねて夏休みにイギリス旅行を計画した。ウェールズの小さな港町を行き先の一つに選んだの

書評|『それはわたしの名前じゃない』【一二〇〇文字の短編小説 #3】

ハナ・ネドヴェドの『それはわたしの名前じゃない』を一気に読んだ。大学時代のボーイフレンドが好んで読んでいた短編集で、去年の末の昼下がり、隠れるようにわたしの本棚に倒れているのを見つけて手が伸びた。花びらのような口びるが東欧的なデザインでタイトルの下に描かれている。 一九七〇年生まれのネドヴェドはチェコ系フランス人で、イギリスはケンブリッジ大学のガートン・カレッジで学んだ。在学時に母語ではない英語で短編を書き始めると、その才能が編集者の目にとまる。老舗文芸誌『GRANTA(グ

ホワイトアルバム【一二〇〇文字の短編小説 #4】

初めは冗談を言っているのだと思った。でも、美奈子が何度も左手で鼻の頭を触るのを見て、本当なのだとわかった。うろたえにうろたえた。心がずしんと沈んだ。タートルネックのセーターを着ているのに、体がかっと熱くなって、顔から一気に汗が流れ落ちた。 美奈子とは小学三年生からの付き合いだ。東京からの転校生で、あか抜けた雰囲気にすぐにひかれた。十四年前に結婚できたときは本当に幸せだった。ずっと見てきたから、左手の人差し指で鼻の頭をリズムよく触れる美奈子が、不安であることがほどなくわかった

まだ眠れないの?【一二〇〇文字の短編小説 #5】

昨日から妻のブルックが入院している。のどの奥の腫れがひかず、手術を受けて一週間ほどを病院で過ごすことになった。 ロンドンの街は雪がちらついている。入院二日目の妻を見舞った僕は夕方、誰もいない自宅に帰ってきた。いつもとは違い、ひっそりとした空気に、孤独を感じざるを得ない。キッチンのシンクにはいつかのポーランド旅行で買ったマグカップが二つ並んでいた。濃紺の体に白く小さな花がいくつも描かれたカップは、どちらの底にもうっすらとコーヒーが残っていた。 結婚して五年目、久しぶりにひと

オレンジ色のセーター【一二〇〇文字の短編小説 #6】

最近、わたしは夜中の二時ごろに目が覚めてしまう。寒そうに毛布にくるまって寝息を立てている夫のリックに目をやったあと、こっそりとベッドを抜け出すのが習慣になっている。子ども部屋のドアをそっと開けて二人娘のアビーとリジーがぐっすりと眠っているのを確かめ、リビングの紅茶色のソファにこっそり腰かける。 静まり返った夜に考える出来事はさまざまだ。十代になったばかりのころ、隣の家に住むポールに突然「ぼくの好きな人は君だよ」と言われたこと。二十歳になったばかりのころ、まだデビューしたての

満月の夜にまぼろし【一二〇〇文字の短編小説 #7】

十代最後の夏の夜だったと思う。まぼろしのような出来事だった。 東京の大学に進学したばかりのぼくは、小ぶりな公園のベンチに座って缶コーヒーを飲みながら煙草をふかしていた。イタリアンレストランのアルバイトからの帰りで、ちょっとした疲れを癒したかった。 遠距離になって、恋愛はうまくいっていなかった。携帯電話が一般的ではない時代だ。関西の地方都市に残った恋人との電話の数は次第に減ってきていた。恋人はいつも会えない寂しさを訴えてきたけれど、ぼくは話せるだけで十分だった。いつかの夜、

愛はそのままに【一二〇〇文字の短編小説 #8】

あのころのわたしたちは見つめ合いすぎたのだ。わたしたちはまだ二十歳そこそこで──正確にはわたしが二十一歳で、マークが十九歳だった──人生においてはまだまだうぶだった。 お互いに一目惚れだったと思う。共通の知り合いであるエリーの誕生日パーティーで初めて出会ったのは、風が清々しい春先だった。 パーティーは確か土曜日の昼に始まり、エリーのフラットに料理を各自が持ち寄る形式だった。わたしはキッチンの端でひとりワイングラスを持っている男性に目を引かれた。誇り高き孤独をまとう姿から目

