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◆第三章「双頭の鷲」 前半（P. 73～）

　何事においても激動型の変化を遂げる傾向のあるボリスは、気が付くといつの間にか別人のようになっていた。
　まず、父親レフ氏に対する態度が一変した。これまでは子供なりのプライドや意地から、ときに父親や長男アナトリーと激しく衝突してきたボリスだったが、感情任せに反抗心を剥き出しにするのは要領が悪くて非生産的だと、ある時ふと思い至り、家庭専用の無我な仮面で余計な揉め事を回避するようになったのだ。本音という本音を徹底的に押し隠して。
　家庭の中にいる間、ボリスはもう何を言われようと、どう冷遇されようと、顔色一つ変えずに受け流すようになっていた。その手応えのない反応を受けて、あれほどボリスを目の敵にしてきたレフ氏も、ボリスに拳を振り下ろす機会が激減した。どうやら彼は、自分の教育がようやく実ってボリスの自我や個性が削がれ、自分の価値観の枠組み内に収まる存在へと、うまく改造・・できたものと思ったらしい。だからと言って褒め称えたり、二人の兄たちと同等に扱ったりするわけではなかったが、ボリスにとっては、父親の暴力による無駄な消耗を軽減できただけでも、大いなる進展と言えた。
　また、勉強面でも大きな変化があった。どれだけ厳しく教育しても成績の上がらない息子に、さすがのレフ氏も半年ほど前から匙さじを投げ、期待という期待をやめて見放していたため、皮肉にもボリスに学業における自由が巡ってきた。父の干渉から解放されたとき、ようやく勉強というものが、やり方次第では意外と楽しめるものであることに気が付いて、ボリスはそれまで芸術かサッカーだけに投じてきた情熱と集中力を勉強にも傾けて没頭し、ある時期からぐんぐんと成績を上げていった。それも、いかにも彼らしく目を疑うような躍進ぶりで、アレクセイと１，２位を競い合うような優等生に転身したのだ。
　アレクセイはまさか、あれほど重度の勉強アレルギーだった彼が、自ら一番前の席を選んで授業に聞き入り、好奇の目を輝かせて学習する姿を見る日が来ようとは、想像もしていなかった。その姿が、似ても似つかないと思っていた彼の２人の兄たちと重なり、初めて血の繋がりがあることを感じられたほどだ。
　もちろん、驚いたのはアレクセイだけではなく、ボリスの家族や学校の教師や他の生徒たちも同じである。はじめのうちは一時の気まぐれだろうと軽く見られていたが、彼はその後も変わらず学習意欲を保ち、安定して好成績を取り続けていった。悪ふざけをして周囲の子供たちや教師を困らせるようなこともなくなっていて、何気ない日々の態度や表情にいたるまで “ できる人 ” のそれになっていた。 
　やがて、彼がかつて落ちこぼれ組に属する問題児であったことなど、人々の記憶から忘れ去られ、誰もが彼に一目置くようになった。
　見事に脱皮成長したそんなボリスが、ある日、思いも寄らない爆弾宣言をして、アレクセイを更に驚かせた。なんと彼は、出し抜けに
「俺は二度とサッカーをしない」
　と宣言したのだ。
　その一言を聞いたとき、アレクセイは俄にわかには意味を理解できず、絶句してしまった。彼がそんなことを言うはずがないと思った。試合や何かで大敗したわけではない。大きな怪我をしたわけでもない。つい前日まで、二人でいつものストリートサッカーに興じ、彼らしい冴えたプレーを披露していただけに、信じられなかった。本人の口から納得のいく理由を聞き出したくても、一切の未練をばっさりと切り捨てようとしているかのようなその決然とした口調を思うと、口を噤むほかなかった。
　当時はまだプロの選手ではなかったとは言え、すでにプロ顔負けの才能を発揮していたファンタジスタによるこの突然の引退宣言は、アレクセイにとっては衝撃的な事件の一つとして記憶に焼き付いた。何しろ、プレーし続けている瞬間瞬間にしか存在し得ない、彼の唯一無比のスポーツ芸術が、ほかならぬ彼自身の手で消滅させられてしまったのだから。
　いつもの「リョー、“ ナーシェ・ニェーバ （＝２人の空）” に行こう！」という声を聞くことさえ叶わなくなった空白の日々を、アレクセイはサッカースクールに通い詰めることで、どうにか凌しのいだ。実は、ボリスとは違って、子供にとっての遊びの重要性に理解のある父親に恵まれていたアレクセイは、数ヶ月前からスクールに通い始めていた。自分がそこでちゃんとした教育を受けておけば、それをボリスに間接的に伝授でき、技に磨きをかけられるだろうと考えてこその選択だった。それがまさか、主体であるはずの彼がサッカーから離れ、彼とサッカーを繋ぐ媒介に過ぎない自分が一人、惰性で通い続けることになろうとは……。
　取り残されたような気分だった。
「お前と話をしていると、無性にサッカーをしたくなるんだ」
　と言って、意欲を高めるためにこそ頻りにアレクセイにサッカー談義を求めてきたボリスが、何故そのアレクセイに向けてあんな発言を？
　何故 ───？
　部屋の中を落ち着きなく歩き回り、声ならぬ声でそう問いかけながら、アレクセイはふと、鏡の中の自分に目をやった。あちら側の自分と視線をあわせたまま、鏡の表面が自分の息で白く曇るほど間近に寄って、その対称の姿を覗き込む。
「はい、お父さん。あなたが赤と言うものは確かに赤です。はい、皆さん。僕は変わりました。余計な突起部分が取り除かれて平らになり、今は皆と同じ、世に必要とされる使える人間、、、、、です」
　そうせざるを得ない状況があるとはいえ、四六時中こうして仮面を被り、自分を偽り続けていたら、どうなるだろう？　思ってもいないことを語り、感情の裏付けのない表情を浮かべ、演技と見抜かれないため自分自身をも欺き続ける毎日。すっかりそういう人間のつもりになりきって、来る日も来る日も来る日も……。
　アレクセイの中で、耐えがたい思いが鉛なまりの塊かたまりのような重みを伴って膨れ上がり、胸を圧迫してきた。別人の顔を保ちながら自分自身であり続けるということの、なんという息苦しさ。流れに沿って川下に向かうと見せかけながら、後ろ向きに川上を目指すようなものだ。自分を押し流そうとする大きな流れのただ中で、絶えず水の抵抗を受けながら、背中向きのまま元の方角を見失わずにいられる者が、果たして何人いるだろうか。

