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二〇〇〇文字の短編小説

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原稿用紙五枚分の、物語が始まるまでの物語たち。
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記事一覧

青春はまぼろし【二〇〇〇文字の短編小説 #1】

夜明けごろの夢のなかでぼくは若くなっている。 女子校なのか、女子大なのか、とにかく女性だけの学び舎の文化祭に足を運んでいる。柔らかな日が差し込む教室で、中学時代にひそかに恋心を寄せていた女の子と向かい合わせに座っている。 しなやかな笑顔は相変わらずで、ぼくは「君のことがずっと好きだったんだ」と打ち明けたいけれど、胸が爆発しそうで言葉が出てこない。目を見ることができず、制服の首もとのリボンをぼんやりと眺めている。控えめに風が吹き、カーテンがゆらめく。新緑をかすかに目にしたぼ

オレンジジュースを飲んでいた【二〇〇〇文字の短編小説 #2】

父が白血病でこの世を去るまでの十カ月はまるで夢のようだった。言うなれば悪夢で、何もかもがほの暗くよどんでいた。葬儀が終わってから一カ月以上がたった今も、まだ別の世界に迷い込んだような気がしている。 朝食には急ごしらえのサンドウィッチを食べた。食パンにベーコンとレタスとトマトを挟んだものだ。この間買ったばかりのインスタントコーヒーはおぼろげな苦味が気に入っている。大学で社会学を学ぶために、四国から上京してから始めた一人暮らしはもう板についた。朝のメイクはだいたい十分で切り上げ

マタニティのうずき【二〇〇〇文字の短編小説 #3】

「順番が、逆じゃないか」と言う父の息継ぎの長さで怒っていることがわかった。わたしも、そう思っていた。黙ったまま、正座した右足にしわくちゃに挟まったスカートを正した。父の目を見ることができなかった。父の隣からの視線は気に留めず、父の背後の壁をぼんやりと眺めていると、小さな染みに気づいた。林檎みたいな形だなと思った。 わたしは三十三歳の誕生日を迎える前に妊娠した。晴天の霹靂というか、まさかわたしが子どもを身ごもるとは思わなかった。今振り返っても、いつだったのか、見当がつかない。

アンダルシアの夜【二〇〇〇文字の短編小説 #4】

あの日の夜、テレビの中の近藤真彦が繰り返し悔しそうな顔をした。「アンダルシアに憧れて」と歌い出しからすぐ、歌詞を忘れたからだ。マッチがカメラに背を向け「すいません」と言うと、演奏が止んだ。頭を沈ませ、腰をかがめてひざに手をやった。 いつもより遅い時間にテレビを観ることができたのは、父と母が祖父のことで慌ただしかったおかげだ。夕食に出前でとった五目あんかけラーメンを食べ終わったあと、普段ならもう布団に入っている時間に、わたしは四つ歳上の兄と一緒に歌謡番組に見入っていた。二人の

ロンドン・コーリング【二〇〇〇文字の短編小説 #5】

二〇〇九年の秋、ロンドンに着いたばかりの僕は、時差ぼけのせいか眠れずにいた。アールズコートという街のユースホステルで何度もぎこちない寝返りを打っていた。四人部屋のドミトリーで重なる寝息が耳障りだった。僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。 遠くで犬の鳴き声が聞こえた。羊の数を数え始めては別れたての彼女の笑顔を思い出し、また羊の数を数え始めては別れたての彼女の笑い声を懐かしんだ。気を紛らわせたくなった僕は、ヒースロー空港からの電車の窓越しに見た夕日を思い出してみた。異世界に迷

Let's Stay Together【二〇〇〇文字の短編小説 #6】

テレビの天気予報が、明日の夕方に台風が関東にやってくると告げていた。わたしは夕食後の珈琲を飲みながら、伸びすぎた後ろ髪を左手でもてあそんだ。 冷凍のカルボナーラは一人で食べた。浩次からは「今日も残業」とだけLINEが来ていた。正直なところ、ほっとした。ここ数年は二人でいると居心地の悪い時間ばかりで、つくづく息苦しい。子どもが生まれない事実が濃くなれば濃くなるほど、わたしたちの距離は開いていく。 風が吹いて、窓ガラスが震えた。高層マンションの十二階は、低すぎず、高すぎず、宙

