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オードリー・タンの父方の祖母・ツァイ・ヤーバオの自伝

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オードリー・タンさんの父方の祖母・ツァイ・ヤーバオ(蔡雅寶)さんの自伝を、ボランティアで翻訳させていただくことになりました。翻訳が終わり次第、五月雨式にはなりますが、少しずつno… もっと読む
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記事一覧

第31章 春節の銘德一村 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 銘德⼀村は40戸ほどの小さな眷村です。  民国50年代(西暦1961年〜、昭和36年〜)当時、毎…

第30章 生活のために必死で働く | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 結婚して60年が経ちました。  子どもたちが学校に通っていた時期、私は生活のために必死で…

第29章 長男の大学合格 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国57年、高校に入って二度目の夏休み、長男が台北から戻ってきました。彼はリビングに荷物…

第28章 長男の高校受験 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国56年の8月末、夫は長男を連れて台北の成功高校に入学手続きしに行ったついでに、近くに…

第27章 西施 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 次男(第4子)が小学校四年生の夏休みのある日、映画会社のスタッフと名乗る2〜3人が、眷…

第26章 子どもの麻疹 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国49年、金門島への出張を命じられた夫が出かけて行って三ヶ月も経たないうちに、私の妹(…

第25章 布団と餃子 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国48年から50年までの期間、銘德⼀村に新婚夫婦が増えて家が足りなくなったので、部隊は眷村の左側に10戸を増設しました。  どの新婚夫婦も子どもを3、4人設けたので、眷村には一番多い時に子どもたちだけで100人ほどおり、非常に賑やかでした。  話を戻すと、私たちが銘德⼀村に引っ越した翌年、端午節の一週間後に4人目の子どもを産みました。男の子です。きょうだいたちは弟を抱きしめました。  3人目の子どもが生まれてすぐに4人目が生まれて、その差はわずか一歳半でした。私はま

第24章 銘德一村へ | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国47年、端午節の数日後、夫と同郷の出身で、補給部隊で働く鄭さんの協力で、軍隊用のトラ…

第23章 夫がいない日々 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 3人目が生まれて11日目、夫は澎湖の部隊での仕事に戻って行きました。  私たち母子4人は…

第22章 次女を迎える | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国45年に僑愛新村へ引っ越してから、翌年に3人目の子どもを妊娠しました。  当時私は毎…

第21章 母子たちだけで暮らす僑愛新村 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 トラックが僑愛新村に到着し、新居まで送り届けてもらった私たちは、期待で胸がいっぱいでし…

『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』作者のツァイ・ヤーバオさんと、ご長男のタン・グア…

オードリー・タンさんの父方のお祖母様、ツァイ・ヤーバオさんの自伝『追尋 — 鹿港から眷村へ…

第20章 澎湖から僑愛新村へ | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国45年、政府は桃園・大溪エリアにある八德の松樹腳に台湾で二番目となる眷村を落成し、「…

第19章 長女の誕生 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 鹿港から澎湖に戻ってまもなく、私は自分が妊娠していることに気付きました。息子がもう3歳になっていて、私は娘が欲しいと強く思っていたところだったので、嬉しい気持ちでいっぱいになりました。  妊娠中、私は皆の服を作りながら、時折息子を連れて馬公に映画を観に出かけました。『聖女媽祖傳』という映画を観たことを覚えています。まだ6歳だった女優の張小燕が小さい頃の媽祖さまを演じていて、他にも李麗華などの古きスターたちが出演していました。  私は幼い頃から映画が好きで、新しい映画が出る