　あれから宣言通り、ボリスはぴたりとサッカーをやめ、初等中等学校（小中高までをあわせた11年間の教育を一貫して行う学校）卒業後の進学先として、有名校への推薦の話を持ちかけられるまでになっていた。またそんな彼の周りには、かつてなら言葉を交わすことすらなかった色んなタイプの生徒たちが集まってきて、彼に憧れの視線を向けるようにもなっていた。
　おそらく、彼の現状に内心で抗しがたい喪失感を覚え、胸がざわついていたのは、アレクセイぐらいだったのだろう。一見すると理想的な大転身なのだから。現実を考えれば、狭き門の先にあるリスクの高い一本道よりも、安定性の良い広くて平らな道が、選択肢として複数開けている方が、安心感があるのは当然だ。
　しかしボリスは間もなく、本当に好きなことはそう簡単にやめられるものではないという現実を、身をもって思い知ることとなる。
　出会い初めの頃から続けている白樺の森での森林浴、ベリー摘みのついでに立ち寄る『秘密基地』と呼ぶ場所での廃屋探索、凍てついた川を２人で並走する天然リンクのスケート……。サッカーボール抜きで体感するそんな季節の移ろいを、ボリスはだんだんと生気のない虚ろな眼差しでやり過ごすようになってきた。アレクセイのすぐ隣で、何をやっても何を見ても、どことなく落ち着きのない不完全燃焼な雰囲気を醸かもしながら。
　やがて、抑圧したことでかえって反動を招き、人知れずサッカーに対する欲求が破裂寸前にまで膨れ上がってしまったボリスは、せっかく好調だった勉強まで手に付かなくなってきた。授業中、目線は教師や教科書に向いていても、頭の中では常にグラウンドを踏み締めていて、無数のプレーのパターンを思い描いていた。実際にその場でボールを操っているかのように、鮮明な感覚をともなって。
　ひどい場合は、想像上の自分の動きに合わせて、身体が勝手に揺れ動いてしまうこともあった。思わずガンと机の脚を蹴ってしまったときには、ボリスは慌てて、机の位置を整えようとしただけだという装いで周囲の目をごまかしたが、完全に禁断症状だった。
「リョー、やっぱりダメだ！　俺は救いようのないバカだ！　無理やり行動だけを制限したところで、寝ても覚めてもサッカーのことばかり……。丸いものが全部サッカーボールに見えるんだ！」
　幻覚まで見始めたとき、ボリスがとうとう音を上げた。かつてのままのいたずら少年の表情が、久方ぶりに戻ってきた瞬間だった。
「こうなったらもう、気の済むまでやり通すしかない。たぶん、いつかどこかに進学したり、手に職付けたりする日が来たとしても、俺の中ではあくまでサッカーが本業で、それ以外のことはすべて生活資金のためとか形ばかりの副業ってことになるんだろうよ。俺はなんて厄介な遊び人なんだ！」
　正確には、彼は将来サッカーという趣味を持つ大学生や社会人になるのではなく、生活資金のためにも社会的身分としても、また彼の言うところの『スピリット』としても、サッカー一筋の人間に成長していくのだが、この頃はまだ本人の知るところではなかった。
　とにもかくにも、ボリスは元通りのサッカー三昧の日々に戻った。誰よりも強く彼にその道をひた走ることを望んでいたアレクセイとしては、彼がようやく自らの情熱を打ち消そうとする無駄な抵抗をやめ、素直に継続する向きで諦観したことに、ホッと安堵を覚えていた。

