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毎朝の散歩【一二〇〇文字の短編小説 #10】

五月のマンチェスターの朝はひんやりとした空気が爽やかに肌をなでてくる。メリーはほとんどずっと毎朝の散歩を欠かしたことがない。なじみの公園のベンチでひと休みする習慣も、あのころから変わらない。

変わったのは、隣にトニーがいないことだ。三年前、トニーは脳卒中でこの世を去った。まだ五十六歳だった。夜中に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。メリーは悔やんでも悔やみきれない。あの日の夕方、手が痺れる、頭が痛いと訴えるトニーを強引にでも病院に連れていくべきだった。それなのに、「疲れてるんじゃない? ベッドに横になっていなさいよ」とだけ言って、トニーの体が発信していた警告を無視してしまった。

毎朝のそぞろ歩きが夫婦の決まりごとになったのは、烈火のごとき夫婦喧嘩がきっかけだった。ある晩、二人は言い争った。きっかけは飲みたいものの違いだった。メリーは二人分の紅茶を淹れたのに、トニーは「コーヒーを飲みたかったな」と何気なく言ってきた。メリーはときどきトニーの身勝手さが好きになれなかった。メリーは「じゃあ自分で淹れればいいじゃない!」と怒鳴り、トニーは「そういう話じゃない、俺が最近コーヒーが好きなのを知っているだろう!」と大声を張り上げてきた。正真正銘の正面衝突で、メリーは怒りのなかなか寝つけなかった。

次の日の朝、寝不足のまま起きると、ベッドに横になったままトニーが「少し散歩しないか」と言ってきた。二人は黙ったまま、一時間ほど家の周りを散策した。ともに新緑の木々を目にし、穏やかながら冷たい風を肌で感じ、手をつないで並んで歩いていると、昨晩の反目がゆっくりとほどけていった。家に帰ってからメリーは二人分のコーヒーを淹れた。温かいコーヒーを飲む二人はまだ言葉を交わさなかったが、この時間が大切だという思いを同じように抱いていた。それから、どちらから言い出したわけでもなく、朝の散歩が日課になった。

二人に子どもはいなかった。ともに子育てを楽しみたかったのに、子どもができなかった。どちらかのせいにしたくなくて、不妊症の検査は受けなかった。メリーはときどき公園で家族連れを見てうらやましく感じた。こっそりトニーの顔を見ると、決まってその親子から目を逸らしていた。

トニーは突然天に召される少し前、メリーの五十歳の誕生日を祝ってくれた。手渡してくれた小さな箱に入っていたのは、ジョセフ&トーマス ウィンドミルズの腕時計だ。文字盤の中央に柔らかなゴールドの円が入っていて、メリーはすぐに気に入った。「ありがとう。これからわたしたちの人生の時間を刻むわけね」

けれども、今、ベンチに座るメリーの隣にトニーはいない。少し先ではいつもの親子連れが笑い合っていて、メリーは孤独に打ちのめされそうになる。「もっと『愛している』と伝えるべきだった」とうつむくメリーの右腕で、トニーがくれた腕時計の秒針が小さな小さな音を鳴らしている。

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