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理不尽なことを言われたとき、今までの私は泣いて黙っていたけれど



「おはようございます」

 心の中で小さく言ってみた。

 私は会社の誰よりも早く出勤している。早く来ているといっても、先に仕事をしているわけではない。ゆっくりと上着を脱ぎ、伸びをし、大きく深呼吸をする。めいっぱいの欠伸をしながら、会社のケトルに電源を入れ、インスタントコーヒーの準備をする。窓の外を見れば燦々とした光が見える。それを独り占めし、表情筋の運動を自分なりにしてみるのだ。

 私が早く会社に着くようにしているのは、なにも「優秀」だからでは当然ない。むしろ自分の性格や性質と向き合い、理解してたどり着いた"僅かな答え"と言った方が近いだろう。


 10年ほど前、うつ病とパニック障害を患い、休職や転職を繰り返して私は生きてきた。会社に間に合うぎりぎりの時間で起床し、なんとか身なりを整え、電車に乗り込む。会社の最寄り駅が近づくにつれて涙が止まらなくなる日々だった。

 しっかりとした大きさの人間が、めそめそと泣いていたのだ。恥ずかしいことだと思うだろうか。電車内で私は誰かにどう見られているかなんて考える余裕がなかった。それなのに、会社に着き、仕事をしていると人の目ばかり気になっていた。私は無能で、邪魔者のような気がして、どんな自分の行為も肯定できなかった。

 そんな頃を何年も過ごし、心は削れ、休み、治ったような感じがし、また削れる。休まざるを得なくなり、生活のために治らないまま働き始め、傷は深くなり、を繰り返した。

 私は人の目が怖い。自分がどういう風に思われているか、自分がどういう存在としてここにいるのか。嫌われることを恐れ、ひどい劣等感を持っていた。

 だが今は誰もいない朝の社内で、ゆっくりとまずはひとりで過ごす。慣らしていくのだ。会社に行くのが怖くなった日は、むしろとびきり早く行った。どれほど呼吸が苦しくなっても、時間に余裕を持てるように。

 行動には何事も助走が必要である。この自分を理解するのに、どれほど時間を要しただろう。私の人生は寄り道や回り道ばかりだ。そして勝手に自分で道にベンチを設置し、よく休んだりもしてしまう。ただそういう自分を少しだけ"許す力"だけは、だんだんと備わっている気がする。


 だが私は変わらず自分を「弱い」と思う。いまでも些細なお叱りやご指摘で涙腺が壊れてしまう。人のわずかな感情の揺れ、表情の変化、目線、手先足先、空気、すべてを掴んでしまう。その中にはきっと妄想も含まれているだろうが、私は人の感情を吸い込みすぎてしまい、身体と心をわるくしながらよく溜め込んでいる。



 ・・・


「おはよう〜!」

 あるひとりの先輩が、朝私に挨拶をしてくれた。その日も私の中に違和感があった。ああ、きっと私は今日もよく思われていないのだろうなという感覚があった。この感覚はのちに的中する。いつもその人は、圧するように私の前に現れてくるような人だった。

 その人は最近他部署から異動してきた人だった。社歴は長いので、周りには交流の深い人が多く存在し、おおらかで、包容力もあるように見える。私も好きな人ではある。けれど、違和感は抜けきらない。そんな風に思う相手が、これを読んでくれているあなたの周りにも、ひとりはいるのではないだろうか。



「ちょっと来てほしい」

 ある日、私は他部署から来たその人に呼び出された。なんでしょう、と言いながら歩みを進める私にはすでに巨大な暗い予感があった。その人はきっぱりと、言ってやったみたいな表情をしながら言う——



「この部署は0点だね。何もできてない」


 1ヶ月ほど見てきたけど、ぜんぜん駄目だねと言いながら、個人名も出しながらひたすらに駄目出しが始まる。あの人はこれが駄目、この人はこれができていない。あれも駄目、これも駄目。本当に止まらなかった。だがそのすべてが本当に見当違いの分析、指摘であった。単なる憂さ晴らしのようだった。

 私は部署の中で上の方の職位ではあったため、私が聞く形となったのかと思ったが、それ以外にも理由があった。私を睨みつけるようにして、その人は言葉を放つ。


「あなたがしっかりやってないせいだから」


 緩やかにしていた右手を、何か紙をぐしゃぐしゃにするようにして私は握ってしまった。



「あの子があんなにできないのも、あなたのせい」

 悔しかった。私個人が何かを言われるのもそうだが、私の守っていた仲間たちにまで罵詈雑言突然言われ、悔しさと怒りと哀しみを混ぜた、黒い何かが私の中で生まれてしまいそうだった。

