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典子伝—『典子奇跡』―2022/12/23―

「はらの内にケシほどもはづかしみがなければ
 なんと此の上もない、楽しみではござるまいか」
どうしてそこで曲がったのだい。地は皆の内にあって地は皆の外にあって太陽の光は、それら麦と稲とバナナと栗と—―。喜びは形ばかりの闘牛を永く忘れる事よりも、今そこで心は曲がったではないか。地上を行く者の泪は苦しみは愛は、ほらそこで君は曲がったではないか。何が言いたいのだ。典子は間違いなく奇跡をやりとげたではないか。

だまれ、いいやだまる事はできない。拈華されたその意味を問わねばならない。白い煙草の灰は舞い上がって行く。地に身を埋める者は、草の種を親し気に見つめ愛する者は、けれど滝の音が、蝶の羽の向こうから聞こえる。そして耳の中に指を入れて風を入れて魂を入れて、口は開かねば。閉ざせよ、まだ行く事は許す。決して名前を告げよ。いきだ行く事は終了の気配。石ころの乾ききった道に影を追い、日はすでにころげ。

典子は一本の枝を手にして野にいでし、誰の為でもなく、万人の為に、彼女は眠らず、世界は典子を眠り、眠りはかたかたと。地に刺すべき杭はなし、死すべき命はなし、いまだかって誰もそれを告げず。野に道に草に葉に、誰一人それを見ず。
 今は海が遠ざかる、典子の手は握られたまま、だが道はそこで曲がっている。いるはずの草の色と霞の中の虫と、ともに雲の光が渡す典子の道。
 エニシダの花は口のまわりに黄色く影を落とし、何故そこで君は裏切ったのか、けだし道は泉ではなく遠く去りし海も又道ではなかった。遠くはるかに遠く見よ、杖をつき山並みの中へと、誰であろうか踏み入らんとする者。たった今翳りは追いつくその人は影の中へ。

確かに典子は地に一本の枝を立て、そこより泉の湧き出るを示した。街は曇り用水路は曇り空を映してとどまっていた。どこに一本の煙草を求めれば良いのか。隠されている、何かが何かを遠くへ、のぞめば遠くへ、典子は手を投げよ。きざはしの島へと、弓と矢の擦れ合う音、波が海を呼ぶ声、いだく時の重さ、あまつさえ鳥の脚。ある時、何のうらみもあるまい、誰かの手で土を描くその明日、地に泪と悲しみを深めんとする者はやがて、来る。

輝く事もない、道は今だに海へ通じる事がない。
草地と岩と目玉の奥地へと、川は蛇行する。数える石の形は白さ、どこにとどまる言の葉か。
だます事はできない。

どの様にしてそこで曲がったのか。その一足と二足の間に何が必要であったのか。河風の息をする魚を胸中に貯え、息は谷の向こうを通る。すべての内にあって、そこは風のとどまる処、どの様にそこは曲がっていたのか。草は草の根を巻き取り、命の幹は枝をふやす。風は、ああ風は、ああ、とどまる風の目玉、とどまる言葉の脈搏の一つ一つ。
 奇跡であった。青い花の雫を飲み、典子の髪を梳いている。心に何一つ隠す処がないならば。典子は道の辺に横たわり、すずらんの花をながめていた。