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2年目の場面緘黙症啓発月間

 去年の記事を見返して、去年は緘動について深く書いたんだったな、と思い出しました。今年は、私の経験についてでも(需要があるかは知りませんし、Twitterと被るところもありますが)書いていこうかなと思います。

 まず、場面緘黙症を簡単に説明すると、決まった場面で声が出なくなる不安障害です。発症したときのことは、小さすぎて覚えていません。ただ、親が3歳のときからだと言っていたので、私は、3歳のときから15歳か16歳まで、この症状と付き合っていました。今もその気質は残っているし、10年以上話していなかったからか、急に話すようになったからか、家族以外と喋るときは喋り方がゆっくりになってしまいます。

 私には頑固なところがあるので、12年、13年も長引いてしまったんだと思います。昔から、喋りたいという気持ちはあったけど、変わったのは中3のときでした。中3のときに、給食の牛乳当番になって、他の当番は食器とかだから、何も言わずにできたけど、牛乳だけは冷蔵庫にあるので、クラスを言って、調理員さんに取ってもらわないといけませんでした。そこで当時の担任の先生に日記で「できないかもしれない」と相談して、「変わりたいという気持ちがあれば変われるぞ!」と返事をもらってから、本気で変わろうと思い始めました。

 結局、当番のときはおろか、中学生の間は、友達とは一度も声を交わすことなく卒業しました。逆に、声を出したときがあったのかというと、さっき、「友達とは一度も」と書きましたが、先生となら、1日だけなら、ありました。

 卒業式の1週間前の話です。その日は普通高校の受検前日で、私は高専に受かっていたので、私立や推薦の子と一緒に、昼まで大掃除をしました。私は帰りに担任の先生を引き止めて、これまでしていたように「さようなら」を言おうとしました。時間があるのは分かっていたので、心療内科でもらった頓服も飲んでいました。声を出す準備はできていました。あとは、体が勝手に緊張して、喉が開かなくなるのをどうにかするだけでした。

 本当に言うとなって、先生が私に耳を近づけてくると、表現しようのない感情が渦巻いてきました。さようならの「さ」が言いづらいことは、何度も練習して分かっていました。なので、「さ」を飛ばして言うことに決めると、全ての神経をそれに集中させました。

 そのときのことは、あまり覚えていません。ただ、小さく声が出た、それだけでした。覚えているのは、言えてからも何度も言おうとして、かどうかは確かではないけど、担任の先生が「給食が冷めるから他の先生に代わってもらう」と言って、3年間学年主任をしてくれた先生を呼んで来たということです。そしてその先生にも言うことができました。私は給食はなかったので、午後3時まで何も食べずに学校にいました。このときは、「喋りたい」という気持ちと、先生が言いやすい雰囲気を作ってくれていたことが私の少しの勇気を後押ししてくれました。頓服の影響は、あったのか、なかったのか、分かりません。

 次の日の、高専の合格者招集日も母と話せたり、入り口で、とか採寸のときに何度も名乗れたりしたので、入学したら本当に喋れるようになると思っていました。知り合いは1人もいませんでしたし。

 入学式が終わって、教室に入って新しい担任の先生が、「隣の人と自己紹介しましょう」と言ったとき、私はここしかないと思いました。

 結果から言います。声は出ませんでした。会話の経験がなさすぎて、というより、いろいろ考えているうちに時間が過ぎて、というより、ただ名前の1文字目しか頭になかったのに、それが出てきてくれなくて、私の挑戦はあっけなく終わりました。

 言葉を出そうとする直前までは、誰もいない廊下や階段で練習すると言えるので、自信はあります。そしていざ相手の前に立つと、恐怖が来て、言おうとしている言葉しか頭にありません。言えなかったあとは、悔しい気持ちで埋め尽くされて泣きそうになります。あと少しの勇気があれば言える、あと1ミリ喉が動けば言える、というところまでは、ほぼ確実に到達するのに、そのほんの少しの勇気が出ないのです。

 そこからは絶望の日々でした。筆談の生活で楽しかったこともあったけど、緘動といって、授業に入ろうとすると動けなくなったり、朝起きられなくなったりしました。「どうして私なんだ」とか、「神様はどうしてこんな子を創ったんだ」とか、たくさんのことを思いました。でも何度かさようならと言えたりしていました。

