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「練習」の仕方から見える「才能」のかたち

病院での妊婦検診の帰りに喫茶店に寄り、スティーヴン・キングの『書くことについて』を何年かぶりに再読した。


本書は、言わずと知れた大ベストセラー作家のキングが自分の半生を振り返りつつ、「書く」ことの秘訣を愉快に、しかし真剣に語り尽くした執筆指南本だ。具体的な文章術も含むものの、どちらかというと書くことそのものへの考え方や姿勢についてのエッセイで、「書きたい」人間のモチベーションに効く。

私ももちろん「書きたい」人間である。が、ここ最近は出産予定日直前ということもあり流石にままならない。そこでそのフラストレーションを、この手の本を読むことで解消しているのだ。ときめきに飢えている女性がハーレクイン小説を読むようなものである。

数年ぶりに読み返すと、やはり前とは違う場所が印象に残るものだ。そのうちのひとつが、「才能と練習」にまつわるエピソードだった。

キングの息子のオーウェンが、まだ7歳だったときの話である。彼はあるバンドに夢中になり、サックスを演奏したいと望んだ。キング夫妻はそれを才能の萌芽かもしれないと感じ、テナーサックスを与え、レッスンに通わせることにした。

しかし、一年も経たないうちにキングは息子にサックスの才能はないと判断し、その練習を切り上げさせた。オーウェンの方も、自分からは言い出せないでいただけで、その判断に安堵した様子だったという。

さて、ここでキングはなぜ「息子に才能はない」と判断したのか。

演奏が下手だったから? 
記憶力や、楽譜の理解がおぼつかなかったから? 
一切練習しなかったから? 

いずれも違う。

オーウェンが、「講師が指示した分の練習しかしなかったから」である。

彼は言われた通りの練習をしたが、それ以上余分に、手元にあるサックスに触ろうとはしなかった。サックスの演奏は七ヶ月の間、少年にとって「練習」の地位にとどまり続けた。

その様子を見てキングはこう考えるのだ。「これでは成果は出ない。楽しくなければ、やらない方がいい。もっと才能があり、もっと楽しめる道に進んだ方がいい」。

前にここを読んだときどう感じたか忘れたが、今回読んでみて「たしかにそうだよなあ」と思った。

上手いか下手かが才能の有無を示すのではない。「それがもはや『タスクとしての練習』ではなくなる忘我の時間を、自ら能動的に創り出せるか」が才能を示すひとつのシグナルなのだ。

もちろん「指示された分」のそもそもの量にもよるかもしれないし、最低限の「練習」しかしなくてもメキメキ伸びてしまうほどの才能を持っていたらそれはそれで話が変わってくるだろう。小さな子の習い事について、7ヶ月での判断は早すぎるという意見もありそうだ。ただおおまかに見れば、キングの判断の仕方には妥当性があるように思える。

少なくとも、やろうと思えばいつでもやれる状態なのに「言われた分」しかやらないでいられる時点で、対象のことをそこまで好きでないということは言えるだろう。そして「そこまで好きではない」のであれば、技術の向上もスローになる。講師の技術から余すところなく学び取ること、自分の現在地を正しく探り理想とのギャップを直視すること、いずれも「好き」に支えられている場合とそうでない場合とでは、その勢いに雲泥の差が生じるものだから。

自分の場合はどうだっただろう。

「指示された以上の練習をしなかった」ものならいくらでも考えつく。

たとえば習字がそうだ。私は小学1~2年生のときから少しだけ近所の書道教室に通わされたが、これはもうとんでもなく合わなかった。私は昔も今も悪夢のような悪筆なのだ。家で練習するなんて考えられず、一年ももたないでやめたはずである。

一方、私と一緒にぼんやりと教室に通い始めた妹は逆だった。教室自体は数年でやめたものの、その時点で相当高い段位に達していたくらい達筆だったし、やめた後も家でしょっちゅう紙を広げては美しい字を書いていた。後で聞いところ「楽しいんだよね。ストレス解消になるし」とのことだった。とても私の血縁者だとは思えない。

他でいうと、ピアノや絵画や将棋。いずれも楽しく触りはしたが、「頼まれてもいないのにやりまくってしまい、それが自動的に練習になっていた」という境地には行き着かず終わった。

習い事系でないもので言えば、ファッションや化粧もそれに当てはまるかもしれない。

私は「必要だから」情報収集をしたり頑張ってものを選んだりするのであって、すでに塗るものがあるのに余分な口紅を増やしたり、出かける用事もないのに服をとっかえひっかえするようなことはあまりない。でも私の友人の美容オタクたちは、「気になる」という理由一つでどんどんコスメや服を買い、それをつけた自分を見たいとか、もっといい感じにしたい一心で繰り返し化粧したり着飾ったりしているのだ。これなんかも、立派な才能の現れの違いのような気がする。


「勝手にどんどん練習してしまった」方はどうだろう。

すぐに思いつくのはやはりアルゼンチンタンゴだ。30過ぎてダンス未経験なのにタンゴにハマったときは、あまりに楽しくて、毎日飽きず家の廊下で歩きやヒーロの練習をし続けていた。

自分ではただ、「初歩的な練習だけでも楽しいなあ」と思ってやっていただけなのだ。でも教室に通い始めてしばらくしたタイミングで、先生にこう言われた。

「みきさんて家でかなり練習してるよね。レッスンで新しいことを教えると、その回ではそんなに変わらないのに、次にレッスンに来たとき絶対何かが上手くなってるもの」

そうか、上手くなっているんだ! という驚きと喜びで、ますます練習が楽しくなったのは言うまでもない。もちろんスタート地点が地点だからそう高いレベルに達するわけではないのだが、そんなこととは関係なく、たしかに「タンゴを楽しむ才能」には恵まれていたのだろうと思う。

他だとピラティスもそうだし、昔は武道もその枠だった。一人で身体を動かすことについては、そういうのめり込み方をしやすいかもしれない。

あともうひとつ、「読み書き」もそうだ。多分。

考えてみれば、この人生において本を一日にこれだけ読めとか、何時間書けとか言われたことなんて一度もない。でも気がつくと家の中には本が増えているし、いつも何かについて「これをどう書くか」と考えている。ライター仕事があってもなくても何か書いてしまう。今だって、誰の要望もなく一銭にもならないのに、書く勘を失いたくないばかりに無理矢理noteの更新なんぞしている。いつもモーツァルトの如く天にも登る楽しさで書いています、とはとても言えないものの、「頼まれていないけどやりたくなってしまう程度には好き」なのはたしかだ。

自分に「素晴らしいものを書く才能」があるかはわからない。でも「書くことを手放さない才能」なら少しあるかもしれない。

だから救われるというものでもないけれど、少なくとも自分以外の誰かに「もう潮時だ」と宣告され、ペンやキーボードを生涯にわたり取り上げられるということはないんじゃないかと思う。たとえ相手が赤ん坊であっても。


そこまで考えて、勝手にキングに励まされた気持ちになる午後だった。

才能は練習の概念を変える。どんなことでも、自分に才能があるとわかると、ひとは指から血が出たり、目が飛び出しそうになるまで、それに没頭する。聞いている者や、読んでいる者や、見ている者がいなくても、それは素晴らしいパフォーマンスになる。ひとはクリエーターとして幸せになる。(略)心ゆくまで読んだり書いたりすることに後ろめたさを感じている方がいるとすれば、私が今ここで許可を与えるので、どうかご心配なく。

スティーヴン・キング『書くことについて』
(小学館文庫新版・P199~200)

読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。