視神経の呪い

私の視神経には呪いがかかっている。
自分の姿が醜く見える呪いだ。

まるで本当は醜くないような言い回しだが、生まれてこのかた美しかったことなどない。
成人時の前撮り(成人式の前に成人記念の写真を撮ることを前撮りと言う)は女装したゴリラがメイクしているようにしか見えず、
「何枚か選んでください。」
と言われても直視することすら辛かった。拷問のような時間が過ぎた。
友達と撮った写真を見返すのもつらい。

こんなゴリラだが、何故か外見を誉められることもあった。
ひたすら困惑した。

小さい頃から笑顔が下手で、同級生には
「笑わなければ可愛い。」
と言われた。
いや笑ったらあかんのか!?とも思ったが、その同級生は誰が見ても納得の美少女で、そんな彼女に可愛い認定されたことの驚きの方が大きかった。

高校生で背中の真ん中まであった髪の毛を男に見えるようなショートに切ったら、女子人気があったサッカー部の人達に「えー俺ショックやわ。」「びっくりしたよな。」とこれみよがしに大声で言われた。

食堂でも友達とご飯を食べているだけで、「あいつ可愛いのになあ。」「声低いよなあ。」「身長も低いし似合わんよなあ。」と男役をやっていることに対しての評価が会話に不必要な声量で飛んで来た。

学校外で顔も名前も知らない男子数人に囲まれて、恐怖を感じていたら連絡先を聞かれたこともある。

男女の比率が3:7くらいの学校だったので、選びたい放題のはずの男子が何故私を誉めるのか到底理解できなかった。

大学の時も、私のことを「端に座ってる顔の綺麗な子」と説明されていたと後から聞いた。位置情報と共に美醜も判別に盛り込まれたのはいかがなものか。

このような諸々を経験してきて、その度に
世間からすれば美しいのか?
自信を持って良いのか?
と思った。
しかしいくら鏡を見ても
にやついたゴリラがウホっているだけだ。
写真を見ても美しさは欠片もない。

ニンゲン、ゴリラ、スキ…?

ひたすら困惑の人生である。
もちろん美醜は個々の基準で判断されるもので、正解などない。
そう分かってはいるのだが、私は自分を美とする定規を持ち合わせていないのだ。
誉められてもお世辞か挨拶程度にしか思えないし、本気を感じるとどうしても
ニンゲン、ゴリラ、スキ…?
に戻ってきてしまう。

ちなみに男役をやってはいたが、低身長で全身のバランスは悪く、面長で目は小さく鼻は潰れて人中が長い。
美しい人間を見ると整形したくなる。
ドラゴンボールを集められたら8等身の男装も女装も似合う美形にしてもらいたい。

ただ、もし
もう一つ願いが叶うとしたら

外見は表情や感情を読み取るためのもの、という世界になってほしい。

美醜ではなく。

上記のように、私は勝手に自分の美醜ややりたいことを頼んでもないのに評価されてきた。私も、勝手に他人を〝あの人可愛い・かっこいい〟と評価して勝手に羨ましくなっているし、なにも感じない空間があるとすれば〝可愛くない・かっこよくない〟も無意識のうちに評価しているはずだ。
まず美醜を判断しようとする空気を無くさないといけない。

他人をジャッジすることを恥ずかしく思え。何様のつもりだ。

自分の呪いを解かない限り安寧の地は無い。

まあ〝笑わなかったら可愛い〟は全然気にせず寄席にネタ番組にバラエティーに全部大口あけて爆笑してるけどな!!!

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