 そんな生活を続けているうちに、私は進級できなくなりました。転校することを決めて、お世話になった同じクラスのみんなに、最後に自分から作文を読みたいことを担任の先生に筆談で伝えました。そこから、私が喋れるようになるまで、担任の先生と授業担当の先生はもちろん、授業担当じゃない先生や、他の学科の先生にもサポートしてもらって、たくさんの過程を踏みました。はじめは全く読むことができませんでしたが、先生方はゆっくり、のんびり待って、応援してくれていました。

 まずは外で、絶対に私の声が聞こえない場所に担任の先生に立ってもらって、作文を読んでみました。それは私から提案した方法です。この方法では、離れているのに少ししか読めませんでした。

 そして、リコーダーを吹いてからだと声が出やすくなるんじゃないかと提案してくれた先生がいて、試してみると、まずリコーダーを吹くところから練習しましたが、その次の週にはもう、1文字ずつだったけど作文が読めるようになったり、私の声を聞いたことのない先生にもこんにちはと言いに行ったりしていて、リコーダーが私には合っていたんだなと思います。

 ここからは急成長でした。担任の先生と二人だけの教室で作文を読めたり、その日に2回最後まで読めたり、次の日には、先生の質問に、筆談ではなく声で答えることができたりしました。質問に答えるのは、オープンクエスチョンです。どういう過程を踏んだのかというと、筆談ノートに書いた文を見てもらってから、そのまま読んだのです。それで、思ったことを言えるようになって、そのあとどこにも書かずに、質問に答えられたんです。大事なのは、自分で「できる!」と思うことと、「喋りたい」という気持ちだと思います。あとは、あと少しで言えるというところまで行ったら、勇気をかき集めることです。

 そして作文の本番の日、終業式の日がやってきました。私が話し出すまでに与えられた時間は3分でした。担任の先生が私に繋いで、教卓の前に立ったとき、これまでの努力が全て勇気に変わりました。はじめの一言が出てくるまでの体感は3分でした。多分、時間はぎりぎりだったと思います。担任の先生に渡したカメラで動画を撮ってもらっていて、たまに見返しますが、声が後ろまで届いていたのかどうかも怪しいです。でも、全て読み切りました。

 読み切ったのは読み切ったので、そのあとから、転校はしてしまいましたが高専では筆談ノートは使わずに喋れるようになりました。教室のみんなが暖かく待っていてくれたこと、最後に誰からともなく拍手をくれたことは今までで一番の思い出です。

 私は、周りの先生に恵まれていました。中学は卒業して、高専は転校した今も、いろんな先生と交流があります。そこに助けを求められたのは大きいと思います。いつ研究室にお邪魔しても、嫌な顔1つせず受け入れてくれた高専の先生方には感謝でいっぱいです。

 そのたくさんの先生の中で、担任の先生と同じくらい仲良くしていた先生が教えてくれたのは、「場面緘黙は病気じゃないから、治ったとかじゃなくて、ただ声を取り戻しただけ」ということです。これはその先生の持論だし、本当の信頼関係がないと言えないことだと思いますが、「失敗に見えることでも、そのあと悔しいって思えるから、次があるし成長に繋がる」というのは、失敗が怖い全ての人に伝えるべきだと思います。

 もし、これを聞いてくれている人が、場面緘黙症で悩んだり、苦しんだりしているなら、私は偉いことも、すごいことも言えませんが、味方は必ずいることを知っておいてほしいです。私も、中2のときは生きているだけで精一杯でした。でも、生きていたから、今こうして、少しでもみなさんの希望になれているんだと思います。リコーダーは、あくまでも一例です。自分を信じて、それができなければ信じてくれる人を探して、自分に合った方法で声を取り戻してほしいと思います。少なくとも、私は場面緘黙症がある全員に、声を取り戻せる能力や、機会があると信じています。誰も信じてくれないと思ったら、私のことを思い出してください。

 私は、喋れるようになった今は、「夜のあさがお」という場面緘黙症の人たちの居場所を作ろうとしています。英検2級も面接を受けて一発で受かりました。日々、いろいろなことをたくさん積み重ねていって成長しています。成長が実感できたときは、とても幸せです。ぜひ、自分に合った方法を見つけてください。そして、喋れるようになる喜びを、これは場面緘黙症の人にしか味わえないと思うので、ぜひ体験してみてください。これで私が何かの役に立てたなら、嬉しいです。長くなりましたが、これで終わりにします。

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