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【日露関係史17】エリツィンの対日接近

こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第17回目です。

前回の記事はこちらから!

1991年12月25日、ゴルバチョフ大統領が辞任したことでソ連は解体し、ロシア連邦が独立します。新生ロシアの指導者となったボリス・エリツィンは、急進的な西欧化・民主化・自由主義化を進めるうえで、世界第二位の経済大国であった日本との関係を重視するようになります。今回は、90年代のほぼ全般に渡るエリツィン時代の日露関係について見ていきたいと思います。

エリツィン時代のロシアについては下記の記事でも取り上げています。興味のある方はご覧ください。


1.エリツィンの対日姿勢

エリツィンが日本を初めて訪れたのは1990年1月、まだロシア共和国人民代議員だったときのことです。この滞在中、エリツィンは北方領土問題を五段階で解決するという「エリツィン・プラン」を発表し、注目を浴びました。これは日ソ間に領土問題が存在することを承認する内容となっており、「北方領土問題は解決済」という姿勢を崩さないゴルバチョフ政権の見解と比べ、かなり前向きなものでした。

ボリス・エリツィン(1931-2007)
ウラル地方出身。共産党の地方エリート官僚として頭角を現し、ゴルバチョフ書記長によってモスクワへ引き抜かれる。その後、人民代議員、ロシア共和国最高会議議長を経て、ロシア史上初の民選大統領に就任する。
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5377890

エリツィンの訪日と日本への歩み寄りの背景には、ソ連大統領ゴルバチョフへの対抗意識がありました。エリツィンはロシア共和国の存在をアピールすることで、日本からの経済援助を取り付けようとしたのです。1991年7月にロシア共和国大統領に就任したエリツィンは、同年11月に「ロシア国民への手紙」を発表し、その中で、将来において解決しなければならない問題の一つに「日本との関係における最終的な戦後処理の達成」があると述べ、「日本との間に平和条約がないために両国関係が事実上凍結しているという状態に今後とも甘んじていくということは、許し難いことである」と述べました。

しかし、日本に対する態度と裏腹に、ロシア国内では北方領土を返還しないアピールもしています。例えば、1990年8月の国後島訪問後には、島を返すべきではないという考え方に変わったと報じられたり、1991年4月のゴルバチョフ訪日の際は、北方領土問題に関して日本に妥協しないよう圧力をかけたりしています。エリツィンにとって重要なのは日本からの経済援助であり、北方領土問題はその取引材料に過ぎなかったのです。

2.国内の混乱と訪日延期

1991年12月25日のゴルバチョフ辞任と共にソ連は解体し、ロシア連邦が独立、エリツィンは初代大統領に就任します。就任共和国ら、エリツィンは訪日に強い関心を示し、翌92年1月の国連総会では宮澤喜一首相と会談し、同年9月に訪問することを約束しました。

さらに3月には、先立ってアンドレイ・コーズィレフ外相とゲオルギー・クナーゼ外務次官が訪日し、外相定例協議の後、平和条約を締結後に歯舞・色丹を返還し、その後日露関係の推移を見て択捉・国後について協議するという提案を行います。この「コーズィレフ」提案は、領土問題解決を次世代に託すという先の「エリツィン・プラン」よりもさらに前向きな姿勢を示したものでした。しかし、渡辺美智雄外相が択捉・国後に対する日本の潜在的主権を認めるよう迫ったためロシア側が反発し、この提案は流れてしまいました。

宮澤喜一(1919‐2007)
第78代内閣総理大臣。コーズィレフ提案に対し、「解決するには潮時があり、解決する時は今である」と早期解決をにおわせる発言をしたが、外務省が拒否を決定したという。なお、日本政府は提案があったこと自体認めていない。
 CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=77213031

7月下旬、北方領土問題に関する非公式公聴会がエリツィン訪日準備員会とロシア最高会議の主催で開催されます。この公聴会では激論が交わされ、軍部、北方領土を管轄するサハリン州、水産業界などの代表は返還に断固反対を表明しました。この公聴会を機に北方領土問題は政治問題化してしまい、愛国主義者、民族主義者、共産主義者たちは結集し、「祖国の領土を金で売り渡すな」エリツィンを非難しました。

ワレンチン・フョードロフ(1939‐2021)
サハリン州知事。自身の政治的基盤を強化するため、北方領土返還に強い反対を表明した。
Fair use, https://ru.wikipedia.org/w/index.php?curid=8657082

こうした国内情勢を受け、エリツィンは訪日延期を決断します。しかし、この決断は訪日予定日の2日前と、外交儀礼に反するドタキャンとなり、上向きかけた日露関係に冷や水を浴びせることになります。

3.東京宣言

1993年10月11日、エリツィンはついに日本を訪問します。国内で大統領と議会との対立が最高潮に達したロシア最高会議ビル砲撃事件の直後でしたが、政権の安定を国際社会にアピールし、延期を繰り返すことで日本との関係悪化を回避するため、訪日を強行したのです。

エリツィンと細川護熙首相との会談は2つの成果を上げました。1つは、エリツィンがシベリア抑留に対して正式に謝罪したことです。ゴルバチョフは「哀悼の意」を表明するにとどまりましたが、エリツィンはそれをさらに一歩進めたのです。そして、もう1つは、「東京宣言」の調印です。この中では、日ソ間のすべての条約や国際的約束が日露間においても有効性であることが確認されるとともに、北方領土問題の存在が確認され、北方領土問題を解決し、平和条約の早期に締結に向けて交渉を継続することが明記されました。

