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明治維新は長州・土佐・薩摩の藩士が中心になって起こした、日本の近代国家への歩みです。世界一強く同じ島国のイギリスの成功を学び、国を立派にした。地方の藩には改革の思想を持つ知識者とそれを実現出来る情熱を持った武士がいた。しかしどの藩も維新を成功させるには財政難を解決する必要がある。

明治維新という大改革は薩摩藩主・島津斉彬の先見性や哲学があって実現されたのではないか。斉彬も英国の強さを分析して、欧米列強の植民地化も予測、明治日本の進路すら予言していた。斉彬の愛弟子が西郷隆盛である、西郷を庭方役に抜擢して集成館の化学工場や造船、反射炉等の建設をスタートさせた。

海舟の持論は攘夷の為の開国、海軍を整備・充実させて日本海軍を創るというものでした。龍馬は自らの進むべき道の具体策を示してくれた海舟と共に歩む事になる。具体的には海舟が徳川家茂に直訴して実現した神戸海軍操練所に隣接した海軍塾である。脱藩郷士・龍馬の次のステップは海軍の創設であった。

幕府きっての開国論者だった海舟に天誅を加えるべく、龍馬が切りに行く。すると海舟は龍馬を前にしてあぐらを掻いたという。地球儀を指しながら海舟の講義を龍馬は聞かされる、イギリスが世界一を誇る大英帝国となった理由を攘夷を否定せずに教えた。すると龍馬は海舟に平伏して、弟子入りを懇願する。

松蔭はペリー来航の時に、黒船に密航して失敗、江戸の獄に下り、長州に帰されて松下村塾を主宰する。刑死までの僅かな期間、門人を教える。最後は安政の大獄により斬首の運命を辿っている、享年30。松蔭の弟子に坂本龍馬という男がいる、江戸で西洋流砲術の修行をしている。勝海舟を生涯の師とした。

日本から父の手紙で、米国の東インド艦隊司令官のペリーが1853年6月3日に黒船4隻を率いて浦賀に来航。父は日本の本格的な幕末を示唆した、私は日本の改革が始まるのだなと理解した。米国との間に和親条約、3年後に通商条約が結ばれる。日本の近代化を推し進めた、長州藩士・吉田松陰がいます。

1850年太平天国が始まる頃、1840年に北京に訪中してから10年が経過していた。妻と結婚して子供も生まれ、アヘン戦争を経験、朝鮮日報へコラムも続けた。10年間の時代の流れとこれからの日中の近代化を本に纏めようと思った。妻に相談すると日本で西遊記を踊った事が忘れられないわと話す。

ヤムチャと一緒にいるプーアルがウーロンを見つけると、魔法学校で女の先生のパンツを盗んで退学になった奴だと話す。ヤムチャはそんな奴に悟空は何の様なんだと言う。空は灰色の雲に覆われて、大きな雨粒が降り始め、悟空がウーロンにそろそろ良いだろうと話した。ウーロンは変幻と呪文を唱えました。

私は犬の散歩中、火災で亡くなった男性の家の脇を通ると自宅が炎に包まれる瞬間を見た事を思い出した。男性は難聴の障害者で一人で生活するには困難があった。20年前商店夫婦が生活苦で自殺した時に、地域課題へ対応しないといけないのに今回も十分に対処出来ない。私は犬のリードを強く握りしめた。

欧米列強が清朝擁護にまわり太平天国の鎮圧に協力、その過程で清朝の権力構造にも変化が生じ、漢人地方官の影響力が強まり、中国の軍閥割拠へと繋がっていく。清朝の終わり、中国の近代化の社会変動に巻き込まれた農民の反乱のエネルギーはマグマの様に蓄積されて、1864年に滅亡する迄続きました。

私は彼のマネージメント会社から給料を頂くなら、ちゃんと仕事をするべきよ。今まで彼とも対話してきて、アイドル活動を支えてきた。彼と熊野古道を歩いた事も、彼の評価に繋がった、私は彼を癒したかった。私もアイドルが好きで、私の神に対して純粋に取り組める、これは本当にやりたかった事である。

近所では不幸な事件が続き、皆んな自分の生活を守るだけで精一杯である。悪く言えば他人に無関心で自分の事を自分でどうにかするしかなかった。時代に乗り遅れた者が福祉の目も向けられずに、生きていく事が困難になった地域で、私も将来の事を考えれば不安だったけど、生きる方法を模索し始めていた。

私は太平天国が西欧近代の影響を急速に受けた清朝の歪みを体現した農民の反乱だと思う。彼らの理想の都、ユートピアを実現しようとした。しかし読み書きも不十分で資金もない農民は中国の変化に巻き込まれるしかない。彼らにとって、近代がやって来ても良い事は一つもなくて、西欧諸国の青写真である。

地面は湿地帯で森の様になっていて、岩の山が連なって見えます。風が強く吹き抜けていて、どんよりした雲が空を流れていきます。まるで大地が風雲急を告げている様に見える。悟空はこの辺りだとブルマに告げ、ヘリを森の中に誘導する。悟空は2人に待ってろと言い、岩山へ行きウーロンと話しています。