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夢の話、または短編小説の種たち

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いずれもっと広げたい夢の話、または短編小説の種たち。
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記事一覧

明日を遠くして【夢の話、または短編小説の種 #1】

夢のなかでわたしはアメリカ人の女性で、いとこの少年二人に「デジタルカメラを買ってほしい」とねだられている。わたしは「買ってあげる気はないわ」と突き放し、「庭のりんごを売って資金にしたらどう?」と提案する。 男の子たちを冷たくあしらい、わたしは音楽フェスを楽しむために車を走らせる。窓を開けたまま風を感じる。空が青い。 やたらと広い公園に着くと、小ぶりなステージでジェームス・イハが弾き語りをしていた。観客はまばらだった。わたしは「サインをもらうためにCDを持ってこればよかった

いちごジャムの夜【夢の話、または短編小説の種 #2】

まどろみのなかで、わたしは「少しお腹が空いたな」と感じ、どういうわけか二十代の前半に付き合っていたボーイフレンドのイアンの笑顔を思い浮かべている。「ベッカ」とわたしを呼ぶ声が聞こえた気がする。でもほんとうはイアンにほかに好きな人ができて、五年ほど前、わたしたちの関係は三年足らずで終わった。 わたしはそっとベッドを抜け出す。電気はつけず、キッチンに向かい、籐細工のかごからバゲットを抜き取り、ペティナイフでおおおざっぱに切り分ける。壁にかけてある時計を見ると、ほとんどちょうど一

なぜぼくは小説を書くようになったのか【夢の話、または短編小説の種 #3】

たぶん、夢のなかの話だ。でも、その言葉のざらついた感覚は生々しくずっと残っている。 春が駆け足で去ろうとしていた。地面に散った桜の花びらは踏みつぶされ、柔らかな色を失っていた。汗ばむ陽気で、ぼくはダイナソーJr.のファーストアルバム「グリーン・マインド」のTシャツを着ている。小さな女の子が煙草をくわえている写真を、どこまでもクールだと思っていた。 ぼくは六畳一間のアパートからどこかに向かって歩いている。胸の少女のようにくわえ煙草で煙をくゆらせながら、つんのめるように進んで

吊り橋の上で【夢の話、または短編小説の種 #4】

何か深い意味をもつような夢を見ることがある。今朝方、冷たい汗をかいたまどろみの時間がそうだった。 わたしは夏の夕方に、吊り橋の上に立っている。おそらくキャリック・ア・リード・ロープ・ブリッジだ。長さは20メートルほどだろうか。北アイルランドのアントリム州にある吊り橋で、小さなころ父の兄を訪ねたときに渡ったことがある。海に落ちそうな気分になって、なかなか渡ることができなかった。 けれども、今度は怖くない。観光地で有名な桟道なのに、わたし以外誰もいない。わたしは吊り橋のちょう

ポール・オースターが死んだ日【夢の話、または短編小説の種 #5】

「ねえ、ダニエル、ポール・オースターが亡くなったって」 うとうとと眠りかけてニューヨークの街を徘徊する夢を見ていた僕は、ヴァージニアの声で目を覚ます。薄暗い部屋でヴァージニアはスマートフォンを覗き込んだまま「肺がんの合併症だって。あなた、若いころ、彼の本をよく読んでいたわよね」と続けた。以前、彼ががんで闘病中だと発表されたことを知っていたけれど、思わず狼狽した。スマートフォンの明かりに照らされるヴァージニアの顔をちらりと見て、毛布を手繰り寄せて背中を向ける。オースターの妻で

恋に絡む夢はいつだって【夢の話、または短編小説の種 #6】

さっき夜明け前のまどろみで見たのは、昔、付き合いそうだったけれど付き合わなかった子との夢だ。ぼくの友人の結婚式で出会い、英国発のポップスの話で意気投合した。 どちらにも恋人がいた。それでいて、ぼくたちはときどきどちらからともなく誘い、街をぶらつき、夜を一緒に過ごした。夢のなかの二人はほの暗いカフェで恋人同士みたいに向かい合っていて、アイスコーヒーをほとんど飲み終えていた。彼女の着ている黄緑色のワンピースは半袖で、つまりは夏ということなのだろう。 彼女は左ひじでほおづえをつ

それはぼくの名前じゃない【夢の話、または短編小説の種 #7】

ぼくは地下鉄の電車に揺られている。ソーホー地区にレコードを買いに行く途中で、ずっと視線を下げられずにいる。iPhoneのイヤフォンからはドアーズのブートレグが流れている。 オレンジ色のロングシートに腰かけ、向かい側の網棚をじっと見ている。一冊の本が横たわっている。目を離すことができない。背帯に書いてある「それはわたしの名前じゃない」という文字が気にかかって仕方がない。うろこのある優しいセリフの字体で、でも座った瞬間にすぐに目に飛び込んできた。 春先のお昼とも夕方とも言えな

日記を書く【夢の話、または短編小説の種 #8】

今から五年前、ぼくがまだ十九歳になったばかりのころ、一つ年上のガールフレンドは日記をつけていた。恋人同士になる前に、下北沢のサンデーブランチというカフェで教えてくれた。 「小さなころから日記をつけてるの」 「そうなんだ。どんなことを書いているの?」 「なんでもないことよ。その日あった出来事とか感じたこととか、たった一行でもいいからとにかく書くの。もう十年になるかな」 「昔のものを読み返すことは?」 「うん、たまにね。まるで自分じゃないみたいに思うこともある」 「そ