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八〇〇文字の短編小説

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原稿用紙二枚分の、物語が始まるまでの物語たち。
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記事一覧

恋に落ちたら【八〇〇文字の短編小説 #1】

土曜日の朝、僕は一人暮らしのアパートのベランダで洗濯物を干していた。レオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図があしらわれたTシャツを干し終えたとき、スマートフォンが軽やかな音を鳴らした。 「今日、下北沢に出かけない?」 そうLINEを送ってきたのは、大学で同じクラスのまりやだ。大型連休が明けたころ、「このグミ、食べる?」と突然話しかけてきた。何の前触れもない不意打ちにめんくらった僕は首を横に振ったが、内心、うれしかった。実は大学に初めて行くオリエンテーションの朝

恋が始まる【八〇〇文字の短編小説 #2】

金曜日の夜、わたしはなかなか寝つけなかった。これが恋なのだろうと思った。 初めて見かけたのは大学に初めて行く日の朝だった。どういうわけか、駅のバス停でレオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図がプリントされたTシャツを着ている子が気になった。わたしのほうをじっと見つめている黒々と大きく潤った目に引きつけられた。 大学に通い始めると、同じクラスだということがわかった。その人が孤独を好んでいることも知った。わたしも含め、周りはみんな新しい友達をつくろうと、ある意味一生

暗闇の光──リチャードの最期【八〇〇文字の短編小説 #3】

ちくしょう、なんて残酷な人生なんだ──そう思いながら、リチャードは煙草に火をつけた。ロンドンの外れにあるペンジ・イーストの街は夜に沈んでいた。暗闇のなか、アレクサンドラ・レクリエーション・グラウンドの端の公園にある滑り台の上で、乾いた口にくわえたハムレットの先が蛍の光のように点滅する。 五年前、リリーとの間に生まれた娘のベスは、一カ月もたたずに天に召された。医師が伝えてきた「乳幼児突然死症候群」という言葉が悪魔がささやく呪文のように聞こえた。なんとか耐えていたリリーはしかし

サリーを待ちながら【八〇〇文字の短編小説 #4

イアンはノーザン・クォーターの一角にあるパブで待っていた。サリーは約束を覚えているだろうか。一カ月ほど前、彼女の二十七回目の誕生日の十九時にここで落ち合おうと伝えた。ただし、もう一度やり直す気があるのなら、という条件つきで。 電気工事士の職を追われて一年が経つ。失業保険暮らしが続く。身をもてあましたイアンは、不安から逃げ出すように夜ごとマンチェスターの街に繰り出し、クラブからクラブへとふらつき歩いた。いかにもマンチェスター的なサウンドトラックが鳴り響くなかでマリファナを吸い

大事な話があるの【八〇〇文字の短編小説 #5】

ペンション・マリエのベッドに横になりながら、アンディは「チェスキー・クルムロフ」とつぶやき、まじないの言葉を唱えているような気分がした。ティナはシャワーを浴びている。アンディは天井をぼんやりと眺めながら、雨が降っているみたいだと思った。 ダブリンからチェコまでの小旅行。二人とも夫婦関係が壊れていた。アンディのもとからはビリンダが去り、ティナはニールから離れた。どちらも離婚はしていないけれど、アンディとティナが関係を持ってから一年ほどが経っていた。二人でダブリンを出るのは今回

故郷には帰らない【八〇〇文字の短編小説 #6】

グラスミアに帰らなくなってから、どれくらい経つだろう。朝の八時すぎ、ノーマンは右手を握って年数を数えようとし、親指、人差し指と開いてやめた。いつものカフェで、いつものベーコンエッグマフィンを食べながら、久しぶりに故郷を思い出した自分に少し驚く。 生まれ育った村には十年以上も帰っていない。大学で学ぶためにロンドンに出てきて、そのままロンドンの出版社に編集者として勤め始めた。最初は子ども向けの本を担当し、それからビジネス書を手がけるようになった。いくつか重版出来という結果を残し

ホープ・ストリートにて【八〇〇文字の短編小説 #7】

大学最後の年が近づいた夏、ティムは三人の友人たちとリヴァプールに一軒家を借りた。一カ月ほどロンドンから離れ、リヴァプールを拠点にマンチェスターやリーズ、さらには湖水地方やマン島をめぐるためだ。移動手段にはパディの父親のキャンプ用バンが選ばれた。 ロンドンのエルム・パークにあるギャズの自宅前に集合した一団は、予定の九時よりちょうど一時間遅れて出発した。運転はブレットを皮切りに順番で担当する。ティム、パディ、ギャズ、ブレットの四人は大学に入学したときからの腐れ縁だった。授業の合

