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日本とドイツの架け橋、シーボルトゆかりの地を巡る(長崎・鳴滝塾篇)


2023年はシーボルトが来日して200年目にあたります。

遠い昔の出来事のように語られるけれど、200年前なら意外と最近じゃない、と感じるのは自分が年を取ったせい?それに日本の植物はもちろん日本という国が世界に紹介されてからはまだ時は浅いのだというのも改めて実感します。

鎖国していた日本で外国人がとどまることを許されていたのは長崎に人工的に作られた面積約1.5 haの扇形の出島のみ。オランダ商館医として日本にやってきたシーボルトはかなり腕がたつ医者であると評判だったため特別に出島から外出することを許されていました。そして長崎市郊外鳴滝にオランダ通詞 山作三郎から購入した別荘で門人に西洋医学や博物学を教える鳴滝塾を開いたのは1824年のこと。ここには出島の住居と同じく様々な植物も植えられ、シーボルトの日本調査の拠点ともなりました。

集英社学習まんが日本の歴史11 ゆらぐ江戸幕府

記念すべき年となった今年8月の最終日、長崎へいく機会があり、鳴滝塾の跡と隣接する「シーボルト記念館」を訪ねることにしました。


かわいらしい一両編成の「蛍茶屋」行き路面電車に乗って新中川町駅で下車し、案内板に従っていくと石造りの古橋が目につきました。眼鏡橋をほうふつさせてハイカラな長崎らしい橋です。通り過ぎた酒屋さんの店先では売り物として多肉植物も売られていました。そして「シーボルト通り」を歩いていくと、間もなくシーボルト来日200年の大きなバナーが見えてきました。

木造2階建てだったという塾跡の正面にはシーボルトの胸像とその下には咲き終わったアジサイの花が。思えばヴュルツブルク市内にあった胸像付近にはこれといった植物はなく、ミュンヘンにある墓にも墓地にありがちなアイビーしか植えられていなかった。でもシーボルトといえばやっぱりアジサイでしょう。彼は愛する日本女性、お滝さんにちなんでアジサイの学名をHydrangea otaksa(のちにHydrangea macrophylla ser. otaksaと改められる)と付けました。

2人のロマンスは長崎とシーボルトをつなぐ確かな絆。その縁から長崎市は市の花をアジサイと定めていて市内のあらゆるところでアジサイのマークをみかけます。記念館に向かう途中の道路わきでも小さな株の上に『アジサイを大切に育てています。花を盗ったり折らないでください』という張り紙がされていました。長崎市民にとってアジサイは特別な花なのです。

もちろん、ヨーロッパ的にみればお滝さんはシーボルトとの間にイネという女の子をもうけたとはいえ、ただの元カノ、というか現地妻にすぎない。初めて日本に来た時には独身だったシーボルトもドイツに帰ったあとヘレーネ・フォン・ガーゲルンという女性と結婚し、三男二女をもうけているわけで、あまりに過去の恋愛話やアジサイも持ち上げすぎちゃまずいのかもしれません。

居宅跡にはアジサイだけでなく、彼にゆかりのある木や植物が植えられていました。

左がシーボルトノキ。別の植物がおおいかぶさってマス

シーボルトノキの前に特別にもうけられた石碑を読むと、この植物は植物学者、牧野富太郎がシーボルト宅跡で植えられていたのを見て新種と思ってRhamnus Sieboldiana 和名シーボルトノキと名付けたところ、後年になって中国原産のクロウメモドキであると分かったいわれのあるもの。これ以外外には日本植物誌「フローラ・ヤポ二カ」で紹介された植物、ツワブキやオオデマリなどが植えられていました。

オランダのライデン市内にあるシーボルトの旧宅と玄関部分はシーボルトの祖父カール・カスパルの旧宅を模したというお隣の記念館ではドアを入るとシーボルト、お滝さん、イネの顔出し看板がお出迎え。ここではシーボルトの生涯と業績を辿ることができます。

3人揃ってようこそ

出島の地図を眺めていてこれは?としばし足がとまりました。シーボルト宅と書かれた上に『狼』という文字が見えたのです。え?見間違い?と思ってもう一度見てもやっぱり狼。間違いない。どうやらシーボルトは自宅の庭でたしかにオオカミを飼っていたらしい。

あとでインターネットで確認したら、「彼は大阪・天王寺でオオカミとヤマイヌを購入して出島で飼った後、オランダに送った」という記述があって、ライデン博物館にはニホンオオカミとされる標本が残っているそうです。展示をみているとシーボルトは植物だけでなく、動物も、それに民俗、歴史、言語と日本のありとあらゆるものに関心をよせていたことがわかります。さらに自身の行動は制限されていたため、鳴滝塾の門人に論文を提出させることなどで情報を得ていました。

