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のら猫の名前を永遠に知ることができない【一二〇〇文字の短編小説 #12】

まだ四月だというのに汗が滴り落ちる真夏日、わたしは懐かしい街で取材を終えた。成長著しいIT企業の新卒採用サイトのためのインタビューでは、原稿の軸となるキーワードを引き出せた。

わたしはこの取材が決まってから、かつての自分に会いにいこうと決めていた。もう十年以上も前、あの痛ましい記憶が刻まれた場所をどうにか訪れることがいまの使命のように感じていた。そのIT企業がサテライトオフィスを置く小さな街は、わたしが人生最大と言ってもいい喜びと悲しみを感じた大学生活を送った場所だった。

取材を終え、企業の広報とフォトグラファーに「次の用事があるんです」と告げて、あの人と三年間を過ごしたアパートに向かっていく。薄茶の枯れ葉みたいな色の壁のアパートは五階建てで、二階の角部屋がわたしの部屋だった。あそこでの恋愛があちら側に転ばなければ、いまのわたしはどうなっていたのだろう──まぼろしの世界を想像していると、亜麻色のノースリーブのワンピースの背中が汗でびっしょりになっていることに気づいた。

ふくらはぎが張っている。シンデレラにこそふさわしいだろう高さのハイヒールを履いてきたことを後悔した。十分ほど歩くと、あのアパートはもうなかった。建物はそっくり消え、車が六台停められるコインパーキングに様変わりしていた。

寄り添うように並ぶ二台の車をぼんやりと眺めながら肩透かしをくらった気分になったわたしを、駐車場の端から子猫が見つめている。わたしはあのころ、ときどき一匹ののら猫にえさをあげていたあの人の背中を思い出していた。「名前をつけてやったんだ」と笑う彼から、その名前を教えてもらうことはなかった。

わたしはどういうわけかこの子猫はあののら猫の血を引いているのだと思い、胸が苦しくなる。どんな過去も否応なくいまにつながっている真実に押しつぶされそうになる。自分で決めたのに、あのころの場所に戻ってきたせいで心の古傷がずきずきと痛んだ。

わたしは当時自分の部屋があったあたりに立ち尽くし、力尽くで強いられるように思い出す。いまと同じ四月、大学二年生になって同じ講義を受けるようになってあの人に声をかけられたこと。何度か食事や映画に出かけたあと恋人同士になったこと。「一人で眠るのは寂しいんだ」と、あの人がわたしの部屋に転がり込むようにして同棲が始まったこと。わたしの心を燃やすだけ燃やしておいて、あの人は突然去っていったこと──。

大学生活が終わるころ、あの人は何も言わずわたしの部屋に姿を現さなくなった。一週間が経っても、二週間が過ぎても戻ってこない。不吉な予感がしたわたしは東京の東端にあるあの人の自宅を訪れ、彼が自ら命を絶ったことを知った。遺書は残されていなかったから、その理由は永遠にわからない。わたしはあの冬と同じようにむせび泣きながら、正真正銘に深い悲しみをなんとか断ち切ろうとする。子猫が小さく鳴くのが聞こえた。

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