関ヶ原で一人からの共に生きると言う意味

7/14 シアターグリーンで公演された 関ヶ原で一人を鑑賞してきました。

歴史に翻弄されながら、現代の歴史教師である主人公は、大好きな戦国時代にタイムスリップし、あの小早川秀秋になってしまいます。石田三成が大好きなのに、それを裏切った小早川秀秋になるというところから話は展開していきます。

熱量が半端ない試合でした。いや、試合と書いてしまうほど、演者一人が戦うような気持ちで演じていらした。笑い、泣き、そして感動する舞台。

今まで沢山の舞台を見てきましたが、5本の指に入る面白い舞台でした。

だから舞台は大好き!

あー生きててよかった!!!

ところで、これは私の考えですが「なんのために生きているか」が根幹にあるテーマなのかなと。これはこの世に生を受けている人間すべてのテーマだとも言えます。

なんのために生きるか、家族のため?友人のため?ペットのため?推しのため?


違います、自分のためです。


ここ数ヶ月、私は自己肯定が出来ずにもがいていました。自己否定、比較と言う無意味でネガティブな感情が間欠泉のように湧き上がっていました。

私の尊敬するある人は、「ネガティブな感情なんて無視よ無視!」と。ついそこに理由や意味をこじつけてしまいがちだけれども、感情とは一時のもので、過ぎては流れていくものだから、その意味のないネガティブな感情に翻弄されて行動するなと。

今となっては本当にその意味がわかるのですが、燻っていた私には聞こえるはずもなく。

自己肯定が出来ない私は、自分のすることに全然自信が持てず、絵を描いてることにすら疑問を抱いてしまっていたのです。「目標があって描いてる訳ではない」と言う理由をつけて。

じゃあ何故描くのかと言ったら、描きたいからです。描きたいから描いているんです。そこに意味や理由はありません。

そんな当たり前のことに気づいたのは、熱量も冷めやらぬ舞台後のことです。

今回の舞台を知ったのは、島左近役の吉田宗洋さんを見たいなーと思いチケットをとったとこからはじまりました。

お会い出来るこんな機会も無いだろうと、自分の絵をプレゼントにしようと持ってきたのです。

ご本人とお話してみると、ツイッターで絵のことを認識されていて、喜んで頂けた?かなと。その反応を見ていて、あれ?何故私こんなに自己否定していたんだっけと思い返したくらいです。その時にスパーンとネガティブなものがふっ飛んでいきました。

彼が非常にホスピタリティー精神溢れる方で、誰にでも平等に(慈愛的な)愛をプレゼントしてくれる粋な方だったからとも言えます。

人間には人生で何回か頑張りどきがある、というのは一緒に行った友人の言葉ですが、頑張っていると、こういう感じでたまにサプライズゲストとサプライズギフトが訪れる。

先程の自分のために生きるという意味ですが、自分のため「だけ」に生きるということではありません。それはただの満たされない自己アピールです。

人間は相互に研磨し合っていく存在だと思っています。共存共栄、共生創造、共に生きる。

そんな中で、自分という存在が自分自身を受け入れて自分の本来目的とした道をワクワクしながら進む、それが人生かなと思っています(私は)

それが「今を生きる」ってことなのかな。大好きな仲間たちと共にね♡

長文失礼しました。

読んでいただいた方ありがとうございます。


思いの丈を綴ります