東京宣言に調印するエリツィンと細川首相
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=129315652

東京宣言とともに、日露経済宣言も調印され、北方領土問題の進展に合わせて経済協力をしていくという「拡大均衡の原則」に基づいた経済協力の方針が定められました。さらに、東京宣言には日露安保対話の活性化も盛り込まれ、ロシア太平洋艦隊の退役原子力潜水艦の解体日本が協力する協定も調印され、軍事面での日露の関係強化も図られました。

4.クラスノヤルスク会談

日露関係が次の局面を迎えたのが、1996年です。この年、ロシアの外相はコーズィレフから、日本との友好を望むエフゲニー・プリマコフへと交代し、日本でも、施政方針演説で対露関係の新たなアプローチを唱えた橋本龍太郎が首相に就任します。さらに、大統領二期目に突入したエリツィンが日本からの呼びかけに応じたことで、1997年11月、モスクワと東京の中間に位置するクラスノヤルスクにおいて、非公式の日露首脳会談が開催されることになりました。

橋本龍太郎(1937‐2006)
第82‐83代内閣総理大臣。後の「小泉改革」へとつながっていく内閣機能強化・中央省庁再編などの「橋本改行革」を掲げた。
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=77217288

橋本首相のとった戦略は、北方領土問題と経済支援をあえて直接絡めず、エリツィンとの個人的信頼関係を構築した後に、領土問題を解決するというものでした。日本が提案したシベリア・極東のエネルギー資源開発に対する協力などは、まさにエリツィンの渇望するものであり、強い関心を示しました。また、エリツィンの方も「西暦2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」という提案を行い、橋本首相も合意しました。

こうして、エリツィンの任期が切れる2000年半ばまで、北方領土問題とは直接関連させることなく、対露経済支援を行うという内容の「橋本・エリツィン・プラン」が結ばれます。クラスノヤルスク会談以降、日露関係は急速に接近し、サハリン沖の大陸棚の天然ガス開発プロジェクト「サハリンⅡ」へ大規模融資が行われ、北方四島周辺における日本漁船の操業が開始し、ロシア海軍と海上自衛隊による合同救難訓練が行われるなど、防衛交流も活発化しました。

アドミラル・ヴィノグラードフ
ロシア太平洋艦隊の駆逐艦。1997年6月、ロシア艦隊の公式訪問としては103年ぶりに、東京の晴海に寄港した。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4428655

5.モスクワ宣言

1998年4月、今度はエリツィンが来日し、静岡県伊東市の川奈において、橋本首相との第二回非公式会談に臨みました。川奈会談では、今度は橋本首相が大胆な提案を行いました。それは、ロシアが北方四島に対する日本の主権を認めれば、日本は四島の即時返還を求めずロシアが一定期間施政権をもつことを認めるというものでした。エリツィンはその見返りに大規模な経済援助が得られることに強い関心を示し、今にも「ダー(イエス)」といいそうになったそうです。

川奈でのエリツィンと橋本首相
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=129315707

1998年1月、小渕恵三首相がモスクワを訪問し、エリツィンと公式の日露首脳会談を行いました。しかし、この会談では、先述の「川奈提案」に対してロシア側から回答が来ましたが、それはまず平和条約を結び、国境線画定は将来別条約で行うというものでした。さらに、「西暦2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」というクラスノヤルスク合意の内容も、実現できないと伝えられました。

モスクワで会談するエリツィンと小渕首相
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=129315719

なぜロシア政府はこのような回答をしたのでしょうか。それは国内事情が大きく関係しています。まず、エリツィンの健康が悪化し、強いリーダーシップを発揮できなくなったこと。次に、日本に譲歩すれば、経済危機によって高まっていた政権批判の声がますます大きくなる可能性が高かったこと。そして、領土の割譲は、再燃したチェチェン共和国の分離独立運動に悪影響を及ぼす可能性があったこと。これらの要素から、エリツィン政権は北方領土問題に関して厳しい態度をとったのです。

会談後に発表されたモスクワ宣言には、国境画定委員会の設立や、歯舞群島の旧島民やその家族が大幅に簡素化した手続きで出入域できる「自由訪問」の枠組みが設けられることなどが定められました。しかし、領土問題解決は棚上げとなってしまいます。2000年までの解決を目指し、日本側はその後も必死に食い下がったものの、1999年12月、エリツィンは辞任を表明してしまい、結局、実現することはできませんでした。

択捉島での墓参の様子(2008年)
北方領土訪問時のビザの発給やパスポートの携帯は、北方四島に対するロシアの主権を認めることになるから、日本政府はビザ・査証なしでの訪問を要請している。
CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=95045083

6.まとめ

エリツィン時代は、ソ連時代と異なり、両国間に領土問題が存在することが認められ、サハリン沖の天然ガス開発への参入などの経済協力も進み、また、ソ連時代は考えられなかった防衛交流も活発化するなど、日本とロシアが大きく接近した時期でした。こうした中、北方領土問題が解決するのではないかという期待が高まりましたが、結局、解決を見ませんでした。これは、反エリツィン派によって北方領土問題が政治問題化してしまったこと、ロシア国民の民意も返還反対が大半だったことに加え、エリツィンが返還に乗り気ではなかったことに求められます。エリツィンにとって、北方領土問題とは日本から経済支援を引き出すための「打ち出の小槌」に過ぎなかったのです。エリツィンの退任と共に、領土問題は21世紀へと持ち越されることになります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

日露関係通史については、こちら

北方領土問題については、こちら

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千島列島をめぐる日露の歴史については、こちら

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