ただの日記

久しぶりに日記でも書いてみようと思う。なにかを継続することは、とてもむずかしい。でも、つづけてきた「習慣」をいったん手放してみる、やめてみることもときに必要ではないかと思うのだ。

当たり前にやってきたことを、みなおしてみる。すると、「これ、あってもなくても、どっちでもいいな」って当たり前なことに気づく。あたらしい刺激を人生のなかにとりこんでみるのもいい。まだ話したことがない、「ちょっと怖いんだけど、気になっている」そんな人に声をかけてみる。すると、意外な一面が知れて、はなしが盛り上がり、気がついたら仲良くなっていた、なんてことはないだろうか。

文章を書くこともおなじ。なにかを書きつづけるには、書かないと「いけない」環境に身を置くのではなく、逆に、書きたいとおもえる、そんな(自分を刺激してくれる)環境をつくることの方が大事だ。なにかのついでに書く。メモをとるように。小さな隙間をうめるみたいに、かきとめておく。はじめは、140字以内におさまる文章がほとんどだとおもう。でも、そのうち、書ける文章の幅はひろがっていく。誰だってさいしょは、うまくいかない。けど、つづけてみると、ふしぎと書けることがふえていく。

うまくある必要はない。下手であってもいい。とりあえず書いてみるってことを続けていきながらフィードバックをもらい、じぶんのスタイルを構築していけばいい。グルグルまわしてみると、よけいなものがついてくる。それは、もしかしたら人を傷つけるような暴力的な言葉かもしれない。でも、わたしはそういった「痛み」からも、新たな価値がつくれるのではないかと思う。日常的なこと、些細なこと、なんだっていいとおもう。自分にとってSNSとは、生きる苦しみをやわらげる救いでもあり、見ず知らずのひとと交流する一つ、居場所のようなものだ。

誰もがみて「カッコいい」と思えるような存在になれなくたっていいと思う。格好はつけられなくたっていいし、つける必要も、ぼくにはないのかもしれない。ありのままでいいと思う。それが、自分らしくて、なんだか腑に落ちる答えだった。いいひとになろうとせず、いい人生を歩もうとせず、わたしはわたしのまま、ただ生きられたら幸せだなって思う。たとえそれが、なにかにたいする復讐だったとしても。死ぬときぐらい、最後は笑ってチャラにしたいな。

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