お話を作ろう

 これは私と私の好きな人があるお話を作ろうとしている様子である。(☆が出てくるがそれは一つ前の文章へのコメントである。)

何か、一つ、エクササイズのようなものをしよう。私が、いや、私たちが書こうとしている、一つの宇宙創世についての話。それのエクササイズ。

私たちが重要だと思うのは集めること、コレクションすること、宇宙になることである。私たちはそれをあるメタファーによって語ろうとしている。

私はあなたの意見を聞いて思った。おそらくあなたの方が集めることの具体性について洗練された表現をするだろうということを。いや、むしろ具体性についてはあなたに託すしかないのかもしれない。それはあなたが優れているからである。そして私が苦手だからである。

しかし、あなたは形式もいくつか与えてくれる。一つ一つ、小綺麗な場面ではなく素敵な場面、それを教えてくれる。私がするのは大筋を考えること、そして大場面を描ききることである。それさえすればおそらくあなたがプッシュしてくれるだろう。

私たちは短いセッションをした。短いLINEのやりとり。それだけで私たちは世界を作った。

私の形式は「蓄光」ということによって支えられている。ただ、この「蓄光」にはズレがある。つまり、なぜか光っていないところがある。

☆ ここでの「蓄光」というのは強い光は長く蓄えられその後強く光るという独自の形式を指している。「なぜか光っていないところ」は短い「蓄光」すなわち弱い光が短く蓄えられその後弱く光るということと長い「蓄光」に共通することであるのだが、長短があるのでその差分によって示される。これが「ズレがある」と言われている。

水面による鏡性についても一つのアイデアがある。捨てられた「蓄光」するモノ(このモノがなにであるかは既に決まっている。)は月のようになる。

☆ 正確にはあるモノたちがモノになるということによって相互参照性の塊となって「月のようになる」と言える。

私の一つの形式は純粋な享楽が最後に宇宙を生み出すという形式である。

☆ これも正確に言うとすれば、「私の一つの形式」というのはおそらく「純粋な享楽が最後に宇宙を生み出す」という形式ではなく「純粋な享楽が宇宙を生み出す」という形式なのだが、物語だからか、それとも「蓄光」というアイデアゆえか、それか共作ということが関係あるのか、それはよくわからないがおそらくそれらの影響を受けて「最後に」というファクターが足されていると言える。おそらく。

なんというか、物語を書くときはなぜか、お説教に使われたくないという、そういう気持ちがある。まあ、どんなお話もお説教になるのだろうけれど、それを撹乱したいとも思わないけれど、私は私に安易な形式性を許さない。私の特質はそこにあるからである。いや、そんなことではない。

☆ これはおそらく一つ前の☆とも関係のある話である。私は「救い」とやらが嫌いである。いや、精確にいうとすれば、「救いを語る」ということが嫌いである。もしかすると「Aとやら」みたいな表現を使うとき私は「まだ精確にできる」と思っているのかもしれない。などとも思った。ここではほとんど関係ないと思うが。

光らない→光る→光らない→光るというリズム。この「光らない」から「光る」への移行は太陽によってなされる。そして最初の移行における強さと長さによって二回目の「光らない」時間の長さとその後の「光る」の強さが決まる。強さと長さは長さと強さに単純化される。このことをみんなは知らない。

☆ 少しわかりにくいがあるモノは最初光っておらず、それは「太陽」によって「光る」ようになる。その際のファクターは強さと長さであり、そのファクターが「光る」から「光らない」への移行によって長さに、そしてその移行の後の「光る」によって強さになる。このことが「単純化される」と言われている。「強さと長さは長さと強さに単純化される。」という表現は初めの「光らない」から「光る」への移行が「強さ×長さ」であるのに対してその結果は「光らない」においては「長さ」に、「光る」においては「強さ」になっていることの表現である。

このことを知らず、ある動物(この動物ももうすでに決まっている。というか、これをあなたが決めてくれたから話は始まっている。)は「光る」ものを集める。それは習性である。私たちにも同じようにある習性。

勘違いをうまく作る。それは別に騙すとかではなくその動物たちが騙されても仕方ないような、そんな勘違い。

いまのところは別にメインファクターではないが、「傷」というのを一つ、最初の移行のきっかけにしたいと思う。そして気づきのきっかけにも。こう書くとめちゃくちゃメインファクターだ。

三回目の移行をどう考えるかも重要だな。それが存在しちゃうと最後、宇宙ができなくなっちゃうんだけど、それがない理由が思いつかない。まあ、理由が干上がるような理由、端的に言えば設定をそうすればいいっちゃいいんだけど。

