私が某宗教にはまらなかった理由∶その2

毎回宗教新聞を発行していて、買ってもらっていたという話をしました。

私が某宗教にはまらなかった理由https://note.com/04tomihajime13/n/n6be1999c9543

相手が買って、そしてくれているんだからもらっておけばいいじゃんと思うかもしれませんが、人間意外と複雑?にできています。

いくら向こうが勝手にやっているとはいえ、毎回奢られているばかりでは気が引ける、そんな思いしたことありませんか?たまには返しておかないと、相当図太い神経の持ち主でなければそう思うのが普通です。

私が一回ひとりで行ってみたのも毎回連れていいってもらっている、そういう負い目があったからです。

当然新聞の件もそういう思いが私の中に蓄積していました。だから断ろうにも断りにくい状況が生まれつつあったのです。心理学でありましたよ、そういうの。うまく使っていたのではないでしょうか。徳の一種とか言って。

なんだかよくわからないのですけどね、何人か入信させると位だかなんだか上がるとかなんとかあるみたいなんです、知らんけど。上、がいて説教させられるみたいです、知らんけど。
だからせっかく入信した私があまり熱心ではない(はじめはそうでもなかったのに)ので焦りもあったのかもしれませんが。
特有の抜けると悪いことが起こる的な話があったように思うのですけれどね。

鬱からはかなり快復していた私はもうここは必要ないって感じていました。仏教嫌いじゃないです、むしろ個人的には一番しっくりくる教えだなと思いました。でもここじゃない。

誘ってくれた相手の信心を壊す気も全く無かったから、やんわりと断っていましたし、でも相変わらず日曜日は働いていましたし。

ただどこからそういう話になったのかは覚えていないのですが幽霊だか心霊だか、そんな話になったんですよね。先祖供養の話かな。
なんだかはっきりと思い出せないのですがそこでこの宗教がどうこうのって話になったので、そしてたまたまHONNKOWA、そう私がほぼ毎回買っている雑誌がそういう話で、この雑誌の筆頭と言っても過言ではないお方、寺尾○子さんの話があったのでその話をしたのです。
勿論相手は反論しますよね。たまたまじゃないのとかエセじゃないの、とか。
でも長年読んでいる私。たまたまではないし、架空の人物でもないし、そもそもエセや架空だったらこんなに長く続いてないでしょうって話をしたんです。破綻もしていない。多分本物だろうって。

そしてある日。我がボロ屋にあいかわららず誘いにきました。毎回のことですが例の新聞必ず置いていくんです。
「お、いつもありがとう。いつも買ってもらって悪いから、この間言っていた霊能者さんの話の載っている雑誌、漫画だから読みやすいと思うよ読んでみて。読み切りだから」と、溜まっていた数冊渡してあげました。いつも買ってるからまた溜まったらあげるよ。新冊でも解決した話しか描かないから古いとか新しいとかあまりないし。

2回くらいそれやったら来なくなってしまったんですよね。私も結婚して引っ越したからもう家にも来ないし。

一時期仕事先(スーパー)に何度かきたんですけれど、全然みなくなりました。

漫画の影響受けて本人も脱退してしまったかな?

それともこの人はもう無理って諦めたかな

それはわかりませんが。

そう言えばこの雑誌、心霊体験もさることながら宗教がらみの案件も多くてこの寺尾○子さんはじめ各怪しい宗教と対決したりする回も多々あるんですよね。

私の知る限りこのHONKOWA旧本当にあった怖い話は私が高校生の頃にはもう創刊されていたはずなのでかれこれ三十年以上です。これだけ続けていられるって絶対嘘じゃないと思うのです。そして寺尾さんもレベルが上がっているのがとても面白い。

こうして鬱回復期という危うい時期にも関わらず、某宗教にはまらなかったのです。

ちなみついで、なのですが、鬱時に医者には行かなかったけれど専門家の力は借りよう、とカウセリングを受けに行ったのですが、それはこのHONKOWAに載っていた所です。読者だったらしくて、ここなら信頼おけるって思ったのです。

そして、音信不通になってしまったコウさんの「就寝10分前の感謝」を信じたのはその前のこのカウセリング受けた人の「必要な時に必要なモノ・コトに出逢える」という話です。

コウさんは私に就寝10分前の感謝をしなさい、という行為を授けて去って行った。

某宗教はその感謝の言葉としての文々と、自己肯定感、あるものを数える、感謝することのより強化化をはかるために現れ、そして必要ないことは断っていくことの試練みたいなことを与えられたと今は思っています。

普段の生活でも、いや、産まれてから段々に成長していく過程で、必要なことを学びとったらそこからは卒業をする、ということの繰り返しが生きるということ。それは学校という学びの他にも、自立とか親離れとか様々な言葉で形容されていて、それは死ぬまで、いや来世に来来世に繫がっていく。その最高値が悟り、なのかもしれません。(というのが仏教の根本なのではないかと)

別の本でも、結婚とは、生まれついた家族で学び、巣立って更に自分の理想とする家族を求めるのが結婚だ、というようなことが書いてありました。なんだかわかるような気がします。

ちなみついでにもう一つ。某宗教の勧誘がしつこいのは教えの中の一つにあるのです。相手の考えをあらためさせて正しい方向、つまりはこの宗教の教えが正しいと認めさせることでこれを「折伏」と言って、とっても尊い行為にあたる(と信じられている)からなのです。過去に、この宗教が起こった時代だから奈良時代ですかね、この教えを広めたらお上に捕らえられて命まで落とした、でも本当に正しい(と信じている)教えを広めるのに妨害は必ずあるもので、それは逆にこの教えが正しいことの証明、現代は教えを広めるのに命取られるようなことはない、これ即ち少しではあるが世の中が正しい方向に向かっているから、信者が減ることこれ即ち世の中が悪しき方向に向かっているから。
熱心な信者ほど焦りもあるし強引さも出てきますね。






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