「哲学する」についての一つの覚え書き

 哲学するというのはどういうことか。私は哲学と称されるものが全般的に好きである。大してこだわりもなく、哲学と名のつくものならなんでも好きである。その理由というか、その表現というか、それをここでしたい。かつて私は哲学と称されるものが好きである理由やそれを推奨したい理由など、いくつか書いてきた記憶があるが、ここでは哲学とは何であるか、それを書きたい。そしてそれを示したい。
 まず、この議論の全体的な方向性を示しておこう。宇野邦一は『ドゥルーズの21世紀』に寄せた「哲学の奇妙な闘い」の中で哲学を次のように定義(?)している。

哲学とは、瞑想でも、省察でも、コミュニケーション、議論でもない(それどころか、むしろモノローグであり、モノローグであってよい)。

『ドゥルーズの21世紀』21頁

 私のおおまかな方向性もこれに近い。先ほど、私は宇野の文章を読む前に「日記」に次のように書いていた。

ドゥルーズがウィトゲンシュタインのことを哲学の破壊者みたいに言っていた(らしい)。そのことの意味が少しわかった。ウィトゲンシュタインは現実を直視しすぎている。それは長所でも短所でもない。ただ、そこでの「現実」の制作というか、そういうことをまったくゼロにする(この「ゼロにする」は極度に独我論的に「現実」を見るか、逆に極度に反-独我論的に「現実」を見るか、という振れ幅がある。私はそう思うが、「ゼロにする」という意味では、問題にもしないし新しい概念を作ったりもしないという意味では同じである。)ことは長所でもあり短所でもあるように思われる。ドゥルーズはそこに短所を見て、というがほとんど反応的に嫌っていたのだと思う。その「反応」はここで言う「ゼロにする」に向けられたのだと思う。

2024/2/15「ちゃるめらんて」

 一つ一つ説明すると長いのだが、とりあえずドゥルーズは「モノローグ」のディアローグ性というものを重要なものとしていて、ウィトゲンシュタインの極端さはそれを、ドゥルーズからすれば、無碍にしていたように映ったのだと思う。と言っても、私はかなり曖昧な状態で話していて、ドゥルーズが本当にウィトゲンシュタインをほとんど反応的に嫌っていたのかを知らない。ただ、私はここで示されているようなことが実感としてわかった。腑に落ちたのである。
 そして私はこの実感から宇野の文章を読み始めた。余談だが、こういう時にタイトルだけを知っているということ、すぐれて積読的な才覚は輝くのだな、といま思っている。

 さて、ここで重要なことは「モノローグ」のディアローグ性ということである。このことを一発で言い抜くとすれば、それは「私と私の対話の間にあなたがいる」ということになる。私が隔時的に存在する仕方に対話性は宿るということになる。しかし、これでは凝縮されすぎていてよくわからない。
 ただ、私にはこれを展開する力がない。少なくともいまのところは。なので、凝縮されたまま書き連ねていこうと思う。たまに運良く展開できたらそれをヒントに展開していってもらえばいい。と、書いたものの、一つも展開はないかもしれない。ただの凝集になるかもしれない。まあ、哲学というのは他人がするものである。私の哲学なんて語りが可能なのはそれゆえである。

 宇野はドゥルーズの哲学者に対する態度について次のように書いている。

それぞれの哲学的創造に概念、平面、概念的人物を読みとっていくドゥルーズの記述は非常に厳密であると同時に、奇妙に寛容でもある。プラトン、デカルト、カントの創造は、真偽を判断されるよりも、どのような概念的創造であったかという事例として、まったく公平に読み解かれていくだけである。