話の大枠はあなたが決めてくれた。話の具体性はあなたが与えてくれた。あと必要なのは劇性である。それを私が作るのだ。いまのところの切り札は「ズレのある蓄光」である。

モノには紙幣性と単純な享楽性を与えたい。その二重性が少なくとも私にとっては重要である。

ぴかぴかしたものを集める。これはその動物たちの習性である。ただ、実際にそういう習性があるかは知らない。これは人間の習性の象徴的表現である。ただ、主人公とその他の人たちでは「ぴかぴかしたもの」の考え方が違う。主人公は記憶装置的なそれを言っていて、他の人たちはコレクション的なそれを言っている。

☆ おそらくここから書かれないと思って書く(もちろんあまり書いた順番や書いたことは覚えていないので書かれるかもしれない。)が、この「記憶装置/コレクション」という対比は「単純な享楽性/紙幣性」という対比とともに系列化される。と、書いてみて「単純な」という表現は「享楽性」よりもむしろ「紙幣性」に妥当すると思ったが、これは課題というか、良い指摘として残しておこう。

消費社会の話にも見えるかもしれない。豊かすぎるがゆえに豊かではない社会。そんな話にも見えるかもしれない。

なんだろう。私たちが紙幣に単純な享楽、つまり「綺麗だなあ」という享楽を感じることは少なそうだからその造形はちゃんとしないといけない。

別にモノが与えられるところに運、つまり偶然を置いてみてもいい。ギフトみたいで面白いかもしれない。けれど、それをうまく絡ませる自信がない。

☆ この「モノが与えられるところに運、つまり偶然を置いてみてもいい」というのは努力批判というか、そういうものであり、私の根底にたしかに存在することである。しかし、この物語にそれが必要かと言われるとそれはわからない。し、どの物語にもそれがあると言えばあると思われる。

一つ、私とあなたには結末でのすれ違いがあるように思われる。私は孤独に光に包まれて宇宙ができたらいいと思っていたのだけれど、あなたはもっと日常的に建設的に光に包まれて宇宙ができたらいいと思っているらしい。私は少し、劇的すぎるのかもしれない。

☆ 少し前に私の役割を「話の大枠はあなたが決めてくれた。話の具体性はあなたが与えてくれた。あと必要なのは劇性である。それを私が作るのだ。」というふうに書いたのでそもそも私が必要ないという考えもあり得るだろうが、あなたはなぜか私を必要としているように思えるし、私も別にあなたが認めてくれなくても劇性を生み出すこと自体が楽しいということもあるからなんとかなると思っている。というか別に問題ではない。二つの結末があってもいいし、もっとあってもいい。

そうなんよなあ。光をどういうメタファーにするか、複数のメタファーにする場合はそれをどう切り分けるか。それが問題である。

☆ これもおそらく上で作った二つの系列に関する問題である。しかし、ここではむしろもう一つ次元を上げて二つの系列自体が対比される理由というか、そういうものが「問題である」と言われている。

私はどうしてもフラクタルとかマトリョーシカとか、そういう構造にしてしまいたくなるんだけど、今回はそれは素敵ではない気がする。

偽のモノの設定も重要かもしれない。人工物がいいなあ。それだとテーマが強すぎるかなあ。

どうしても私は具体性が与えられない。またお話しすればいいか。あのセッションは楽しかったなあ。

「光らない」というのは不在であり主人公はその不在を記憶で埋めている。しかもそのことに習熟している。いつの間にかそれに合わせた享楽形態を持っている。しかしそれは理解されず、倦厭されることはないまでも変人扱いが続く。やけに長生きなのも光のもとにあまり存在していないからにしようか。存在の根拠は長さだけにしようか。モノの根拠は強さと長さだけれど。じゃあ強さだけのものも作る?

☆ これはおそらくこのお話の本質的な設定の問題というか、どこまで整合的な世界観を構築するかという、そういう問題でもあるように思われる。「長生き」というのは宇宙の豊かさに関わる論点であり、主人公だけが「長生き」であるというのはこの宇宙の肯定でもあるのだが、それはなんというかお説教みがあるというか、だから嫌な気もする。だから「強さだけのもの」も必要だと思われているのだろう。しかし、それを突き詰めると二つの局面、単純に言えば上と下が「月」と「強さだけのもの」と二重化される。まあ、こう書くとなんだか面白そうなので望ましいとすら思えてきたが。

いやあでも、コレクションはある種の強さだからなあ。そこを多元化しちゃうと話がややこしくなりすぎる。まあ、天才ならそれをうまく捌いてより洗練されたものにするのかもしれないが、私は天才ではないからそんなことはできない。まあ、勝手に入り込んでいるときはあるから運が良かったら。

