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【漫画】『枕草子』ってどんな話? ー 辛い事実を隠して明るく! 長徳の変と藤原斉信出世の秘密 ー


千年前に清少納言によって書かれた随筆『枕草子』。その内容を聞かれたとき、悲劇的なことが描かれていると答える人はいないでしょう。読んだことのある方もない方も『枕草子』に対し明るく雅なイメージを抱いているのでははないでしょうか。

実際その通りで、『枕草子』には基本的に暗いことは書かれておりません。
清少納言の描く後宮はいつも明るい笑いと華やかさであふれており、主人である藤原定子ていしが一条天皇と仲睦まじく微笑む姿が印象的です。
世の無常や生きることの難しさなどを「あはれ」の感覚で描いた『源氏物語』に対し、『枕草子』が「をかし」の文学だと言われるのもうなずけます。



ところが史実を見てみると、清少納言や定子を取り巻く状況は決して明るいものではありません。
それどころか、995年の定子の父・藤原道隆の死を皮切りに、兄弟たちの失態・左遷、実家の全焼、母の死、強力なライバルの登場…と定子はどんどん追いやられ、苦しい立場に立たされます。

しかし『枕草子』では、それらの出来事に直接触れないばかりか悲しむ定子の描写も一切なし。歴史的事実を”歪めて”いる部分すらあるそうで…
それがどういうことなのか、赤間恵都子氏の研究をもとに、定子の父・道隆の死後の日記章段「故殿ことの御服おんぶくのころ」を中心に見てみましょう。


「故殿の御服のころ」 ー 天女のようにはしゃぐ女房たちは実は喪服を着ていた

「故殿の御服のころ」には、定子の父・道隆が亡くなった995年の6月末からの出来事が書かれています。

ちなみに、『枕草子』には後宮生活を綴った日記章段と言われるものがありますが、現代の日記のように何年何月何日と明記されているわけではありません。また時系列もバラバラなため、その章段がいつの出来事を書いているか知るには史実と照らし合わせた検証が必要になります。
この章段の場合、冒頭に

故殿の御服のころ、六月のつごもりの日
(亡き道隆さまの服喪中の6月末)

清少納言『枕草子』「故殿の御服のころ」
現代語訳は筆者

とあるので、おおよその時期が特定できるのです。

さて「故殿の御服のころ」では冒頭に喪中であることが示されているものの、喪失の悲しみには触れられないまま話が進みます。

普段は内裏の登華殿とうかでんで生活している定子ですが、大祓えという神事のため、一時退出することになりました。当時は死を穢れとして避ける風習があったため服喪中の定子たちは内裏にいられなかったのです。
仮住まい先は太政官庁だじょうかんちょう朝所あいだどころ。内裏の外にあり通常は政務が行われり、儀式の際に参議以上の者が会食をしたりするところです。
いつもの宮殿と比べ簡素なつくりですが、清少納言ら女房たちにはそれがかえって珍しく、あたりを探検し始めます。

庭に下りて散策すると、植え込みにある忘れ草の垣根がいい感じ。時報を打つ陰陽寮がすぐ横にあるため鐘の音がいつもと違って聴こえるのもおもしろい。そうやってあちこち見てはしゃいでいるうちに女房たちは高い鐘楼に登りはじめるのです…!

…わかき人々二十人ばかり、そなたにいきて、はしよりたかき屋にのぼりたるを、これより見あぐれば、あるかぎり薄鈍うすにびの裳、唐衣からぎぬ、おなじ色の単襲ひとへがさね、くれなゐの袴どもを着てのぼりたるは、いと天人などこそえいふまじけれど、空より降りたるにやとぞ見ゆる。

(若い女房が二十人くらいそちらに行って、階段から高い鐘楼に登るのをこちらから見上げると、全員が薄墨色の裳と唐衣、単襲に紅色の袴を着けて登っている様子は、まるで天女のようだとは言えそうもないけれど、空から下りてきたのではないかと見える)

清少納言『枕草子』「故殿の御服のころ」
現代語訳は「全員が」以後赤間恵都子、その他は筆者

個人的にこのシーンは『枕草子』の中でも一、二を争うくらい美しい場面のように思います。

女房たちのにぎにぎしさについ忘れてしまいますが、彼女たちは皆関白・道隆の喪に服しているのです。
喪中に加え太政官庁での仮住まい、と非日常のことが重なり現実感が薄らぐ中、わざとはしゃいで明るく振る舞っているようにも見えます。
いつもは色とりどりの十二単の女房たちも、この日は皆揃いの衣に身をつつみ、折り重なるように階段を登っていく…薄墨色の着物の間から紅い袴がちらちら覗きよく映えたことでしょう。
下から見上げていた清少納言はそこになにか幻想的な美しさをとらえたのではないでしょうか。

ところがそうしたきらめきも一瞬のこと、この後調子に乗った女房たちは内裏の建春門辺りまで行き、転んで大騒ぎしたり、椅子に座って倒して壊してしまったり…夜は暑さのあまり御簾の外に出て寝る、ムカデや蜂に悩まされるなど生活感たっぷりの情景が続き、非日常は急速に日常に取って代わられます。

定子たちはそのまま太政官庁に留まり七夕祭もここで行うことになりました。この七夕祭に登場するのが藤原斉信ただのぶです。


『枕草子』の主要人物・藤原斉信 ー 時勢に敏感なイケメン上級貴族

藤原斉信…日本史にだいぶ詳しい方でないと反応できない名前だと思われますが、『枕草子』では主要人物の一人ですので、ここで彼のことを簡単に紹介しておきましょう。そう言われてもちっとも頭に入らないよという方は「時勢に敏感なイケメン上級貴族」と覚えてくださればOKです。

