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食欲×承認欲求+環境=#みるめし(だらだら書いてみたシリーズ)

 ようやっと、新しいパソコンを買った。

 紆余曲折を経て、DELLの14インチ、タッチパネル搭載のパソコンをオンラインで9万円弱で買った。キーボードが若干打ちにくいことが問題ではあるものの、容量と用途と予算を考えればこれが現実だろうか。Macbookの類にすることも最後まで考えたが、結局辞めてしまった。やっぱりタッチパネル、あると便利だもんな。と、思ってやめた。そんなわけで、パソコン買った記念に、一筆。私と自炊の話を。

 ここ最近は文章をめっきり書かなくなった代わりに、飯は作るようになった。飯を作って、そのうまくもない写真を各種SNSに上げている。とりあえず飯の写真を上げておけば、誰かしら「LIKE」ボタンを押してくれる。それによって食欲と承認欲求を同時に満たそうという行動をしている。そこまで実家で飯を作るような人間ではなかったが、実家できちんとした飯は食ってきた人間である事が効いているようだ。毎日外食や毎日どこかで買ってきた飯で食事を済ませて満足するわけにもいかない。お財布にも打撃を与えるし、栄養価も偏る。もちろん、一汁三菜とまでは行かないし、どうしても丼ものや麺類である場合が多いのだが、それでも平日の晩御飯は自炊している。自分で自分のために作るごはんは自由だから、失敗しようが、手際が悪かろうが、「まぁいいか」で済むし、「まぁいいか」でも、回数を重ねていけば、自然と要領も身についてくるものだと思っている。だけれども、実家で、しかも人の目がある台所で料理をすると、野菜の切方が違うとか、炒める順番が違うとか、盛り付け方がきれいじゃないとか、いろいろな野次が飛んでくる。その野次を注意だと受け止めて次につなげられる変換力はなくて、「どうして女であるのにそんな料理の一つもできないのか」という、理論を押し付けられているような非常に窮屈な気分になってしまっていた。勝手に。何か言われるたびに「自分は何をやってもだめだ」という気持ちが沸騰して、もう台所にすすんで立とうなんて思いもしなかった。手先はめちゃくちゃに不器用で、先天的に家事全般が苦手。母親に「結婚して子供ができたらやっぱりちゃんとご飯を食べさせないといけない」と言われてきたのか、きちんとした飯を毎日出されるところからして、母親自身のそういう姿勢というか滲み出る義務感を感じてきたのか、そのどちらもなのかよくわからないけれども、それも大きなプレッシャーだった。「そもそも論、結婚できるかどうかもわからない、恋愛さえも出来ない私が、そんな保証もない未来のために、何故そういう義務を背負って果たそうとしないといけないのか」と思ってはよく泣いていた。「料理=女性にとってやって当たり前」という、歪んだ?印象だけが私を苦しめていた。女性としての外面的価値、精神的価値に欠ける事にコンプレックスを感じていて、女性である事を強調されたり、女性である事を一括りにされる事を嫌がっていた。だから私が書く文章の主語は「僕」である事が多かったのだが。それは私なりの、女性性への細やかな抵抗だった。まぁ、いまはちょっとそれを置いておくけど。料理だって、男女ともにすることには間違いないと言われればその通りだし、母親だって「女だから料理しろと言ってるわけでもないけど」と一応言っていた。でも、一応であって、それは女性として、性別としての仕事を押し付けられているとしか私には解釈できなかった。私の料理嫌いと、女性性との関わりについて悩んだ結果の行動として、よく覚えているのは、恐らく昨年の今頃のことだ。当時3年弱ほどお世話になっていた、お姉様が結婚なさった。その結婚パーティーの帰り道、大勢の方々から祝福されるお姉様の様子を見て、「自分もいつかああなれるのだろうか」と強いプレッシャーと憂鬱を背負って、帰宅した。帰宅してすぐにシャワーを浴びて、自室の布団に転がって泣いた。泣いていたら母親が夕飯の支度を手伝えというので、しぶしぶ台所に行って、焼いた肉か何かを皿に盛りつけさせられた。その時に、あまりにも見た目がずさんだったのか、「これもうちょっときれいにやろうよ」と言われたその刹那に、私は大泣きして何かを叫んでいた。何で女だからって料理しなきゃいけないんだとか、内容までは思い出しきれないけど、とにかくめちゃくちゃ泣いて、めちゃくちゃ言いたいこと言って、母親と喧嘩した。それほどに、私にとって料理、特に「誰かのために作る料理」は重荷であり、プレッシャーであった。ただでさえ苦手なことを、ことさらに誰だかもわからない「誰か」に期待することが重荷だったというほうがいいだろうか。