☆ 正直言うと一つ前の☆とは違う発想によって上に書いたような問題を解決しようとしている。けれど、このときの方が本質的ではない気がする。このような解決はこの話を「消費社会」の話にし過ぎてしまうというか、そうやって読めばわかる話にしてしまう。一つ前の☆はそういう話ではなくなっている。もちろん、こっちもこっちでメッセージがあって良いのだけれど、いまの好みとしては一つ前の解決(?)が望ましい気がする。ここでは「ややこしすぎる」と言われているが私は「単純すぎる」と言っている。この差異について考えるのも楽しい気がするが今日はよしておく。考えられる気がしないので。

モノの共鳴という条件で三回目の移行を定義すればいいのか。それはいいかもしれない。

☆ これは「三回目の移行をどう考えるかも重要だな。それが存在しちゃうと最後、宇宙ができなくなっちゃうんだけど、それがない理由が思いつかない。まあ、理由が干上がるような理由、端的に言えば設定をそうすればいいっちゃいいんだけど。」ということへの一つのアンサーである。しかし、この「モノの共鳴」については「月」のところで使ってしまっているからなあ。ただ、小宇宙と大宇宙の関係を「月」とここでの「宇宙」に見たらいいかもしれない。そうしたら私の「フラクタルとかマトリョーシカとか、そういう構造にしてしまいたくなる」という癖は抑えられなくなってしまうかもしれないが。しかもその癖は夢オチ的な展開を招き入れてしまうという点で危険なのだが。

なんかなあ、一つサブストーリーというか、随伴していたと気づかれるストーリーがあれば完成する気がするだけどなあ。「傷」がついたモノは同じ場所に捨てられてそれは月のようなものなんだけど、その光を独り占めするような、そんな人がいると考えてもいい。し、そんな人が主人公であると考えてもいい。が、それでは純粋さがなくなる。けど、それはそれで純粋な享楽者で好感が持てるかもしれない。「毒もみの好きな署長さん」みたいで。

☆ なんというかここは私の信念が出ているように見える。それは「純粋」についての信念である。ただ、「いま、ここ、私」の「享楽」と「いつも、ここ、私」の「享楽」という対比だけだと「主人公」の造形上の理由から後者に吸収されてしまう気がするんだよなあ。うん。問題が複雑でいまの私にはよくわかっていないのだが、後者には「形態」(もしくは「形態変化」)への感性がない。そして私はそれが必要だと思っている。信念としてそう思っている。それくらいはわかる。とりあえずそれだけ書いておこう。

ただ、あれはバタイユ的な解釈を許しちゃうから。そういうお話しじゃないんだよなあ。このお話は。

☆ ここでの「あれ」は「毒もみの好きな署長さん」であるが、そこに許される「バタイユ的な解釈」というのはなんだろう。いま、このときよりもちゃんとバタイユを勉強しているからなんだか、逆によくわからなくなってしまった。

まあ、あなたにこんなことを言っても、「そんなことはどうでもいいけど、こんなものを集めてるっていうのは?」と素晴らしく素敵な些細な綿密な快楽を発明してくれると思う。凄い。

ちなみにここでのお話は絵本になるていで考えられている。それはあなたが絵本が好きだからである。まあ、私は絵があろうとなかろうとどっちでもいいのだが、水面の鏡性は絵があったほうがいいと思っている。

☆ 「絵」という平面性を考慮すると、上で「このお話の本質的な設定の問題というか、どこまで整合的な世界観を構築するかという、そういう問題」と呼んでいた問題の解決のどちらもが魅力的に見える気がする。が、「絵」だとおそらく上で私が推してなかった方が推されるべきなのかもしれない。そう考えると私は上でその解決が「ややこしすぎる」と言っていたことも興味深いことであるように思われる。しかもおそらく一つ前で書いているように「あなた」は「素晴らしく素敵な些細な綿密な快楽を発明してくれる」のだからそのことを踏まえればその解決の方が良いのかもしれない。これは「劇性」にも関係がある議論であるがとりあえず今日はそれだけを示唆しておこう。これはかなり面白く素敵な問題である。いつか考えてみよう。

完成が楽しみだ。ただそれ以上にセッションが楽しいかもしれない。話はできあがらないかもしれないがお話はできる。宇宙はもうすでにあるのだから。これは一人宇宙だが、宇宙であるおかげで象徴的であり分身的である。一気にすべて象徴化される。そういうお話なのである。

☆ そういえば「宇宙になる」というのはあなたのアイデアだが、それがなにを意味するかを共有していなかった。あなたはどう思っているのだろうか。また話してみよう。

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