『ドゥルーズの21世紀』29頁

 私は私にもこのような寛容を感じる。もちろん、次元は違うが。これはなにゆえなのか。この問いにこたえるためのヒントは「私が隔時的に存在する仕方に対話性は宿るということになる」ということにあるように思われる。
 過去の私といまの私、いまの私と未来の私。それらは隔てられている。それが時間である。しかし、それらは「隔てられている」と言われるくらいには近い。近接している。それが対話性である。時間と対話性の関係はよくわからないが、その一つの形態が「人物」というあり方であるように思われる。そしてその一つの形態が、いやもしかするとその形態そのものが「哲学者」なのだと思う。つまり、時間と対話性は「哲学者」によって閉じられているのである。だからこそ私たちは「哲学者」と対話することができるのである。もしこのような構造がないとすれば、対話はできない。
 時間があぶれてしまった。しかし、「人物」というのは時間によってしか成り立たない。そもそも成り立つ必要がないという意味で成り立たない。その意味で言えば、対話というのは二重に「私たち」を作っている。「私」という「人物」を作っていて、「人物」の集まりとしての「私たち」を作っている。しかし、それはいわばスケールの話であって、「私」という「人物」にも「私たち」はいる。それが「隔てられている」ということである。このことがあってこそ「人物」は存在し、「私たち」は存在するのである。二重に。
 この二重性を均すことがおそらく、「モノローグ」批判につながるのだと思う。そもそもそのような均しがなければ批判などできない。それはただの事実の記述なのであるから。そうか、ウィトゲンシュタインの議論、特に独我論に関わる議論は、その極端さは「均し」をそれとして存在させないという極端さなのか。特に私と言語の関係を存在させないという。
 話を戻そう。そういう構造、つまり「モノローグ」が「ローグ」ではあるということを保証する構造、「隔てられている」ということ、そしてそれを時間がつなげるという構造がある。「哲学者」というのはおそらく、この構造の象徴的な表現なのである。つまり、「哲学者」であるというのはこの構造を表現的にする者たちであることになるだろう。そう思うと、実は「哲学者」ではないように見える人たちもいる。が、ここで明言すると面倒くさい議論に巻き込まれそうなので秘密にしておこう。

 じゃあ、「哲学者」同士はどうやって対話するのだろうか。それは本当にわからない。しないとも言えないけれど、するとも言えない。なんというか、言及は、パロディーは山ほどあるだろうが、対話かと言われればそれはわからない。関節が外れ続ける。全員異星人ですらない。そういう関係にあるのである。「哲学者」同士というのは。
 では、「哲学者」同士ではないような関係はあり得るのだろうか。あり得るともあり得ないとも言えないだろう。実質的にはあり得るのだろうが、形式的にはあり得ないことになっているように思われる。しかし、「形式的」ということがすでに「あり得ない」ということを隠蔽する仕方であるようにも思われる。
 ただ、一つ言えるのは「哲学者」同士はおそらく「私が隔時的に存在する仕方に対話性は宿るということになる」ということの「私」が分裂しているという、そういう自然さの表現であるようにも思われる。どれが先なのか、私は知らない。もちろん、常識的に言えば、「私が隔時的に存在する仕方に対話性は宿るということになる」ということの一つの表現が「哲学者」同士ということになるだろう。しかし……

 「哲学者」をそれとして理解するというのは「モノローグ」をディアローグから守り抜くということなのかもしれない。なぜか。とても難しい質問だ。この難しさはおそらく、私の「偏り」に由来する。そして「私」はおそらく「癖」としてまとめられる。しかし、そういう由来やまとまりの契機はすでに私の平面にある。だから、私は他人もそのようになっているとしか思えない。「哲学者」はそれに反抗する。さまざまな仕方で。私の先入見に反抗する。さまざまな仕方で。しかし、私はそれを放棄しない。それでやっと「私が隔時的に存在する仕方に対話性は宿るということになる」からである。ここに偽物/本物というしょうもない対比を持ち込むとすれば、この「偏り」の中で理解されない「私が隔時的に存在する仕方に対話性は宿るということになる」ということは偽物の対話に対するおべんちゃらになるのである。
 このことを一つの構造として描き出すとすれば、「隔てられている」ということを保持するとともに「近くに居る」ということを保持することがここでの課題である。しかも、この保持を襞的に存在させることが、そしてその襞の線が、内巻きの重畳が、肉圧が、ここでの議論の核である。それを失うとするならば、ここでの議論は何にも意味がない。おそらく、議論というのはそういうものだからこそドゥルーズ=私は「寛容」なのだろうと思う。そして哲学とは次のようなものなのだと思う。