フリーランスの不安【一二〇〇文字の短編小説 #9】

ギャリーはまだひとり立ちしたばかりのエディトリアルデザイナーだ。小さな出版社を辞めて安定した収入を捨てたのは、自分の力をもっと試したかったからだ。三十歳になる前の決断だった。 夏の夜、その決意を妻のリッツィに話したとき、「いいんじゃない?」と言われた。リッツィは「フリーランスは仕事を取るところから始めなきゃいけないから大変そうだけど」と続けた。対して、ギャリーにはひそかに勝算があった。紅茶を飲みながら「これまで付き合いのあったクライアントから仕事を振ってもらえる話になってい

毎朝の散歩【一二〇〇文字の短編小説 #10】

五月のマンチェスターの朝はひんやりとした空気が爽やかに肌をなでてくる。メリーはほとんどずっと毎朝の散歩を欠かしたことがない。なじみの公園のベンチでひと休みする習慣も、あのころから変わらない。 変わったのは、隣にトニーがいないことだ。三年前、トニーは脳卒中でこの世を去った。まだ五十六歳だった。夜中に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。メリーは悔やんでも悔やみきれない。あの日の夕方、手が痺れる、頭が痛いと訴えるトニーを強引にでも病院に連れていくべきだった。それなのに、「疲れてる

わたしはいちご泥棒【一二〇〇文字の短編小説 #11】

わたしは姉のワンピースをこっそり着てロンドンの街に出かけている。ウィリアム・モリスの「いちご泥棒」と呼ばれるテクスチャーのドレスだ。何匹かの小鳥がいちごをついばんでいる。 三歳年上のソニアはずっとわたしの憧れだ。学校の成績は群を抜いて良く、大学を首席で卒業して、大手出版社に就職した。身長が高く、キーラ・ナイトレーのようにクールな美しさも持ち合わせている。ほとんど何もかもが完璧な姉に比べて、わたしは何ごとも平凡でどうにもならない。見た目も頭も内面も十点満点中五点。あらゆる面で

のら猫の名前を永遠に知ることができない【一二〇〇文字の短編小説 #12】

まだ四月だというのに汗が滴り落ちる真夏日、わたしは懐かしい街で取材を終えた。成長著しいIT企業の新卒採用サイトのためのインタビューでは、原稿の軸となるキーワードを引き出せた。 わたしはこの取材が決まってから、かつての自分に会いにいこうと決めていた。もう十年以上も前、あの痛ましい記憶が刻まれた場所をどうにか訪れることがいまの使命のように感じていた。そのIT企業がサテライトオフィスを置く小さな街は、わたしが人生最大と言ってもいい喜びと悲しみを感じた大学生活を送った場所だった。

抜け出す【一二〇〇文字の短編小説 #13】

拓次はいじめられてきた。三年生の春からずっと。 三年間もからかいの対象になってきた。生まれつき右足を股関節に異常がある。いつだって右足を引きずっているから、みんなと違う。つまり、自分だけ変だ。 三年生のときの運動会がなければ、と思ってしまう。七十メートル走で転んでしまった。起き上がってなんとかゴールしたあと、誰かのお父さんが「ビッコだからしかたないよ」と言うのが聞こえた。周りの大人たちがくすくす笑った。たぶん、だけれど。 家に帰ってから「ビッコってなに?」と晩御飯をつく

ペパーミントグリーンの椅子に人魚姫のスノードームを【一二〇〇文字の短編小説 #14】

ひとりぼっちの日曜日は退屈だ。つい煙草の数が増えてしまう。アイスコーヒーの飲みすぎで体が冷えてきた。 アビゲイルと別れてちょうど一カ月が経つ。実のところ彼女とは結婚まで考えていたのに、レスタースクエアのイタリアンレストランでふいに別れを告げられた。ほかに好きな人ができたのだという。晴天の霹靂だった。大学一年生のときから七年も付き合ってきたし、前日に体を重ね、子どもは何人ほしいかという話で盛り上がったばかりだった。 でも、恋愛とはそういうものだとも思う。あるとき、磁石のよう