文章におけるグルーヴ感

グルーヴ感がない文章は心がドライブされない。文章としては面白いかもしれないが、読むという行為としては面白くない。

グルーヴというのある種の高揚感のことで、元々は音楽の用語である。僕は文章のことを音楽だと思っているし、最近読んだ本で言えば、『反哲学入門』の後書きを書いた三浦雅士さんも、

この本を書いた木田元さんは名演奏家である。この本は強調による抑揚ばかりでなく、弱めることによる抑揚がついている。

と本に対する評を書いていた。グルーヴ感というのは、グルーヴが分析されるものであるのに対して、それでも分析し切れない感情や感覚のことを指している。
文章の中のグルーヴ感というのは半ば幻想のようなもので、本と人との相性もある。
けれど、グルーヴはグルーヴ感の基盤となっていることは前提のことなので、グルーヴの分析はグルーヴ感の分析になる。という逆説的な論理も展開できる。

グルーヴというのは、三浦雅士さんが言ったように、抑揚のことである。それがどうしてグルーヴを生むのか、それはそれが高揚感を高める構造をしているからである。
強調された箇所は否応なしに高揚感がある。それは作者の論理がそうさせたということもあるだろうし、作者の意図せぬ文体的なものがそうさせたということもある。とにかく、文章が心に直接働きかけ、それに呼応した心が高揚したのである。
弱められた箇所はその強調される箇所までその一種の弱さを保ちつつ進行する。その弱いながら正確なリズム感を持つ論理というのが、強調される箇所だけでなく、そこに至るまでの心のリズムを整えてゆく。
強調された箇所だけでも、弱められた箇所だけでも、文章の演奏はうまくゆかない。どちらにも才能のある人でなければ、文章でも名演奏をすることができない。
グルーヴ、リズムなど、心を躍らせる文章の性質は、その抑揚、強さと弱さの同居するリズムによって形成されている。

そう考えると、冒頭の文章は少し訂正せねばならない。

グルーヴ感がない文章は心がドライブされない。文章としては面白いかもしれないが、読むという行為としては面白くない。だから、僕たちは何かに強い興味を持ち、自分自身を読む行為として文章をドライブするのだ。

と。

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