 然し、その数か月後程から会社勤めを始めるようになったため、ちょくちょく自分の弁当ぐらいは自分で作るようになってきて、私の料理への抵抗は、ほんの少しずつでも薄れてくる。確かに自分1人のために作る料理だったら気楽でいい。趣味です、と言えたらきっといいのかもしれない。そう考えると、「料理」という行動よりむしろ、「誰かのため」とか「女として」と言う言葉とイメージに、私が長いこと勝手に苦しんでいたんだと思う。

そして今、結局自炊をしている。もう、「おうちごはん」ではない。「自炊」だ。

 今まで嫌悪してきただけあって、決して上手だとは言えない。レパートリーもないし、あるものでさっとご飯を作る技術もない。冷凍食品を解凍するのは至難の業だ。毎日毎日同じ食材で味だけ変えたりしてることが続く。この食材にパスタを足すのか、うどんを足すのか、はたまたご飯の上に載せるか、のパターンで何とかしていたり、やっぱり最終的にはチーズ入れとけば全部丸く収まる!と思っている。そういうわけなので、基本モットーは「作ることが大事」で、「作って当たり前」ではない。うちじゃやらないくせに、このハードルを下げることにも抵抗があったのだが、ハードルを下げてみて、特に困ったことは何もない。むしろそのぐらいのハードルだからこそ続いている。ある日はレシピを見てしっかり作るし、またある日は、手を抜いてなんだかよくわからない味のご飯ができたりとか。いつもいつも上手にできるわけじゃない。文字と違って料理に「やり直し」は効かないから、それは致し方ないなと、失敗することに対しても寛容になってきた。それで、作ったものは基本的に写真撮ってSNSに上げる。こんなへたくそな料理も写真も上げてどうすんだ、と思いつつ、そこはそういう性分なのだから仕方ない。下手くそな暗い文章と、下手くそな自炊した夕飯の写真、どっちをアップロードしたほうが好感が持てるか、より承認欲求を満たせるかと言われたら、自炊した夕飯アップロードするほうだろうし、私だって人の暗い文章ばかり読まされるよりかは、おいしそうなご飯見ているほうがいい。というわけで、コネコビトの作者でお馴染み、相沢ナナコさんの「♯なこめし」と、何かとご縁のある添嶋譲さんの「♯そえめし」に倣い、私も「♯みるめし」シリーズを細々と始めた。先駆者がいると中々また情報共有の楽しみなんていうのもあったりして、ちょっとずつそれもうれしくなってきた。さすがに毎日作ったものを投稿するものだから、本名名義の友達や知り合いにも、みるくし!名義の友達も、会う人会う人に「ちゃんとご飯作っててえらいよね」とか、「いつもご飯おいしそう」とか言われるようになった。そういうレスもたまに頂く。これは私にとって意外なことだった。なぜなら、(とはいえ、)私はまだ「自炊して当たり前」だという認識のほうが強いし、家でこの程度の料理をしたところでそれもそれで「作れて当然」と言う認識で済まされて、特段何かコメントが付くようなものでもないと思っているからだ。こんなへたくそな料理と料理の写真に対し、誰かが何かを言うこともなく、むしろ心の中で「こいつ毎度毎度下手くそなものをアップしてて恥ずかしくないのかなあ」と私を嗤っているだけなんだろうなぁと思っているし、寧ろ、そう思っている人の方が多いんでしょうけど。それでも、自分が苦手意識を抱いてきたものに対して、何かしらプラスのコメントを頂ける事はうれしい。いやあ、こんなの誰だってできますよ」と思うし、別に本当にすごくもなんともないのだけれども、でもうれしい。週5で包丁握るようになってから、まだ1か月やそこら。更に今の仮住まい先を追い出されたらもう、自炊することもやめちゃうかもしれない。でも、今は包丁を握って、狭いキッチンの中、1つしかないIHコンロと格闘することが、日課になってきた。あれだけうるさかった母親の小言も、嫌味ではなくて「そうだったそうだった…。」と知恵として思い出す事も、たまにある。

 うーん、環境というものが、潜在的に眠るセンスを引き出す事だってありうるのかもしれないなあ、と思う夕暮れ。17:50。東京都23区内中心部の一角より。さて、晩飯どうしようか、と、思案する、等。

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