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キラキラのそのあとで【二〇〇〇文字の短編小説 #9】

もっと何かできたのではないかと思うと、胸が張り裂けそうになる。救いの声を聞き流した自分の愚かさを突きつけられると、心底、幻滅してしまう。

幼なじみの幸子が自ら命を絶った。まだ三十四歳だった。子どもを二人残して、急に人生を終わらせた。

幸子と僕が最後に会ったのは一年前だった。僕が田舎に帰省したとき、高校時代に同級生の何人かとよく通っていた喫茶店で二時間ほど近況を伝え合った。幸子はあの頃と同じく紅茶を飲みながら、「うつ病なの」と打ち明けてきた。二人目の子どもを産んでから二週間に一度、病院に通っているという。「男の子二人を育てるのはなかなか骨が折れるのよ」と泣きそうな笑顔を見せた。

僕は何も言えなかった。これまでの人生を知っていたし、下の子を妊娠中に夫を亡くしていたこともくみとった。出張先のホテルで、突然の死だった。心筋梗塞だったらしい。結婚してちょうど五年目の痛ましい出来事だった。

最後に会ったとき、幸子は「私の人生、幸せなことなんて一つもなかったな」と息を漏らした。子どもがいるじゃないか、とも言い切れなかった。上の子は自閉症で、下の子は生まれつき心臓の形に異常があった。幸子は一人っ子で、父親を早くに亡くしていた。母親は僕たちが中学を卒業する少し前、新興宗教に入れあげ、偏った見方をするようになった。宗教活動につぎ込む出費がかさみ、幸子は大学進学をあきらめなければならなかった。

成績優秀者として高校の入学式で代表者のあいさつをした幸子は、掛け値なしに聡明だった。利発な幸子が駅前に四階建てのデパートがあるだけの田舎にとどまるのは本当に心苦しかった。大学に行くのか、東京に出るのか、もっと広い世界で羽ばたくべき存在だったのに。

高校卒業後、地元の信用金庫に就職できたのも、幸せとは言い切れない。それから四年後、寿退社したときに、幸子は「最終面接のあとに信用金庫の重役の相手をしたから採用されたんだと思う」と告白した。

「うつ病なの」と沈んだ幸子は紅茶をじっと見つめて、「ただ」と細い声をこぼし、言葉を継いだ。

「あのときだけはキラキラしてたかな」

「あのとき」がいつのことか、すぐにわかった。僕が大学二年生の頃、春から冬が終わるまで僕たちは恋人同士だった。東京の大学でその場しのぎのような生活を送っていた僕は毎日のように雪子と電話で話し、笑い合った。僕が帰省し、あるいは雪子が東京に出てきて、一カ月に一度は会った。小学三年生の頃からずっと友達だった関係が変わり、恋人同士になった僕たちは浮かれていた。世界が自分たちのために存在しているような、そんな無敵の感覚があった。

夏の暑い日、ドライブで海まで行った時間は忘れられない。帰省した僕は、父親からスズキのマイティ・ボーイを借りてハンドルを握った。海までの道中、僕たちは昔話に花を咲かせた。小学四年生のときに学年全体で挑戦したナイトハイクで、担任の松本先生がTシャツを反対に着ていたことを思い出して大笑いして、小学六年生の修学旅行で夜中に女子の部屋に男子が入って朝まで好きな人を発表し合ったことを懐かしんで頬を緩めて──僕はみゆきが好きで、幸子は拓郎が好きだった──中学二年生のとき、放課後の教室に残った男女数人で性についてあけすけに語り合ったことを振り返って苦笑した。そこにはずっと、愛と笑いがあった。

帰りは星空の下、マイティ・ボーイを走らせた。海辺で走り回って疲れたのか、幸子は窓の外を見て黙りこくっていた。CDプレーヤーからストーン・ローゼズの「サリー・シナモン」が流れてきた。イアン・ブラウンが綱渡りを始めるみたいに歌い始めると、幸子が外を向いたまま「ねえ、いつか結婚しようよ」と言ってきた。不意打ちをくらった僕は頭が混乱して、しばらく何も答えられなかった。めまいがするくらいうれしくて、イアン・ブラウンが最後にサリー・シナモンに呼びかけたあと、「うん、結婚しよう」と返事をした。

でも、結局のところ、その話はその場かぎりで、僕たちは結婚しなかった。僕たちは春が冬を追い出すころに離ればなれになった。幸子から別れを切り出された。理由はわからない。ただ、しばらくして幸子が上司の子どもを身ごもったことを知った。

ひどく落ち込んだけれど、僕たちはまた友達の関係に戻った。お互いの現在地を報告し合い、ときには悩みを相談した。最後に会ったときもそうだった。いつもとただ一つ違ったのは、幸子が正面から弱音をぶつけてきたことだった。

幸子はどんな気持ちでマンションの屋上に立っていたのだろう。想像すると、胃の底がめくれ上がるような感じがする。

幸子がいなくなってからちょうど二週間後、ハートがいくつも描かれている切手が貼られた封筒が配達日指定で届いていた。差出人は幸子だった。僕はわんわんと声をあげて泣き崩れた。

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