誰にも言えない【八〇〇文字の短編小説 #8】

誰が言い出したのか、大学最後の年を迎える夏、リヴァプールに一軒家を借り、マンチェスターや湖水地方など周辺をめぐることになった。ティム、パディ、ギャズ、ブレットはいずれも計画性がなく、行き当たりばったりの一カ月となりそうだった。 レモンみたいに黄色いバンがモーターウェイを北上していく。ギャズは羊たちが散らばる田園風景が通り過ぎるのを眺めながら、「この旅行を一生忘れることはないだろう」と思い、キュリオスティ・コーラを勢いよく飲んだ。 リヴァプール行きのバンはビートルズの独壇場

もしも不吉な予感がしたのなら【八〇〇文字の短編小説 #9】

ノーマンは思い出す。もう十年以上も戻っていないグラスミアにまつわるささやかな記憶だ。二十年ほど前の風の冷たさを、いまだに覚えている。 ケイティの十四歳の誕生日だった。学校が終わったあと、ケイティの家に寄った。ノーマンはケイティに誕生日プレゼントを買っていた。ケイティはポップスに目がないと聞いていたし、母親の影響でCDではなくレコードをたしなむことを知っていた。だから、もう何カ月も前からとびきりのレコードを選んであげようと考えていた。 季節が秋に変わろうとしていたころ、丘の

ロンドンでの船出【八〇〇文字の短編小説 #10】

その夏の夕方、スチュアートはユーストン駅で列車を降りた。ロンドンの空気に包まれ、少し高揚した気分になる。バーミンガム・ニューストリート駅から二時間ほどの小旅行は、新たな挑戦の序章だった。 大学を卒業する前にバーミンガムの小さな広告代理店で雑用から始め、四年かけてなんとかコピーライターを名乗れるようになった。もう一つ上のステージで自分を試してみたいと、ロンドンの広告代理店でさらにキャリアを積む道を探った。口利きをしてもらったのは大学時代の友人のトムだ。ロンドンの映画配給会社で

夫を思い出す【八〇〇文字の短編小説 #11】

夏の夕刻、ロンドンのユーストン駅で列車に乗ったパティは窓ガラスに映る自分を見て「また白髪が増えたわ」とひとりごちた。 ミルトン・キーンズへの小旅行。一カ月ほど前、ロンドンまで電車で三十分ほどの街に、息子のエドが家を買った。昨日の夜、エドは「新居での生活を祝うためにパーティーをやるんだ」と電話してきた。パティは相変わらず思いつきで行動するエドらしさに苦笑し、でも息子と結婚してくれたベスと、五歳になったばかりのマイルズにも久々に会えるのがうれしかった。 電車はまだ北へ向かう乗

クリスマスに雪が降れば【八〇〇文字の短編小説 #12】

スティーブンは自分のせいなのだと思っていた。十歳にもなるのに靴のかかとをつぶして履く癖が直らないから? フットボールの試合を観ているときに汚い言葉を吐いたから? イースターの期間にパンケーキを落としたから? 考えれば考えるほど、自分が原因だと感じずにはいられなかった。 「母さんの目が見えなくなるかもしれないんだ」 ある晩、父さんからそう言われたとき、最初はどんな事態か想像できなかった。振り返って母さんのほうに目をやると、母さんは泣き出しそうな顔をしながら、でも少しほほえん

誰も幸せになれない話は【八〇〇文字の短編小説 #13】

あの日から、父親のダグラスは、息子のスティーブンに本当のことを伝えるべきではなかったのではないかと考え続けている。母親のシモーヌが緑内障で目が見えなくなるかもしれない現実を、まだ幼いスティーブンは受け止められずにいる。真夜中に二階の子ども部屋からときどきうめき声が聞こえてくる。 シモーヌは気丈に振る舞っているけれど、スティーブンの心の痛みまで抱え込んでいるように見える。シモーヌと話し合った結果とはいえ、ダグラスは自分の選択が間違っていたのではないかと思ってしまう。八年前に父

罪の告白はいつすればいい?【八〇〇文字の短編小説 #14】

ティナはシャワーを浴びながら、「この関係にもそろそろピリオドを打つべきなのかもしれない」と考えている。二人とも不倫を続けているつながりは、やはり適切には思えない。秋のチェコで、二人のまだ見ぬ未来が決まる。 ダブリンからチェコへの小旅行を言い出したのは自分だ。アンディに打ち明けるべきことがあった。チェコを選んだのは、古びたダブリンの日常から離れて真実を告げたかったからだ。もぐらの絵本が大好きで、子どものころから黄金のプラハに憧れていた。ティナは夢にまで見た場所で、人生を左右す