　　　＊　　　＊

　サッカーへの情熱を取り戻したからといって、ボリスの学力が低下するようなことはなく、トップクラスの成績は維持されていた。相乗効果の類いなのか、冴えたボール捌きができるときは勉強も捗り、むしろバランス良く結果を出せるようになっていた。そしてそんなボリスの元に、自然と再びサッカー少年たちが舞い戻り、ボリス主導のストリートサッカーが完全復活した。
　一時の気の迷いで引退宣言をしたものの、すっきりと割りきりをつけて復帰した今、彼のストリートサッカーは、地元でちょっとした名物になっていた。どこでゲームを始めてもいつの間にか見物客が集まってきて、拍手喝采が巻き起こった。必ずしも同じ場所でやっているわけではないのに、どうやってかボリスたちの居所を嗅ぎ付けて、毎回観に来る常連客も出てきた。それも１人、２人と日に日に人数が増えていき、気付けば大所帯の固定ファンと化していたのだ。
　チームの仲間たちも、成長するにつれて知識を付け、サッカーへの理解がそれなりに深まってきたため、彼の才能がいかに並外れたものであるかに改めて気が付いたようだった。彼の芸術的なプレーを前に感嘆の溜め息をつきながら、皆口々にこう言った。
「すごい！　やっぱり君はすごいよ！」と。
　しかしボリス本人は、その言葉を聞かされる度に、内心もやもやと違和感を覚えていた。当時の彼には、一つ悩みがあった。今に始まったことではないのだが、彼はゲームの間中あまりに直感任せに動いているために、自分自身のプレーを意識の上では把握しきれない、という悩みがあったのだ。だから漠然と褒めちぎるのではなく、自分のしていることのどこがどう「すごい」のかを具体的に指摘し、欠点＝改善点をも含めて誰かに明確に分析してもらいたかった。ブレずにコンスタントに質の高いプレーを披露し続けるためには、自らの能力を意識的にコントロールできるようになる必要があり、それにはまず、好調のときに無意識に実現している自分のプレーの正体を把握する必要がある、というわけだ。
　しかし誰一人として、彼の閃き一つで生み出されるイマジネーションの産物に釣り合うだけの適切な表現が思い浮かばず、手応えのある意見・感想を語れなかった。当然と言えば当然だし、またもちろん、自分たちの実力が彼に遠く及ばないレベルなのに、本人に向かってそんなことを言う勇気は出ない、という側面もあっただろう。
　サッカーの話となると、相手が何者であろうと率直に意見できるボリスには、周囲のそうした態度が、自分のプレーを誰も本当には理解していない証拠、向き合おうとしてくれていない証拠としか感じられなかった。周りからの「すごい」という言葉さえ、それをごまかすための単なる決まり文句のように聞こえてきて、不安ばかりが増していった。
「俺のしていることの一体何がそんなに他と違うのか、全然わからない」
　この当時、ボリスの口から頻繁に聞かれた言葉である。時には、
「俺は所詮、ちゃんとした訓練を受けたこともなければ、正式の場での実践経験もない野育ちの球蹴りだ。素人目には面白いと映っても、見る者が見れば完成度の低い下手くその部類に違いない」
　と、教育や経験の欠如に対するコンプレックスを覗かせることさえあった。
　アレクセイの見る限り、彼はこれまでと変わらず、技術的な巧さについて評価されるよりも、ただ素直に「楽しい」「面白い」と言ってもらえるときの方が嬉しそうにしていると思うのだが、ギャラリーがこうも増えて、周りが騒がしくなりすぎては、その手の自意識と無縁でいられなくなるのも無理はなかった。
　彼は一度、他校で自分と同じように独自のチームを成している少年グループを見つけて、対戦を申し出たことがあった。そのチームの中心人物が、本気でプロの選手を目指しているというので、この人なら何か今後の為になる意見をくれるかもしれない、という期待があったのだろう。
　しかし、対戦を終えて、自ら評価を求めてきたボリスに対する相手の反応は、こうだった。
「君はいつかきっと、僕たちなんかには手の届かない存在になるよ」
　そう言った彼の目はすでに、ボリスを世界の異なる遠い存在と見なしていて、畏敬の念を込めた眼差しになっていた。
　何のごまかしもなく心底から零れ出たその一言は、ボリスにとっていくらかの自信には繋がったものの、言葉の上では「すごい」に多少色を加えて言い直しただけであり、期待通りとは到底言えなかった。
　ボリスはふと、マラソンをやっているときのことを思い出した。断トツ首位の状態で２位以下の選手の影も形も見えず、比較対象になる存在が近くに誰もいないまま独走し続けていると、自分が実際にはどれぐらいのペースで走っているのか、速いのか遅いのかということさえわからなくなってくる。やりきれないので、そのうち色々な感覚を麻痺させて頭の中を無にし、足が自動的にゴールへ運んでいってくれるまで、淡々と進み続けるほかなくなるのだった。

　だがサッカーにおいては、そうはならなかった。
　ボリスの不安が頂点に達した頃、その心境が伝わったかのようにタイミング良く、以前彼にユース入りを勧めたあのマヤコフ氏と再会することになり、改めてスカウトの声がかかったのだ。
　一度は自分で見送ったチャンスだが、今度は迷わず引き受けた。断る理由など、もはやなかった。

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