展示品は撮影不許可。絵葉書の図柄だと左下シーボルトの前庭に狼の字はありません。

学問のジャンルをを問わず、彼が残した功績は確かに大きい。けれどもこれまでに読んだ本や情報ではその人柄に関しては「尊大で権力志向が強く、節操のない人間だった」(「プラントハンター東洋を駆ける」A.M コーツ著)とか、貸した鉱物標本の返却を頼んだけれど、返し渋られて一部しか戻ってこなかった、とかあまり芳しくない。なのでどうもシンパシーを感じられなかったシーボルトですが、おおっ!と見直した事実もありました。それは彼が日本帰化を願い出たということ。

ことの起こりはシーボルトが任期5年を終えて帰国するにあたって地図、そして葵の御紋がついた羽織など外国への持ち出しが禁じられていたものを持っていこうとしたのが発覚した『シーボルト事件』。地図を渡した天文学者、高橋景保や羽織をおくった土生玄硯をはじめ関係者が捕らえられ、シーボルト自身も尋問を受けました。

事態が事態なだけに「門下生らが捕らえられたのに心を痛め」たのか罪悪感なのか、死罪を免れたかっただけなのかどうか本当のところは分からない。それにしても当時の日本のおかれた鎖国下では故郷に2度と足を踏めないかもしれないのに帰化しようというのは本当に思い切った行為です。

残された手紙には日本と日本人を高く評価している様子もうかがえるし、もしかしたら6年間にわたる滞在の中で、日本を単なる調査対象として観察するだけでなく、心から愛着をもってくれたのかな、意外といい奴かもなんてふっと思ったのです。

記念館3階は特別展示の部屋でした。ちょっとのぞいて絵の展覧会かと思ったらそこでは地元の手芸グループによるフランス刺繍の作品が展示されていました。

撮影禁止だったのでいただいたポストカードで。
実物をおみせできないのが残念

しかもそれはシーボルトが送った標本をもとにしてライデンの学者3人がまとめた「日本動物誌 魚類編」をお手本にしたものでした。細部の色にまで気を配って一刺し一刺し、何時間もの時間を費やして完成したであろう作品は素晴らしかった。記念館だけでなく、長崎市内各所でシーボルト来日200年記念を祝う企画や行事があって、こうやって長崎市民から大切にされているシーボルトは本当に本当に幸せ者です。

記念館のエレベーター

今回の私の旅はクルーズ船を利用してのものでした。クルーズ観光はとっても便利な反面、寄港地の人にとっては「泊まらない、食事も船で済ませてしまう、短時間でわっと押し寄せて地元の生活を圧迫する」などなど観光公害とも称される旅の仕方です。

実際私もシーボルト記念館に行ってから、原爆資料館だけは人間として見ておかねばと転戦しているうちにあっという間にタイムアウト。船に戻らなければならず、長崎ちゃんぽんを食べることはもちろん、カステラの一本も買わずじまいに終わってしまいました。

記念館のトイレのタイルにもシーボルトゆかりの花が

ある意味、迷惑な観光客の私たちなのに、どうでしょう。船が港から離れる時に地元の皆さんが旅の安全を祈願し、和太鼓で送り出してくれました。力強くたたく姿にデッキで見ている私たちはただただ拍手で感謝するのみ。そしてラストに3人が岸壁までたたっと走って掲げてくれた横断幕には「また長崎でお会いしましょう(See you again in Nagasaki)」の文言が。ただの旅人にここまでやってくれるなんて、と思わずうるっときちゃいまいました。かたじけない。。

路面電車の乗り換えにおろおろしていた時に、こっちこっちと案内してくれて下車駅まで私たちのことを気にかけてくれたこれぞ九州男児という風体の男性。シーボルト記念館前の家の前にも「ようこそ鳴滝へ。素敵な旅になりますように」という紙がありました。

本当に短い滞在時間だったけど、長崎は人に厚い街(という表現があるのかな)、というのが私の印象です。子孫がこれなら、祖先の方々もきっと同じように厚かったはず。


もしかしたら、シーボルトが国外追放になって長崎を離れた時もひそかに彼を慕う門人や町の人たちから見送られていたのかもしれない。そして私と同じくまた必ず来ますから、と誓ったのかもしれない。(1859年にシーボルトは息子アレクサンダーを連れて再来日)

1866年の臨終の際のシーボルトの言葉として伝えられているのは「余は美しき平和の国にゆく」。この旅を振り返ってみて思うのです。彼が最後まで夢見たのは日本というより、彼を愛してくれて、今もなお愛し続けてくれる長崎の地だったのだろうなと。





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