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生きづらさを手放すことは、自分と仲直りすること

生きづらさを手放す為に、自分と向き合う時、陥りがちな思考として、

これまで自分は逃げていた、
でも、もう決めた、
決して目を逸らさない、
正面から堂々とぶつかって、掴み取るんだ!

といった心境になりがち、です。 

長く続いた苦しみに終止符を打とうというのですから、力も入ります。 

その意気や良し、として、

確かに、生きづらい人が自分と向き合う、ということは、見たくなくて目を逸らしていた事に対峙する事になりますから、決断、は必要です。

恐れる事無く真実を見つめるんだ、という、決断、は必要です。

しかし、ありったけの勇気を振り絞った、決断、が進むべき方向をズラしてしまう場合があります。

その方向とは、これまでの自分と、戦う、方向です。 

戦って、変化を勝ち取る、ということは、自分を真っ向から否定する事になってしまいます。

戦えば戦う程に、抗えば抗う程に、自分を否定してしまいます。

変化を求めることは、今の、そして今までの自分を否定する事になってしまいます。

大変な決断をしたのですから、是が非でも、という気持ちになる事は、当然ですし、強い気持ちは必要です。


しかし、ここで、生きづらさ、とは何か、ということを今一度、考えてみて欲しいのです。

生きづらさ、を分解してみたなら、

心に確かな【自分】という意識が育っていないこと、

自分と他人を分ける感情の境界線が極めて曖昧であること、

自分は無価値である、という信念にも似た、思い込み、を心の内側にべったりと貼り付けてしまっていること、

などなど、沢山の要素がありますが、それらをひっくるめて、

「そんな自分を嫌っている」

ということに尽きます。

つまり、

生きづらさ、とは、自分を嫌ってしまった状態、です。 

ということは、生きづらさを手放す、とは、

これまで嫌って、冷たく接していた、自分と仲直りする、という事です。

仲直りするには、どうしてそうなってしまったのかを、腑に落とすことが必要なのです。

何故、生きづらい自分になってしまったのか、
それには、理由があります。
そうならざるを得なかった苦しみの、訳、があります。

その訳をわかってあげられるのは、自分しかいません。

苦しみ抜いた自分と戦おうなんて、方向が間違っています。

自分が自分の一番の理解者になるんです。

その為に、見たくない過去を、今初めて見据えて、腑に落とすのです。


腑に落ちたなら、次の様に言えます。 

いや、言わずには居られません。

そうか、そんな事があったんだから、人に優しくなんか出来ないよね、
人を信じる事が出来ないね、
人が怖いし、憎いよね、
苦しかったね、辛かったよね、
今までわかってあげられなくてゴメンね、
でも、もう大丈夫だよ、
キミ(自分)の一番の味方はボク(自分)だからね、
ボク(自分)はキミ(自分)が大好きなんだ、

仲直り、しようね。


毛恥ずかしいとか、馬鹿馬鹿しいとか、感じる様であれば、

自分の苦しみをわかってあげる事が出来ていません。

奥歯をギリギリと噛みしめる程の悔しさを、
泣くことすらも禁じられた苦しさを、
解ってあげられていません。

苦しみを解ってくれない人と、自分、は仲直りなどしてくれません。

全てが腑に落ちて、心からこう言えた時が、

生きづらさを手放すことの、ゴール、です。

勿論こう言えてから、自分が主人公の自分の人生、が始まりますから、

このゴールすら、人生に於いては通過点ではありますが、

紛れも無く、苦しかった第一章のフィナーレです。



今、実年齢が何歳であっても、自分が嫌ってしまった、自分、は幼いままです。

仲直りは、50歳でも、60歳でも何歳でも出来ます。

仲直り出来る、ということは、
生きづらさを手放せる、ということですし、
自分が主役の人生を手にすることが出来る、ということです。


目を閉じたまま、生きづらさ、を生きるのも間違っていませんし、
生き方に、善悪、正誤、優劣はありません。

ただ、生きづらさを手放したい、と願うなら、自分と向き合い、全てを腑に落とし、嫌っていた自分と仲直りすることが、人生の第一章のフィナーレです。


変化を求めれば、自分を否定する方向に進みます。

変化は、求めれば離れ、
無条件に受け容れた時に、訪れます。

戦えば、仲直りは出来ません。

自分で自分を無条件に受け容れた時、

生きづらさは溶けて流れます。


それが、

人生の第一章のフィナーレであり、

第二章である、望む人生の始まりです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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