大地は揺れる

正月早々正月気分が吹っ飛ぶことが起きた。

そう、能登沖地震のことだ。

今回も又、被害が大きい。

もう何回となく経験している地震、その度に色々なことを学んで、被害を最小限に留まるように智経を得ようとするが、こういう理由で被害が拡大しました、という問題が尽きることがない。

正月早々地震が起きたことは過去にないそうだが、かと言ってだから特別ということでもない。今をもってもそれだけ地震予知が困難だからだ。いつ何時起きてもおかしくはない。タイミングの問題だからだ。台風やその他の自然災害と大きく違うところはそこだ。


大地は揺れる。


長く日本列島に住んでいる私達は古代から認識している。大地は揺れるものであり、規模によっては隆起し陥没し、割れるものであることを。

山は噴火し、海は時に津波となって襲ってくることを。

メカニズムなんて知らない。知ろうともしなかった。ただ、そういうものである、というのを受け止めて対処するしか方法がない、ということを。

メカニズムを知ったところで止められるものでもないのだが、日本の地震研究は明治からである。それも文明開化で日本に長逗留することが増えた西洋人が横浜で地震に遭遇し、パニックに陥ったことがきっかけらしい。


そう、全ての人間が地震に遭遇しするわけではない。人生でせいぜい数回の遭遇だけでこの世をさっていく人もいるのだ。

大地は広く雄大であり、おおよそ揺れる、隆起陥没する、時には割れることがある、と思いもよらなかったのだ。この世の終わり、地球が割れる、そう思ってしまっても無理はないだろう。

片や日本人はメカニズムは知らなくても大地なんて時折揺れるものだ、ということを知っていた。

諸行無常と言ってもいいだろうか。権力者の栄枯衰退だけではない、自然そのものがそういう理の中にある、ということを日本人は知っていた。
地震の前では権力者も゙貧乏人も゙何もない。

運命共同体。

この違いもまた、思考、つまり宗教観にかなり大きな影響をもたらしているのではないか。



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