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忘れちやいやョ by 渡邊はま子
先日、大吉原展を観に行った。これはまた別に書いておかなくてはと思っているのだけど、かつて存在した遊廓のさまざまな側面が、多面的に考察され、再現され、展示されている様は、たいへん見ごたえがあり刺激的だった。 昭和初期に公娼が廃止され、消滅した吉原。 その消滅の過程を、永井荷風が『里の今昔』でノスタルジックに書いていた。その荷風を主人公にした映画《濹東綺譚》(荷風の同名小説とは別)を思い出す。吉原消滅後の私娼が題材のこの映画は、吉原の名残を視覚的に伝えてくれている。 この「忘れちやいやョ」は劇中にも流れ、津川雅彦演じる荷風も口ずさんでいた当時の流行歌だ。じつは内務省から“娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱”だとして放送禁止にされた歌でもある。 月が鏡で あったなら 恋しあなたの 面影を 夜ごと映して 見ようもの こんな気持ちで いるわたし ねえ 忘れちゃいやよ 忘れないでね 歌詞の内容にはそれほど際どさは感じない。五七調が遊郭を連想させるのか。この官能的な「ねえ」が向けられる相手を恋人ではなく遊客とするなら、公娼時代を知る者にはそう聞こえてもおかしくはなさそうだ。 公娼制度は人権侵害だ。だから二度と現れない制度のはず。大吉原展を観てこれは痛切に感じた。もしも内務省が言うように娼婦の歌であるなら、「忘れないで」と言っているのはその負の側面も含むと考えられないだろうか。 当時を直接知る人がいなくなった現在、これは単なるラブソングかもしれない。同じことが、戦争にも言える。戦争に突き進んだ軍国主義は、二度と現れてはいけない体制だ。終戦からおよそ80年。戦後生まれの為政者による行政が、忘れてしまった大事なことはないか。 歌に吉原を思い、その負の側面から戦争を連想する。良いことも悪いことも、どちらも忘れちゃいやよ、渡邊はま子の甘い歌声は、そう聴こえる気がする。
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Moon River by Audrey Hepburn
昨日、東京の虎ノ門ヒルズで行われているTiffany Wonder展に足を運んだ。これはあのジュエリーブランドのティファニー社の大規模な展示会で、じつに500点ものアイテムをじっくりと観ることができる。 これは単なるジュエリーの展示会ではない。特別に制作された巨大タペストリーでの歴史紹介にくわえて、石留めや研磨、手彫りの職人さんの実演などもある。こうしたジュエリーの展示以外のひとつに、ティファニーの名を冠した映画「ティファニーで朝食を」のコーナーもあった。 ヒロインのホリーを演じたオードリー・ヘプバーンの衣装や小物とともに大型スクリーンで流れる映画の一場面。そこにはアパートの非常階段前の窓際でオードリーがテーマ曲Moon Riverを歌う映像もあった。 歌手ではないオードリーが口ずさむ飾らない歌声。彼女の狭い音域にあわせて作曲されたなんて話があるけど、だからこその自然さ、気取らなさが、ひとりの女性の本来の姿を浮かび上がらせている。そこにあるのは、歌手の歌声ではない、俳優の歌声の魅力とでも言うべきなにか。 ある人を想って歌う歌、思い出を振り返って歌う歌、そうしたテーマはありきたりだけど、それらをさり気なくにじませたこの曲の歌詞はこの場面のオードリーにぴったりだ。 映画の中ではティファニー社は、高級娼婦的なホリーの側面を象徴するラグジュアリーブランドとしての役割だった。しかし、この歌とオードリーのイメージがあったからこそ、ラグジュアリーなのにどこか清楚なブランドイメージが定着したのではないか。 たまたま昨日虎ノ門ヒルズで聴いたこのMoon River。歌のプロではない、市井の人びとの口ずさむ歌って、こうだよな。心を揺さぶる歌唱力や超絶技巧の演奏力はもちろん良いのだけど、これもまた素晴らしい音楽だという気づきがあった。
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Martha (Tommy) by Bette Midler
