生きづらさを手放す為に、自分と向き合う時、陥りがちな思考として、 これまで自分は逃げていた、 でも、もう決めた、 決して目を逸らさない、 正面から堂々とぶつかって、掴み取るんだ! といった心境になりがち、です。 長く続いた苦しみに終止符を打とうというのですから、力も入ります。 その意気や良し、として、 確かに、行きづらい人が自分と向き合う、ということは、見たくなくて目を逸らしていた事に対峙する事になりますから、決断、は必要です。 恐れる事無く真実を見つめるんだ
ポジティブが良いことで、 ネガティブは悪いこと、 という切り分け方に執らわれている人は、少なく無い様に思っています。 陽キャが良くて、陰キャは良くない、などと単純な考えは持っていない、 と言う人の中にも、 半ば無意識に、ネガティブな感情を持つことは、悪、という分け方をしている場合が有る様に感じています。 自分の言動に感情や思考が引っ張られるのは確かですし、 他者をも巻き込む事さえありますから、 ネガティブな表現を控えて、 ポジティブな言葉を発したり、 ポジティブ
例えば、「宿題しなさい!」と言われたら返って、やる気、が無くなって、「今やろうと思ってたのに」という小さな不満が湧き上がります。 人は、自分で決めたい生き物なのです。 どうして自分で決めたいのか、というと、 人が動く時の主立った原動力は、 ポジティブな力である、【純粋な興味、関心、好奇心】か、 ネガティブな力である、【恐怖心、反発心、怒り】の二種類であり、 人はポジティブな動機によって動く時には気分が良く、 ネガティブな動機に由来する行動は気分が悪い、のです。 野
健康的な心を持つ親は、反抗期を迎えた我が子に手を焼きながらも、その反抗を子供の成長の証しと捉えます。 娘から「お父さんの汚れ物と私のは分けて洗濯して!」と言われたらショックですし、 息子から「うるせーな」と言われたらカチンとも来ます。 お父さんのお嫁さんになりたい、と言っていた娘が、たった数年で自分を、キモい、と言い、 キャッチボールをして、お父さんスゴい!と憧れの眼差しを隠さなかった息子が、今度は自分に対して、ウザい、という感情を露わにする訳です。 キモいし、ウザ
自分は自分、他人は他人、 物理的に、目で見て、触れて、そんなことは誰もが分かっています。 しかし、心理的には、自分と他者の区別がついていない人は、 とても多い、と思っています。 そして、自分と他者の区別がつかないことは、生きづらさに直結します。 社会的な生き物である私達人間は、他者との関わりの中で生きています。 心理学者アルフレッド・アドラーの言葉を借りるまでも無く、 人の悩みは、人間関係である、と言い切っても良いぐらいに、人は他者との関わり合いに苦悩します。
機能不全家庭に生まれ育って、 生きづらさを抱えてしまった人が、 生きづらさに気がついて、 その生きづらさを手放そうとする時、 自分と向き合います。 自分と向き合うこと無しに、生きづらさを手放すことは出来ません。 生きづらさを手放す事は、 自分と向き合うことが始まりであり、 自分と向き合うことが全てでもあると思っています。 しかし生きづらい人にとっては、 自分と向き合うことは、そんなに易しい事ではありません。 怖いからです。 幼い子供は、徹底的に無力です。 親が
もう15年程前になります。 私は当時、東京に住んでおり、事業に失敗して経済的にも精神的にも、どん底の状態にありました。 結果としては、この時のいわゆる、底打ち体験、があったから、自分と向き合うことが出来、 長く背負って歩いた、生きづらさ、を背中から降ろすことが出来た、と今は思っていますが、 当時は、苦しさの最中に在りました。 そんな時、同じく苦しみの最中でもがいている一人の男性と出会いました。 何かが引き合う様に、人がひしめき合う東京で、ひと月程度の短期間に偶然に
機能不全家庭に於ける親子関係は、 心理的には逆転しています。 確かに物理的には、 親が子を養育しています。 ご飯を与えるのも、服を買い与えるのも親ですし、住まう家も親が建てたか買ったか、賃料を親が支払っているか、です。 機能不全家庭だからといって、物理的には、健やかな家庭と何ら変わるところはありません。 だから、他所から見ると、機能不全家庭は、健やかな家庭と見分けがつきません。 むしろ、機能不全家庭の親は、総じて世間体を過剰に気にしますから、外から見ると、ちゃんとし
