『若山牧水詩集』の15頁と16頁を読む

 私の人生の課題というか、いつやってもいいけれどいつまでもできる課題として「素敵な作品に「素敵だ」と素敵に言う」ということがある。ここにかかっている三重の「素敵」にはそれぞれ、受容、表現、凝集という課題がある。
 思いのほか良いことを書いてしまって驚いているのだが、とりあえず今日は『若山牧水詩集』の15頁以降を読みたいと思う。14頁まではすでに読んでいる。
 隣の部屋で棚が組み立てられているらしいのでドビュッシーの『月の光』を聴きながら読むことにしよう。牧水のイメージとは合わないかもしれないけれども。私がそういう気分なので。
 と言った良いもののどういうスタイルで書けばいいのだろうか。まあいい、とりあえず読んでいこう。

 さて、読みました。15頁と16頁を読みました。今日は読みすぎました。以下、雑多な感想というか、思ったことです。
 私は文学が苦手です。好きなんですが、それゆえに苦手です。疲れてしまうのです。その人の、文学者の気分が重くのしかかってきて、疲れてしまうのです。いやむしろ、私は文学を「重くのしかかるもの」、そして「疲れるもの」として考えています。そういう実感を持てないものはそもそも文学ではないと思ってしまうのです。ただ、俳句や短歌は別です。それはおそらく、重すぎる文学も愛誦することで少し軽くなるからでしょう。私の人生の節々をそれぞれの詩が繋いでくれます。それでやっと、重力は引力と斥力に変わり、一つの流線、詩が連関させる世界が存在し始めます。
 ただ、私はあまり詩について勉強しようとか、そういう気持ちがありません。わからないことも多くあります。そのわからなさを放っておくことも多いです。気になってしまったものは調べますが、大抵は調べません。まだ出会うときではなかったのだ、などと言って通り過ぎます。また、あまり多くの詩を読もうとも思いません。その日に読めるだけの詩を読んで、たまになぜか思い出されるのを待つだけです。お気に入りの詩はメモしていますが。
 私はたまに詩を書きますが、あれはなぜ書けるのでしょう。よくわかりません。し、私は別に「素敵な詩が書けない!」と困ることがありません。そもそも書こうとしていないのですから。なぜか書けるから書いている。そしてなぜか私は私の詩が好きなので書いている。ただそれだけです。私が書いているからなのか、私の受容に合っているからなのか、それはわかりませんが、私の詩は素敵です。もちろんいつも素敵なわけではありませんが。
 今日読んでよかった詩を読み直してきます。メモしたので。特に良いものをご紹介しましょう。
 と、書いたのですが、やはり読みたてなので特に良いものを選ぶのは難しいですね。三つくらいにしようと思ったのですが。一つにしましょう。いや、二つにしましょう。いや、三つにします。
 まずはこの句です。

火事あとの黒木のみだれ泥水の乱れしうへの赤蜻蛉かな

『若山牧水詩集』15頁

 火事で家が全焼してしまったのでしょうか。「泥水の乱れ」とあるのでおそらく、夜に起こった火事でしょう。みんなで水を運ぶなりして、消火したのでしょう。おそらく。わやくちゃになったその上にあの規則的な飛行、そしておそらく火事の赤さ、夜の暗さと響き合う「赤蜻蛉」(ちなみに「蜻蛉」は「トンボ」のことです)。その複眼には乱れすら整序されている。そんな気さえします。ある種の狂い、それがここには聞こえます。赤と黒の響き合いがおそらく、「赤蜻蛉」を呼んだのでしょう。そう無機質に理解したくなる、そして牧水にはかなり珍しい「赤」という表現からどうしようもなく惹かれたことが感じられます。その、無機質な共立に。朝日、夜明けにはおそらく、蜻蛉の羽のようにほとんど透明でパリパリとした朝が訪れるのでしょう。家の主人がいるかいないかもわかりませんが、いたとしたら真っ直ぐ朝日を見ているのではないかと思われます。あまりに享楽的な解釈かもしれませんが。
 次はこの句です。

月の夜や裸形の女そらに舞ひ地に影せぬ静けさおもふ

『若山牧水詩集』16頁

 「地」は「つち」と読みます。牧水は「静けさ」ということをよく詠みます。例えば、今日読んだところだけでも「海の声山の声みな碧瑠璃の天に沈みて秋照る日なり」や「秋の海かすかにひびく君もわれも無き世に似たる狭霧白き日」、「秋の夜やこよひは君の薄化粧さびしきほどに静かなるかな」など、たくさん詠んでいます。そのなかでもこの句を選んだのは、「影せぬ」という「静けさ」の表現に底知れぬ魅力を感じたからです。また、この句はどことなく「観想」の雰囲気を漂わせています。それはただ単に最後に「おもふ」と書かれているからではなく、「裸形」と「影せぬ」が「おもふ」で掴まれているように思うからです。「裸」と「影」がどちらも「舞ひ」によってある意味はぐらかされ続けるという、覆いを取っても存在せず、影を見ても存在せず、しかしありありと存在するという、そのありありと存在することと実際は存在の形跡がないということの関係が「舞ひ」に凝縮されている。そんなふうにも思います。「おもふ」はある意味記憶の奥底に進むことを誘いますがここではむしろ、その不確かさゆえの確かさの強調にも思えてきます。わざわざ「おもふ」と終わることで実際には存在していないということごとひっくり返そうとしているようにさえ聞こえます。そう思うと「月」と「地」の間に存在する「女」は「月」に近づき「裸形」から遠ざかり「地」に近づき「影」から遠ざかるという、独特の存在性を露わにしているようにも思えます。私はこの句を読んだ当初(と言ってもほんの数分前なのですが)、「なんか神話の下敷きがあるのかなあ。わからなくて申し訳ないなあ。」などと思っていましたが、ここまで解釈すると「天女の羽衣」伝説に関係があるのかも知れませんね。ただ、私はそれよりも「月」と「地」が「つき」と「つち」という響きを共有しているところに微かにではありつつも「裸形の女」の存在を確証しようとする努力を感じて心打たれる方が素敵だと思います。「おもふ」と同じような努力を感じて心打たれる方が素敵だと思います。
 最後にこの句です。