まさかの2回目のMarthaはベット・ミドラーによるカヴァー。トム・ウェイツはトム・フロスト(男)からマーサ(女)への呼びかけだったけど、このカヴァーではベッツィー・フロスト(女)からトミー(男)へと変わっている。そして40余年の設定が半分の20余年に。 20年。結婚23年目のわたしには別の含みをもって聴こえてしまう・・・が、ここは素直に若き日の想い人への呼びかけということで。 ベットはトムとのデュエット曲 I Never Talked to Strangers を収録したアルバム Broken Blossom にこのカヴァーを入れたかったとか聞いたことがある。なにかの事情がそれを許さず、ライブで歌われただけだったようだ。 情感たっぷりに、かつての薔薇と詩と散文の日々(the days of roses, poetry and prose)をふりかえる。あの頃は若くて愚かだった(we were all so young and foolish)とふりかえる。 ベットはトムに恋をしていたのではないかとすら思えるその歌いぶりはさすがだ。 先日、石山寺を訪問したことを書いた記事で、わたしは大河ドラマ『光る君へ』について触れた。ドラマで現在進行中のまひろと道長の恋路は史実から成就しないことが明らかだ。けれど、互いにずっと想い慕いつづけて老境に達した頃には、あのふたりは和歌と漢詩を交わした日々を若者らしく愚かだったと省みるんじゃないだろうか・・・と、そんな想像をしてしまう。 あぁこの感覚、トムの歌うMarthaみたいだなと思ったら、ふと、このベット・ミドラーの歌うカヴァーをも思い出した。 歌の中のトム・フロストもきっと忸怩たる思いでマーサと別の人生を歩むことにしたのだ。そしてそれを読みとったベットは、同じくすれ違う恋物語を歌うためにカヴァーした。マーサとしてではなく、自らを投影したベッツィーの名で。では、ベッツィーの恋の相手トミーは誰? ベット・ミドラーはちょうどトム・ウェイツとのデュエットで見知らぬ男と恋に落ちる歌を歌った直後。このカヴァーは20年後を想定したのかも。 ベッツィーはフロストの姓を名乗っている。トム・フロストの配偶者?とするとさらに別のトミー(トム)がいる?それとも愛するトム・フロストと結ばれた想定でそう名乗っている? そんな妄想をしたら、紫式部が道長をモデルに光源氏の物語を書いた説がとても有り得そうだと思えてきた。
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Valentine Moon by Sam Brown and Jools Holland
2月といえばバレンタイン。本邦では女性から男性にチョコレートを贈るのが定着して久しいけれど、国によっては男性から女性に花束を贈ったりして、作法はいろいろ違っていてもロマンチックなイベントになっている。そんな時期に流れるバレンタインソングもどこか甘酸っぱくて切ない。 The first time you kissed me at the end of our street The gas lamps shone above us, young lovers we’d meet ノスタルジックな情景描写ではじまるこの曲は、時とともに変わってしまった街の姿をよそに、変わらず輝き続ける月光と恋心を歌ったものだ。 But the old town has gone now and it’s winter too soon Still we waltz beneath our valentine moon ガス燈(gas lamps)と聞くとあのイングリッド・バーグマン主演の映画を思い出すせいか、サスペンス的な不穏さを帯びてくる。ワルツから連想するのはオーストラリア民謡のWaltzing Matilda。放浪するという別の意味がある。 We danced together as old lovers do 冬が来るとか過去形の言いまわしに、もしやふたりの関係も過去のものなのかと思わされるけどどうなのだろう。 Cette fois tu m'embrasses, au bout de notre rue Les lampes de gaz nous allumiere, toi et moi jeunes amants 後半にフランス語で歌われるのは、冒頭のガス燈の下での口づけを受けて、今度はあなたがキスしてと歌う。単純なラブソングととらえるには引っかかりのある含みに、心のどこかがちくちくする。 toi et moi というと、大きさのそろったふたつの宝石が寄り添ったデザインのリングを指す。クロスオーバーといって、斜めの互い違いのレイアウトが典型的なので、これまたどこかにすれ違いを思わせて、駆け引きがあるような単純ではない大人の恋を思わせる。 どこまでが意図されたものかはわからないし、多分にわたしの考えすぎなのだろうけど、そんなところもこの曲に惹かれるところ。 歌っているサム・ブラウンは昨年ジョージ・ハリスンの曲のカヴァーで紹介した英国のシンガー。ジョージ最後の曲が収められたジュールズ・ホランドのアルバムを買ったおかげで知ることができた。素敵な音楽とはどこで出会えるかわからない。