自分で自分を罰する人も、 他人を罰する人も、 原因は、心の中にべったりと張り付いている、「自分は無価値だ」という思い込みです。 その無価値感の重さに耐えかねて、その場にうずくまってしまえば、自分で自分を嫌い、自分を責め、自分を罰する人になります。 自分を罰する人は、心が晴れることがありません。 ただそこに存在するだけで、自分は無価値だ、という感覚に支配されているのですから、心が晴れる筈がありません。 いつも、引け目、を感じて生きています。 自分で自分の価値を値引き
宿題を忘れて先生から怒られる、 仕事でポカをして上司から叱られる、 待ち合わせに遅れて恋人を怒らせてしまう、 生きていると、責められる場面は沢山あります。 誰もが出来ることなら、責められる様な場面は当然避けたいものでしょう。 自分を責める相手が先生なら、上司なら、恋人であれば、 言い方は悪いかも知れませんが、嵐が過ぎ去るのをじっと待てば良い訳です。 過ぎ去らない嵐は無いのですから、自分に明らかに非が有るなら、大人しく待つしか無いでしょう。 しかし、自分を責める相手
社会通念に照らして、ちゃんとしていない人を見て、「甘やかされて育ったんだな」などと言います。 例えばその、ちゃんとしていない人、が会社員だとしたら、 遅刻癖があったり、社会人としての最低限のマナーや、心構えに疑問符が付く時に、「甘やかされて育った」と言われてしまいます。 その人の、依存心が強かったり、責任感が薄かったりという面が目立つ時、周囲はその人を、 精神的に大人になれていない、と評価して、甘えている、と思う訳です。 実際、オフィシャルな場所にそぐわない行いが目立
「どうせ自分なんて」 という思考に執らわれた事はありませんか? その想いに執らわれている限り、おそらく物事は好転しません。 とても簡単ですが、とても大事な、心の在り様を知る、自己診断の基準、だと思っています。 「どうせ自分なんて」と思ったその時、 その人はネガティブな世界に立っています。 ポジティブな世界に身を置いていたら、その感じ方をすることは無い、のです。 他人に表明することは少ないでしょうが、 これまでの人生で度々、心の中で「どうせ自分なんて」と感じている人、
「毒親」という言葉を私は、積極的には使いません。 noteのハッシュタグに「毒親」と入れる事があるのは、世間一般に広く認知されている言葉なので、目にとめて頂き易いでしょうし、初見の方にも記事の内容が推測し易いだろう、と思ってのことです。 「毒親」という言葉を、積極的に使わない理由は、 生きづらさ、に気がついて、生きづらさを手放そうとする人が、自分と向き合う時、 説明不要なほどにキャッチーでインパクトも強いワードであるが為に、 親を憎む方向に、突っ走るキッカケになって
「私は毒親でしょうか?」 そう尋ねるお母さんは少なくありません。 私は「毒親」と言う言葉は理由があって極力使わないのですが、 問い掛ける、苦しむお母さんは、大半が冒頭に記した様に「毒親でしょうか?」と尋ねられるので、今回はそのまま使いました。 何故、その言葉を使わないのか、は、別記事でお話ししようと思っています。 結論から言いますと、本当の意味での毒親であれば、自分は子供にとって良くない母親なのではないか?と言う疑問を持ちません。 だから、思い悩む時点で、そのお母さ
得体の知れない重々しい気持ちを引きずったまま、人生を歩いた果てに、 その重々しい気持ちこそが、生きづらさである、と気がつく人がいます。 その原因が、幼少期の親子関係にあるのではないか、という事まで見通す人がいます。 その人は、生きづらさの原因となった親子関係しか知らないのですから、自分一人で、そこまで辿り着くには、とてつもない苦しみや、寂しさ、虚しさを味わった筈です。 とてつもなく苦しかったから、自分の心の在り様を、探り始めたのだと思います。 そして、その人は、幼少
世の中には、優しい人もいますが、ズルい人もいます。 そしてズルい人は、自分が抱える無価値感を解消する為に利用し易い相手を的確に探し出します。 これは、ズルい人は、カモに出来る相手をいつも物色しているからですし、 ズルい人は、やはり騙す人、欺く人に囲まれる親子関係や人間関係の中で育ち、 慣れ親しんだ環境で、触れた事があるタイプを、言わば匂いや、肌感覚で見つけ出します。 ズルい人と、利用される人は同じコインの表と裏です。 どちらも、否定され、拒絶され、利用される環境に