倫理への働きかけ

私が「倫理」について考え表現したことのうち最も核心的であると私が信じることについて少しだけ言葉を嗣いでみたい。
その最も核心的であると私が信じる言葉は以下のような言葉である。「日記」にあるのだが、探すのが面倒くさいし、きっと見つからない。

倫理とは全てが後付けであることを知り、そのことを忘れまいとすることである。

この言葉をもっと簡単にすると、「倫理」というのは「後付けであることを知ること」と「後付けであることを忘れないようにすること」であるとここでは述べられている。
つまり、アプリオリなものなどないということが「倫理」の始まりであり全てであるとここでは言われているのである。抽象的すぎてよくわからないかもしれないが、「後付け」であるということが深みである。この言葉の深みを理解することによってしか上の言葉は理解できない。
「後付け」というのはどういう意味なのだろうか。私たちが「後付け」と言いうるためにはどのようなことが必要だろうか。すぐに思いつくのは「先付けられている」ということであろう。つまり「アプリオリである」という前提のもとある特定の判断が下されているということである。もう少しすると思いつくのは「倫理」が「付ける」ということにおいて考えられているということであろう。そしてあと少しすれば、「付けられる何か」があるということである。この三つが少なくともなければ、「後付け」ということが理解されるのは難しいだろう。
つまり、私が「倫理」として考えるのは、この三つの条件から成り立つ「後付け」を認識し、それを「忘れないようにする」ということであると言える。
しかし、「認識」に関してはまだしも、「忘れないようにする」というのはどういうことなのだろうか。私たちはどう頑張ったって「忘れる」。もちろん「忘れた瞬間」は覚えているはずもないが、それを「思い出す」ことによって「忘れる」ということを知る。この「忘れる」ということはどういうことか、私にはまだよくわからない。しかしここで大切だと思われるのは、「覚える」と「忘れる」が二項対立的に捉えられるようなものではないということである。もっと正確に言えば、それらが二項対立として対立するための基盤が私には見出せない。もちろん、「記憶」とかそういうことなのだが、「記憶」において「覚える」と「忘れる」は対立しているだろうか。私はそうは思えない。もちろん、全然よくわからないから読んでくれている人はもっとわからないと思うが、とにかく「覚える」と「忘れる」は対立しない。このことが大切なことなのである。「忘れまいとする」というのは「覚える」ということではない。「思い出す」をよりうまく行うということである。「思い出せそう」ということを取り逃がさないということが「忘れまいとする」ということである。
だから冒頭の私にとっての私の「倫理」の核心的表現は以下のように翻訳することができる、かもしれない。

と思ったが、できなかった。代入するだけではただただ長いだけであった。
とにかく重要なのは「後付け」が成立するための条件と「忘れまいとする」ということが「覚える」ということではないということである。私がこれまで信じてきた、そしてこれからも信じる「倫理」はこの二つの考察によって支えられている。それ以外ではない。
とりあえずここでの議論が呼び込む力、それを待つことにしたい。

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