哲学とは、瞑想でも、省察でも、コミュニケーション、議論でもない(それどころか、むしろモノローグであり、モノローグであってよい)。

『ドゥルーズの21世紀』21頁

 では、「〜ではない」という仕方以外での定義はどのようなものなのだろうか。「私と私の対話の間にあなたがいる」ことによって、そしてそれを持続させることによって、である。そして私はおそらく私=あなたという構造の多様体を多にし続けることによってこのことを理解している。少なくとも哲学的には。

 お腹が空いたので哲学から離れて終わろう。昨日、私は次のような文を書いた。奇妙に真実的であった。ここにはちゃんと対話がない。「モノローグ」ですらない。そう願ってるとすら言えそうである。

ゆっくり呼吸する。私は一つの多孔質になる。

2024/2/14「明日は明日の風邪をひく」

 ここでの「孔」はとても小さい。それゆえにその卵のような殻の中に入ればお昼でも暗く、そして星が見える。その小さい「孔」が星である。次のようにも書いた。これは哲学と文学の「交点」にあるかもしれない。

「一つの作品」というのも多孔質として理解できる。多孔質性が私と作品を支えていると考えることもできる。人生を一つの作品にするということはそういうことである。

2024/2/14「明日は明日の風邪をひく」

 この「人生」をここまでに引きつけるとすれば、「私と私の対話の間にあなたがいる」ということの「間」というのは「人生」である。しかもそれを「作品」と呼ぶことでその複数性を「一人の人生」と言われるところで肯定しているように思われる。この二つの引用の間には次のようなことが書かれていた。

それは一つの「交点」である。そこで変化するという意味では「曲がり角」である。

2024/2/14「明日は明日の風邪をひく」

 ここでの「それ」は「一つの多孔質」である。これはその通り、「間」にある。文学である「ゆっくりと呼吸する」ことと哲学である「人生を一つの作品にする」こと。ここで書かれていることは一つ前の引用の「多孔質性が私と作品を支えていると考えることもできる」と響き合い、スケールの問題を再び招き入れる。その攪拌はおそらく、私=ウィトゲンシュタインの垂直性によるものだろう。しかし私はそれを水平に広げている。それゆえに攪拌は終わらない。もちろん、ウィトゲンシュタインにおいても終わらなかったがあれはおそらく垂直を横に倒しただけである。貫く何かを倒しただけである。さて、「多孔質」の誕生について言祝いで終わろう。ただ、私は言祝がない。崎川の言を借りよう。

元来「神の似像」としての人間は、神の息=霊という超越的な契機によって生かされ意義づけられている「肉」であった。しかし人間の自我は、次第に神の創造した世界をくまなく見渡すことのできる存在、つまり主観であるという自負に溺れるようになる。そして人間は身体であるよりも、まずそこに住まう「眼」であって、それによって世界が選び採られ意義づけられるようになる。ここで旧来の神と人間との垂直的関係性は人間自身のうちに移入され、例えば「超越論的」と呼ばれるあらたな装いのもとに命脈を保つのである。だが、ウィトゲンシュタインはその「眼」の特権性をさらに徹底させ、いわば外部を持たない世界そのものへと浸透させてしまう。

『他者と沈黙』iv-v頁

 ここに宇野=ドゥルーズの言をぶつけよう。この二つの言の間で私は哲学をしている。私はそう思っている。

内在平面から出発したはずの哲学の歴史は、哲学自体が次々その内在性をそこなう超越性を再建し、復権させる歴史でもある。概念の敵は、哲学の内部にも次々侵入してくる。内在性が、"何かに内在する"ようになるとたちまち、その"何か"が超越性として作動し始める。哲学の敵は、他でもなく哲学の内部に次々出現する。

『ドゥルーズの21世紀』22頁

 ここには二つのねじれがある。一つは崎川はウィトゲンシュタインについて説明しているということ。もう一つは宇野=ドゥルーズはおそらく神も一つの「超越性として作動」するものであると思っているということ。ここにはやはり相容れない二人がいる。二組がいる。この二組の間に私がいる。「私と私の対話の間にあなたがいる」。

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