日が歩むかの弓形の蒼空の青ひとすぢのみち高きかな

『若山牧水詩集』16頁

 私はこの句について調べました。ビビっとは来たのですが、どうして来たのかがわからなかったからです。この句のポイントは「蒼空」に「青ひとすぢ」が描かれているのを見ていること、そしてそれを「日が歩む」こととして「弓形」(ちなみに「弓形」は「ゆみなり」と読みます)に描きとったことである。そんなふうに書いていました。ただ、私はむしろ「みち高き」という表現にバタイユとのつながりを感じてしまいました。おそらく牧水はバタイユを読んでいないと思いますが。バタイユの話をすると長くなるのですが、バタイユは自身の「至高者」という概念を「太陽」のあり方からインスピレーションを得て彫琢しています。牧水は別にバタイユ的な関心、「贈与」とか「自己供犠」とか、そういうことへの関心があったとは思いませんが、しかも牧水は静かでバタイユは賑やかな印象があるので正反対ですらあるかもしれませんが、意外と同じようことを言っているのかもしれない。と勝手なことを思いました。こういう意外なつながりというか、集結というか、そういうものも詩を読むことの醍醐味ですね。そしてその集結によって牧水のおおらかで伸び伸びとした、そしてすでに自然に溶け込んでいるような、そんな無邪気さを感じることができた気がします。それにしても「蒼空」に「青ひとすぢ」を見るというのはどこか、虚実の薄膜というテーマを思わせますね。今日はそれが三つの句どれもに見られた気がします。

 これで終わります。私自身、私が思ったよりも享楽できていて、言い換えれば「素敵な作品に「素敵だ」と素敵に言う」ことができていて、とても嬉しいです。調子が良かったのでしょうか。またいつか、今日メモした詩を思い出す日が来ることを待ち侘びています。

[推敲後記]

 三つ目の句の読みが他の二つに比べると享楽的ではないことが気になったのでバタイユを少し引き剥がして読んでみましょう。
 この句のポイントはやはり、二つ、「蒼空」に「青ひとすぢ」を見ていること、そしてその「青ひとすぢ」を「日が歩む」こととして描き出していることでしょう。上では「みち高き」に着目していましたし、そこに着目することによる享楽はいまもなお予感できるのですが、バタイユがカットインしてくるのを制御できないので今回は置いておきましょう。
 と、言ったものの、私はやはり「みち高き」という一種の判断におおらかさ、無邪気さ、そして自然に溶け込んだ、しかしそれでいて耽溺しているというよりは踵を立てている、そんな牧水の姿を見ます。ただ、このように見ることは別に牧水が「蒼空」の下に居て「日が歩む」のを見た後「青ひとすぢ」を思い描きそれを「高き」ものとして見たということではないと思います。なんというか、私には「みち高き」が一種の判断ではあっても判断ではないような、そんな気がするのです。私はなんとなく、「蒼空」に「青ひとすぢ」が見えてから「日が歩む」ことを重ね描いたのではないかと思うのです。そして「みち高き」はどこからか、本当にどこからか来て、いつの間にかこの詩の中に入り込んできたような、そんな気がするのです。それがなぜ入り込んできたか、私にはそれが分かりません。ある人、私にこの詩の意味を教えてくれた人は牧水の自我と日の歩みの重なりをその理由として教えてくれた気がします。が、私はそうは思いません。もちろん「すぢ」から「みち」へと変わるのはそういう人間的な関わりが必要でしょう。しかし、それではあまりにも、……
 書けませんね。だからバタイユに頼っていたのかもしれません。しかし、私は「みち高き」の「高き」が判断であるようには思われないのです。一種の判断ではあっても判断であるようには思われないのです。ここまで「弓形」というところには一切、そして「かの」というところには一切、「かな」にも「かの」にも一切触れてきませんでした。その辺りにヒントがあるのかもしれません。まあ、とりあえず置いておきましょう。いつかこの詩は思い出され、また享楽されることでしょう。たくさんの享楽を凝集してくれることでしょう。それを期待して今日はこの読みを送り出しましょう。表現というのは受容を語ろうとすることなのですから。

全て動物は、"世界の内にちょうど水の中に水があるように"存在している

バタイユ『宗教の理論』(湯浅博雄訳)23頁

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