 あなたに何がわかる。歴が長くて、なんでもズバッと言って、注目され、人望が厚いとでも何か勘違いしているのか?皆が忙しいときは勝手に持ち場を離れ、自由気ままに仕事を受け持ち、仕事が落ち着いているときだけ「余裕だね今日も」と口笛を吹き、言いたいことは言えて、さぞ気持ちがいいのだろうねと。


 ふざけるな。

 私がどれほどこの部署を想ってきたか知っているのか。行動し、形にし、変化し、改善し、皆で力を合わせてきた。


 私はとにかく聞き続けた。

 何も言い返せなかった。

 涙が目からではなく、どこかの臓器から流れ出ているような感覚だった。
苦しい。痛い。私は今も弱い、無能だ、そう思っても、私にもプライドが
あったのだ。そんな自分を感じ取り、自分自身に怖さもあった。獣のようだ、私は。

 ひとしきり言い終えたような様子で、その人は私を返した。私は仕事の持ち場に戻る。いつも通り仕事をした。とにかく仕事にあたった。だが、どうしても、涙が止まらなくなってしまった。



 苦しい。

 私は、弱い。

 言いたい放題言われるがままに、私は無能だと思われている。自分で自分が無能だと思っていたのに、こんなにも相手に思われるのは悔しいのか。

 いや、もしかすると"悔しい"と思うのは、今までの私とは気づかぬうちに変わったからではないのか。成長したからではないのか。

 わからない。ただとにかく涙が止まらない。どうしたら、どうしたらいい。

 私は一番信頼している別の先輩をこっそり呼んだ。これは「恥」では
ないと思ったから。



「あの、、私は0点でしょうか」


 突然私は脈絡なく、そう聞いた。

 すると、柔らかく、朝日のような笑顔でこう応えてくれた。


「大丈夫。みんなあなたのことが大好きですよ」



 目をこれでもかとぎゅっと瞑り、私は嗚咽した。きっと、私たちの話が聞こえていたのだろう。

 背中を優しく撫でられた。私はしっかりとした大きさの人間であるのに、雛を愛でるように包まれてしまった。


 私は、私は、

 嬉しかった。仕事なんて、こなせればよかった。こなせて、一日一日が終わってくれさえすればよかった。それだけでも私にとっては生きた証でもあった。怒られてもよかった。叱られてもよかった。私は無能だったから。それが当たり前だと思って飲み込んでいたから。でも自分の知らない間に、私は涙を流しながら強くなっていた。


「私って、みんなから好かれていますよね」
「はい。何を今更」
「私って、この部署を良くしていますよね」
「はい。その通りです。いつもありがとう」
「私は、私は——」
「どうしましたか」
「言い返して来ても、いいですか——」



 今度は、私が呼んだ。

 ちょっと来てくださいと言って。目をたんまりと赤くして。

 私は言い放った。何があなたにわかるんですか。何があなたに逆にできるんですか。あなたは、この部署を、良くできるんですか。

 ぶわりと、音が鳴りそうなほど大粒の水滴が私の目から溢れて止まらなかった。私だって、やれる。私は無能じゃない。邪魔者じゃない。人の目ばかり気にしていない。嫌われることを恐れていない。ひどい劣等感なんてどこかへ行ってしまった。

 私は言いたいことをぜんぶ言ってやった。言いたいことを言う中でも、しっかりと言葉を選んで。丁寧に、感情的にならないように、何とか、何とか大人として、ひとりの人間としての意志を見せた。

 相手は驚いていた。おろおろとしていた。おおらかで、包容力がありそうに見えていたけれど、私よりも全然細かった。鼠だと思って、舐めるんじゃあない。

 相手は私の機嫌をとるかのようにして、焦りながら私を褒めてきた。さっきのは言い方がわるかった、そういうことじゃない、なんて言葉を並べながら。勘違いしようのない罵詈雑言を言い放ってきたというのに。



 私は後日この日のことを、幹部の人に報告した。

 幹部の人は私をあたたかく、守ってくれた。

「報告、本当にありがとう。これからもこの部署をよろしくね。みんな信頼しているよ」


 おおらかで、包容力がありそうだったあの人は、私の前での態度がそれ以来一変した。私は何も怖がることなく、毎朝コーヒーを嗜んでいる。

 とはいえ今でもあの人は苦手だ。ただ別に、全員に好かれなくとも結構だ。私は相変らず涙が手放せていないけれど、そんな生き方でも良いではないか。人の涙に気づける生き方を歩むほうが、私はきっと向いている。


 詩旅 紡

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