斉信は、藤原道長の従弟にあたる人物。父・為光は太政大臣まで務めたというお坊っちゃまです。
父・為光は娘(つまり斉信の妹)・忯子しし/よしこを花山天皇の女御にすることで地位を掴もうとしていました。
ところが、頼みの綱の忯子はお腹の子とともに死亡。悲しみに暮れる花山天皇は、藤原兼家ら(為光の異母兄で藤原道隆や道長の父)の策謀で出家してしまいます。この「寛和の変」と呼ばれる天皇出家事件によって、斉信たちの外戚の道は閉ざされてしまったのです。
斉信が権力者に追従することを覚えたのも無理のないことでした。

『枕草子』で斉信は、清少納言と互いに才を認め合う刺激的な相手として登場します。謎かけのようなやりとりで相手の教養を試したり、2人の間でしか通じない言葉を用いて噂話を楽しんだり、かなり親し気な様子です。
この頃斉信は、蔵人頭と左近衛中将を兼ねた頭中将という役職におりました。蔵人頭は天皇の側近く仕える係ですので、必然的に中宮である定子のもとへの訪れも多くなります。その中で自然と清少納言と交流が生まれたのでしょう。

そんな彼は「故殿の御服のころ」の中で蔵人頭から宰相に昇進します。
宰相は国政を決める会議に参加する上位の役職ですので、この昇進は栄誉なことでした。しかしそうなればこれまでのように頻繁に定子たちのもとへ訪れるというわけにはいかなくなってしまいます。
そこで清少納言が一条天皇に「斉信は詩の朗詠が素晴らしいから、もうしばらく蔵人頭のまま天皇の近くにお仕えさせてほしい」と訴えると、一条天皇は笑って「それなら宰相にはするまい」と応じるです。「それなのに斉信が宰相になってしまって本当に寂しい」と『枕草子』に記されています。
彼女がいかに斉信のことを慕っていたのかうかがい知れる章段です。

が、この斉信の昇進にまつわるエピソードこそが史実を”歪めた”箇所なのです。


「長徳の変」による定子の没落と斉信の出世

「故殿の御服のころ」をそのまま読むと、斉信は、995(長徳元)年の4月1日頃までは頭中将で、その後先ほど紹介した清少納言と一条天皇のやりとりをはさみ、7月7日の七夕祭までの間に宰相に昇進したように受け取れます。
しかし史実を確認してみると斉信の昇進は、996(長徳2)年4月24日となっており、そこに1年のズレがあるのです。

これが清少納言の単なるミスだとは考えにくい。
なぜなら、996年の4月24日というのは、「長徳の変」により定子の兄・伊周これちかと弟・隆家に左遷の命が下された日、すなわち定子の実家の没落が決定づけられた日だからです。

「長徳の変」とは、伊周・隆家らが花山院に矢を射かけてしまったことから生じた政変です。

当時伊周は、自分が通っている女性の元に別の男性が訪れていると悩んでいました。それを弟の隆家に相談したところ、ちょっとそいつを脅してやろうということになったのです。父亡き後とは言っても彼ら関白家より身分の高いものなんてそうそういませんので、このような行いも許されると思ったのかもしれません。
ところが矢を射かけた相手が恐れ多くも花山院であったため、伊周らの”悪戯”は法王暗殺未遂という不敬事件になってしまいました。
この出来事を、当時政治的ライバルであった藤原道長に利用され、伊周・隆家兄弟は左遷。一時権勢を誇っていた中関白家は政治の表舞台から姿を消すこととなります。

この政変に斉信がどのように絡んでいたのでしょう?
実は、伊周と花山院の交際相手はいずれも彼の姉妹だったのです。

(ちなみに、伊周と花山院の相手はそれぞれ別の女性でした。彼女たちが姉妹で同じ家に住んでいたため、伊周は花山院を自分の恋敵だと勘違いしてしまったのです。花山天皇は出家して花山院となった後、亡き妻・忯子しし/よしこの面影を求めて彼女の姉妹のもとに通い出したのでしょう。)

なぜ斉信が、伊周・隆家の左遷と同じ日に昇進したのかといえば、長徳の変で手柄を立てたからにほかなりません。
花山院が体裁を気にして沈黙していたこの事件が公になったのは、それを目撃したか話に聞いたかした斉信が表沙汰にしたからだと考えたらいかがでしょうか?

いずれにせよ斉信はこの日を境に完全に道長側につきました。
既に陰りの見えていた中関白家を見限り、時勢に乗ることに成功したのです。

それを知った清少納言はどんな心境だったでしょう。

『枕草子』で定子サロンの素晴らしさを描くのに、交流の深かった斉信とのエピソードは外せません。しかし長徳の変にまつわる出来事は敬愛する主人・定子の暗い面を映し出すことになってしまうため、書くわけにはいきません。
しかしそれでもどうしても、一言残さずにいられなかった。
そこで史実を歪めることになるのは百も承知で「故殿の御服のころ」に斉信昇進のエピソードを入れたとすれば…

歪められた史実の陰に清少納言の複雑な思いがにじみ出ているのです。


【参考】
赤間恵都子氏の以下のコラム(18)〜(22)

角川書店編(2001)『ビギナーズクラシックス 日本の古典 枕草子』角川ソフィア文庫
大庭みな子著(2014)『現代語訳 枕草子』


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