暗闇に流れる【二〇〇〇文字の短編小説 #7】

「ミスター・タンブリンマン」が流れ始めたとき、その男は「駅のホームから転落したんですよ」とつぶやいて、右足をなでた。正確には右足があったところ、と言うべきかもしれない。ずっと、気づかなかった。 初めて出会ったのは都電荒川線の車内だった。私は営業先の町屋駅前から会社近くの大塚駅前に向かっていた。日暮里経由でJRで戻ることもできたけれど、都電荒川線には父との思い出があった。私が野球少年になりたてのころ、荒川遊園地に連れてきてもらったことがあった。三十年ぶりに都電荒川線に乗ってみ

さようならのメロディ【二〇〇〇文字の短編小説 #8】

さようなら、という言葉はなんでこんなに胸が苦しくなるんだろう。清志郎はまだ口にしていない別れのあいさつを頭のなかで繰り返しながら、そう思った。 ちょうどあと一カ月だ。三十日寝ると、三学期が終わる。そして真琴が転校してしまう。もう一生会えないかもしれない。さっきより、もっと胸が締め付けられた。みぞおちのあたりをぎゅっと握られたような、のどがふさがれたような感じがした。 晩御飯を食べ終わって一時間くらい、ずっとベットに横になっていた。中休みのサッカーで擦りむいた右ひざがじくじ

キラキラのそのあとで【二〇〇〇文字の短編小説 #9】

もっと何かできたのではないかと思うと、胸が張り裂けそうになる。救いの声を聞き流した自分の愚かさを突きつけられると、心底、幻滅してしまう。 幼なじみの幸子が自ら命を絶った。まだ三十四歳だった。子どもを二人残して、急に人生を終わらせた。 幸子と僕が最後に会ったのは一年前だった。僕が田舎に帰省したとき、高校時代に同級生の何人かとよく通っていた喫茶店で二時間ほど近況を伝え合った。幸子はあの頃と同じく紅茶を飲みながら、「うつ病なの」と打ち明けてきた。二人目の子どもを産んでから二週間

小さな雲が二つ【二〇〇〇文字の短編小説 #10】

春の雨がスラックスの裾を濡らし、両の足首が冷たくなったから、余計に気分が重くなった。東京の桜はもう、だいぶ散ってしまっている。牛革のビジネスバッグに隠れていた折りたたみ傘を取り出し、仕方なしに開く。茶色い革にいくらか染みた雨がエクスクラメーションマークのように見えた。 得意先の出版社で七月に出す別冊の見積もりに関して打ち合わせをしたあと、日比谷線の築地駅に向かう道すがらで春雨に遭った。湿った足首が鬱陶しく、細い路地を入ったところの、カウンターだけの小さな喫茶店にもぐり込んだ

双子の姉【二〇〇〇文字の短編小説 #11】

わたしの姉は仲のいい双子だった。過去形で話さなければいけない現実が、本当に悲しい。 六つ年上の姉たちは、キリンとコアラと呼ばれていた。先に生まれた杏がキリンで、10分ほどあとに生まれた絵梨花がコアラだ。生まれてすぐ、母親が間違えないようにとキリンとコアラのワッペンが入ったベビー服を二人に着せて、それぞれを見分けたのが理由らしい。キリンとコアラはそれから友人たちにも使われる二人の呼び名となった。本当の名前の由来はわからない。 キリンとコアラは、妹の私でさえ見分けがつかないほ

抜け殻の音楽【二〇〇〇文字の短編小説 #12】

二〇〇九年の春、僕たち四人は宙ぶらりんになった。全員が大学受験に失敗し、高校を卒業した。 そして全員がそろって再び大学進学をめざし、同じ予備校に通い始めた。でも、誰も明確な夢を持っていなかったと思う。それぞれが志望校を決めていたけれど、視線の先に「やりたいこと」などなかった。そもそも、「やりたいこと」が収まっている社会が何なのかすらわかっていなかった。十八歳の僕たちは正真正銘の世間知らずだった。 唯一、気休めになったのがバンド活動だった。高校一年の夏から続けていた。グルー

二人の秘密【二〇〇〇文字の短編小説 #13】

付き合って七年。結婚して三年。健一には、妻の亜純に言い出せないことがあった。 むしろ、まだ隠し通さなければならない。自分の体の不備を知ったら、亜純はたぶん悲しむだろう。家族が増えないおそれに打ちひしがれてしまうかもしれない。 結婚前、友人で不妊治療に励む千葉に促され、亜純には内緒で子どもを授かれるかどうか、いわゆるブライダルチェックを受けた。好奇心半分で終えた精液検査の結果は無力精子症。ありていに言えば、精子の力が弱いのだという。健一は会社近くの定食屋で打ち明けると、アジ